『歌謡(うた)つれづれ』007
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■ ■    歌謡(うた)つれづれ−007 2001/02/22 ■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■    ★ まぐまぐで読者登録された方へ送信しています。★ ************************************************************ □□■ 金素雲『朝鮮民謡選』と日本の歌謡(1)■□□                  森山弘毅 金素雲訳編『朝鮮民謡選』をご存知ですか。昭和8年(1933)に、朝 鮮(当時)の25才の青年金素雲によって日本語に翻訳され、岩波文 庫に収められたものです。同じ年に姉妹篇の『朝鮮童謡選』も彼の 訳編によって同文庫で出版されています。昭和47年(1972)に40年 ぶりで改訂版が出て、いまはそれを手にすることが出来ます。 実は、彼の日本語訳の朝鮮民謡が世に出たのは、これが初めてでは ありません。昭和4年(1929)に『朝鮮民謡集』というのを出版して いるのです。北原白秋の序文を得て、装丁が岸田劉生の原画で飾ら れています。当時21才だった金素雲を、日本の名だたる詩人・画家 たちがこぞって励ましていた様子がうかがえます。 白秋は彼の日本語訳の草稿をみたときから絶賛しています。その辺 の事情は、『朝鮮民謡選』の旧版に金素雲が記した「覚書」に詳し いのですが、改訂版には消えていて残念なことです。白秋の序文も ながい間埋もれていたのですが、『朝鮮童謡選』の改訂版の末尾に 金素雲の意志であらためて収められました。師とも敬愛する白秋へ の思いが40年ぶりにあらたな形になって伝えられたといってよいで しょう。その一部を引いてみます。 たとえ幼より日本語の教育を受け、日本文学に親しく通ずるものが あったとしても、第一に国民性、第二に言語の懸隔が甚しい。その 朝鮮の民謡を、この日本の歌謡調に翻訳することの難事は、凡そに 推察されよう。それをしも金君は易々と仕上げている。日本の語韻 、野趣というものをその詩技の上に渾融せしめている。時には小面 憎くさえ感ぜしめる「持ち味」の中にまで滲透して来るものがある 。(北原白秋「一握の花束」岩波文庫『朝鮮童謡選』) これは、白秋の「舌を巻く」ほどの讃辞、といっていいですね。こ の『朝鮮民謡集』の日本語訳の大変な好評が、4年後の岩波文庫『朝 鮮民謡選』へのきっかけになったことはいうまでもありません。こ の文庫版には、彼がその4年間に全情熱を傾けて採集した約3000首の 民謡のなかから選んで、新たに翻訳したものが主として収められて います。 私は全くハングルを読めませんが、彼が訳した美しい日本語の朝鮮 民謡をいくつか、日本の歌謡と併せ読みながら味わっていきたいと 思います。 ************************************************************ ▼△▼ 『朝鮮民謡選』より ▼△▼ ◎なんとしましょぞ  梨むいて出せば  梨は取らいで  手をにぎる (梨・意訳謡U)                     (岩波文庫『朝鮮民謡選』) ************************************************************ 「意訳謡」とあるのは、逐語訳によらないということですね。彼に は当初から朝鮮民謡の心を、白秋風に言えば「日本の歌謡調」に移 そう、という思いがあったことがうかがえます。七七七五の近世調 のリズムに整えられて、もともとの日本の歌かと見まごうばかりで す。日本語になんの不自然さがないばかりでなく、日本歌謡の発想 をそのまま踏んでいることにも驚かされます。 日本の上代歌謡には次のような歌垣の歌があります。 ************************************************************ ▼△▼ 『肥前国風土記〈逸文〉』より ▼△▼ ◎あられふる杵島(きしま)が岳(たけ)を  峻(さが)しみと草採りかねて妹(いも)が手をとる ○(あられふる)杵島が岳が  険しくて、つかもうとした草もつかみかねて、   つい愛しい妹の手を握ってしまったことだよ (日本古典文学全集『古事記 上代歌謡』小学館) ************************************************************ 「梨は取らいで/手をにぎる」という句は、この歌の「草採りかね て妹が手をとる」と同じ発想の歌謡の型ですね。歌垣では、こうし た「口実」で思う女の手を握って思いを遂げようとしたようです。 