明日はきっと・・・





 カリッ、カリカリカリ。
 静寂に包まれた部屋に、紙の上を滑るペン先の音だけが聞こえる。
 が・・・、その静寂が破られるのは、いとも容易い。

「だぁーーーー、もうダメだぁ!」

 有利は走らせていた羽ペンをペン立てに戻し、巨大な魔王専用机にぱたりと突っ伏した。

 ここ連日、冬季決算の事務処理の上に降雪対応に要する人員配備などの作業が重なり、魔王陛下の元には決裁を要する書類が次から次へと送られて来ていた。朝からの容赦ないサイン攻めに黙々と作業を続け、そんな主の健気な姿に感極まり、汁塗れになった王佐で大騒ぎし一時中断。壊れた養父にも容赦ない、鬼軍曹ことギーゼラを召喚して強制退場させたのが半刻前。やっと静寂を取り戻し、二山ほど片付けた所で視線を書類から上げると、またどこからともなく次の山がやって来ていた。それを見た瞬間、とうとう有利の集中力はプツリと途切れた。机に片頬をくっ付けたままぐったりと脱力し、顔を上げる気力もなくしたような主の姿に、すぐに不機嫌そうな低音が反応した。

「何がダメなんだ?」

 恐る恐る顔を動かし横目でチラッと伺うと、眉間に深い皺を刻んだフォンヴォルテール卿のギロリと音がしそうな程の視線が有利に突き刺さる。有利はそれを見なかった事にする。

「もう5日だよ、5日!俺、この城から一歩も出てないんだよ。城どころか中庭にすら出てないんだよ。この執務室と俺の部屋の往復だけ。降り続いてる雪で朝のロードワークにすら行けてないし・・・。身体がごっちごちに固まっちゃってて、もう俺の脳ミソ今にも爆発しそうなんですけどぉ~!!」

 物騒な事を言う主に宰相が眉間の皺を深め、走らせるペンを止めることなく深々と溜息を吐く。その気配に、机に懐いたままの背中がビクッと反応した。

「それはお気の毒ですな。しかしながら、陛下におかれては、このうず高く積まれた紙の山が決裁済みの書類かとお思いか?」

 魔王以上に魔王らしい威厳を湛えた宰相閣下の殊更丁寧な言葉遣いに、有利は物凄い勢いで顔を上げ、表情を引きつらせてぷるぷると首を振った。

「いえいえ、決裁どころか、まだ指一本触れていませんデス。」
「ご理解頂けておりましたか。それでは陛下、引き続きご署名を。」
「分かった、分かったからグウェン、そのバカ丁寧な話し方止めて。心臓に悪い。」

 グウェンダルはふんと鼻を鳴らした。

「分かっているなら小僧、さっさとその書類にサインしろ。」

 鋭く光る青い瞳でじろりと見下ろされ、有利は思わず椅子の上で上体を反らせる。宰相の圧倒的な迫力に、偉大なる魔王陛下は唇をひくひくと震わせて情けない表情を浮かべた。

「まあまあグウェン、陛下も連日の激務でお疲れなんだ。作業効率の為にも休息は必要だよ。」

 背後から、すっと差し出された助け舟。頼もしい保護者のその声に、有利はなんとか勢いを取り戻し、有り難くそれに乗らしてもらうことにした。

「そうそう、休息は必要です。」
「休息だと?壊れた王佐のお陰で中断した執務が再開したのが、ほんの半刻ほど前だぞ。」
「いや、グウェン、あれは中断であって、休息ではなく混乱だろ。実際あの時、陛下はギュン汁から書類を守るのにかなり疲労度が増されたようなご様子だし。」
「・・・・・・・」

 その時の惨事を思い出したのか、無言のままの宰相の眉がピクリと動く。

「少し執務机を離れて、気分を切り替えることも大切だよ。」
「そうそう、コンラッドの言う通り。別に執務室から逃げ出そうとか思ってないし。ちょっと休憩したかっただけなんだからさぁ。ね、グウェン、・・・・ダメ?」