この歌には記紀歌謡・万葉歌にも類歌があって、日本の伝統的な「 (女の)手をとる」歌の型といえます。 朝鮮民謡にもこうした歌の型があるのかどうか、私は不明を恥じる ほかありませんが、金素雲が日本歌謡の型を踏んだ発想で訳出して いることは確かなことといえますね。 それから「梨は取らいで」の「いで」が否定語としてさりげなく用 いられているところなども、「日本の歌謡調」の自然さがよく出て います。この「いで」は「音もせいでお寝(よ)れお寝(よ)れ(静か にやすんでいらっしゃいな)」(閑吟集237番・新日本古典文学大系 『梁塵秘抄 閑吟集 狂言歌謡』岩波書店)などのように、本来は 「音もせずて」「音もせで」となるべきところを、「音もせいで」 と歌謡などの口語口調の言いまわしで用いられた、中世末から近世 頃までの否定語です。金素雲は、「梨は取らいで」に、実にさりげ なく中世以来の古語の口吻を生かしている、といえますね。これは 、白秋が「日本の語韻、野趣というものをその技法の上に渾融せし めている」といっている評言にも、ぴったりです。 「語韻」ということでいえば、もう一つ、「なんとしましょぞ」の 初句も、実に味わい深い句です。差し出した梨ではなく、突然手を 握られた女の戸惑いの言葉ですがー、しかし、これは困惑し切って いる、という風でもありませんね。はずかしくもうれしい戸惑い、 というところでしょうか。 この句の口調にも閑吟集「そヾろいとほしうて何とせうぞなふ(む しょうにあなたが愛しくて、どうしたらいいのかしら)」(282番の 末尾)の「何とせうぞなふ」の口吻が重なっているように思われま す。閑吟集の女の思いは激しいのですが、うれしい戸惑いの口調に は変わりなく、この「なんとしましょぞ」の句にも彼方からの脈絡 が通じているように思われます。 こうしてみると、『朝鮮民謡選』には、日本の古典歌謡の味わい深 い余響が移し伝えられているようにも思われて来ます。では次回担 当の折には、また『朝鮮民謡選』で−。 ************************************************************ ▼ ひ と こ と ▼[前号配信数/188] 民謡集、それも「朝鮮民謡集」の日本での出版には、かの北原白秋 などもかかわっていたのですね。今回の原稿を読ませていただきな がら、私も岩波文庫をひもときたくなりました。 17日に行なわれた例会では、中国からの留学生の牛さんのたいへん 興味深い中国歌謡つにいての発表をお聞きすることができました。 周辺民族の歌謡の姿が明らかになるとことで、いろいろと見えてく ることがありますね。(編) ************************************************************ ▼ ご 注 意 ▼ このメールマガジンは、歌謡研究会のメンバーが交替で執筆してい ます。よって、できる限り学問的な厳密さを前提として記している つもりですが、メールマガジンという媒体の性質上、かなり端折っ て記さざるを得ません。ここでの記述に興味をお持ちになり、さら に深く追求なさりたい場合は、その方面の学術書などに直接当たっ ていただくようお願いいたします。 各号の執筆は、各担当者の責任においてなされます。よって、筆者 のオリジナルな考えが記されていることもありますので、ここから 引用される場合はその旨お記しください。 また、内容についてのお問い合わせは、最後に記される執筆担当の アドレスにお願いいたします。アドレスが記されていない場合は、 このマガジンに返信すれば編集係にまず届き、次に執筆担当者に伝 えられます。それへの返答は逆の経路をたどりますので、ご返事す るまでに若干時間がかかります。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ □電子メールマガジン:「歌謡(うた)つれづれ」 □まぐまぐID:0000054703 □発行人:歌謡研究会 □E-Mail:suesato@mbox.kyoto-inet.or.jp(末次 智、編集係) □Home Page: ■ http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ ■ suesato/kayouken_hp/kayoukenhp.htm ■ ※購読の中止、配信先の変更は上記Webから可能です ■ ※また、歌謡研究会の例会案内・消息、会誌『歌謡 ― 研究と ■ 資料 ― 』バックナンバーの目次も、ここで見ることができ ■ ます。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



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