 上目遣いに見上げる漆黒の瞳。小動物を思わせるその瞳の威力に、今度はグウェンダルが思わず上体を反らす。苦々し気に眉間の皺を一層深めて口元を歪め、フォンヴォルテール卿は小さく咳払いした。

「勝手にしろ。」

 この国の宰相は、常に厳しい言葉を向けているが、その実ことのほかこの少年王に甘い。そんな宰相閣下のウィークポイントを、本人は無意識ながらの上目遣い一発で見事に攻撃され、どこか投げやりに声を上げる長兄にコンラートは苦笑を浮かべた。その笑顔を主を気遣う優しげなものに変え、コンラートはこの勝負の勝者である魔王陛下に向き直った。

「では、お茶をお持ちしますね。」
「うん、お願い。」

声に出さずに口の動きだけで、名付け親に『ありがと』と伝え、有利はニッコリと微笑み返した。

「では陛下、暫しの間御前失礼します。」
「陛下って言うな、名付け親。」

 臣下の礼を取って退室しようとする護衛に、有利は不満げに声を掛けた。そんな主に穏やかな笑顔でいつもの台詞を返し、コンラートは執務室の扉へと向かった。その後姿を見送り、有利は柔らかな笑みをグウェンダルに浮かべる。

「ありがと、グウェン。」

 それに頷き返し、眉間の皺を更に深くした宰相は、視線をまた書類に戻した。有利はその様子を見て少し微笑み、一度大きく伸びをする。そして、目の前の山から書類を一枚取り上げると、羽ペンを手に取り、自らもまた紙面に視線を落とした。


***


「やっぱり、疲れた時は甘い物だよなぁ~。」

 地球で言うロールケーキの様な菓子を一口頬張り、有利は満足げにうんうんと頷く。そしてケーキを飲み下し、お茶のカップを傾け喉に流すと、双眸を閉じほうっと息をついた。そんな自分の姿をジッと見つめる優しい瞳に気付き、有利はふと瞼を上げる。正面のソファーに座り、口元に柔らかな笑みを浮かべて自分を見つめている護衛と目が合い、慌ててパッと目線をケーキに移した。

「う、美味いよコレ。」
「それは良かった。」

 パクパクとケーキを口に運ぶ主の姿に、コンラートは笑みを深める。手にしていたカップをソーサーに戻し、傍らにある皿に手を伸ばした。

「まだ少しありますが、召し上がられますか?」
「いや、もういいよ。ごちそうさま。」

 有利は最後の一欠を食べ終わるとフォークを皿に置き、軽く両手を合わせてペコリと頭を下げる。コンラートは魔王陛下の律儀なその姿を微笑ましく見やり、空になった有利のカップにお茶を注ぎ足した。

「ありがと、コンラッド。」

 手際良く茶器を操る指先。剣を操る時に似た、隙のない洗練された動き。透き通った赤褐色の液体がコンラートのカップも満たして行くのを眺め、有利は短く礼を言うと、ふんわり柔らかな香りが立ち昇るカップを手に取った。ベルガモットに似た香りが、気分をゆっくり解してくれるようで心地良い。程よい温度のお茶を飲みながら大きな窓に目をやると、ここ連日降り続いている雪は少し勢いを弱めていた。

 お茶の用意が整った所でヴォルテール領の所用で呼び出され、グウェンダルはお茶だけ流し込んで慌しくこの部屋を後にした。今、この部屋には有利とコンラートの二人。久し振りに二人きりになり、どこか不自然な静寂に支配された空間に、有利は少し落ち着かなさを感じていた。常に感じる包み込むような温かい眼差し。居心地が悪いわけではない。むしろその眼差しが心地よく、自分一人の為にあって欲しいと感じている、そんな自分に戸惑っていた。

「少しは疲れが解れましたか?」

 優しく労わる様な声に顔を向けると、予想通りの柔らかな笑顔を浮かべたコンラートの顔があった。その笑顔に安らぐ心と裏腹に、鼓動が激しく波打つ。

「うん。お陰さまで、ギュウギュウに縮こまってた俺の頭ン中も、なんとか生き返りました。でも、まだアレを片付けなきゃいけないんだよなぁ・・・・。」

 誤魔化すように向けた視線の先に映る書類の山に、有利は情けなく眉を寄せ大げさに溜息を付いた。そんな主に護衛は苦笑を浮かべる。

「アレは仕方ないとして、グウェンがこの部屋に帰って来るまではゆっくりしていて良いですからね。」
「やっぱ、アレは仕方ないのか・・・・・。」
「仕方ない、ですね。」

 眉を下げ肩を竦めて見せる名付け親に、有利はがっくりと脱力しカップに残ったお茶を飲み干した。
 また包まれる静寂に、有利の視線はすっと窓に向かう。外は真っ白で、雪は弱まったとは言えまだしんしんと降り積もっている。

「・・・・・コンラッドは、今日は、仕事ないの?」

 雪の降る様子をジッと見つめたままポツリと呟いた有利の声に、三杯目のお茶をカップに注いでいたコンラートの手が僅かに乱れ、ポットとカップが触れ合いカチャと小さな音を立てた。茶器をゆっくりとテーブルに戻し、コンラートも主に習い窓の外を見つめた。風が窓を揺らし、記憶の欠片を宿して舞い落ちてきた雪の華を、そっと吹き流していく。

「俺の仕事は、陛下の護衛ですよ。」

 有利が落とした言葉に、コンラートは小さく笑って答えた。

「俺は、陛下の為だけの護衛です。」

 コンラートは真摯な瞳で真っ直ぐに有利を見つめ、もう一度、確かめる様に、そして有利に誓うように告げた。

「そっか・・・・、そうだよな。」

 有利は口の中で何度も呟き、やがて照れたようにへへへっと頬をゆるめた。

「そうだ、陛下。」
「陛下って言うな、名付け親。」
「失礼、ユーリ。明日もし雪が止んだら、俺と出掛けませんか?」
「出掛ける?出掛けるって、城の外へ?」

 きょとんと首を傾げる漆黒の瞳の持ち主に、コンラートはにっこりと人懐こそうな笑顔を浮かべ、当然のように頷いた。

「ええ、城下へ。」
「出掛ける!出掛けマス!!出掛けさして下さい!!あっ・・・・・、でも、仕事は?」
「今日の内にユーリが頑張ってくれたら、俺がグウェンに掛け合って休みを捥ぎ取ってみせますよ。」
「ホント!?」
「ええ、嘘はつきません。今日一日だけ頑張れますか?」

 すぐ至近距離で、優しく覗き込んでくる銀の虹彩を浮かべる瞳。

「が、頑張りマス。」

 有利はドキマギとうろたえ、慌てて首を縦に振った。
 直後、コンコンと軽く扉を叩く音が広々とした部屋に響き、すぐに扉が開かれた。

「遅くなり、すまなかった。」

 重低音と共に入って来たのは、この国の優秀な宰相。フォンヴォルテール卿は未だソファーで寛いでいる魔王陛下を一瞥し、その手に持っていた書類の山をドンと正面の執務机の上に置いた。

「ゲッ!?」

 また高々と積まれた書類の山を見上げ、有利は思わず呻き声を上げた。

「陛下、そろそろ執務を再開しても宜しいですかな?」
「はい!宜しいでございますデス。」

 不機嫌そうな眉間の皺に、腹に響く低い声。魔王と言えどこれに逆らえる訳はなく、有利はソファーから立ち上がりいそいそと執務机に向かった。立派過ぎる椅子に座り、目の前にそびえ立つ書類の山に溜息を零す。救いを求めるようにいつの間にかいつもの位置に立つ背後の人に目を向ければ、コンラートの口元は『がんばって』と無情に動くだけ。また零れる盛大な溜息。

「人間、死ぬ気になれば何でも出来るハズ!・・・・・魔族だけどね。」

 有利はそう呟き、がばっと羽ペンを掴んで書類に顔を向けると、猛然とサインを開始した。






okan

(2010/02/01)