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あなたの傍に
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「閣下ッ! ウェラー卿コンラート閣下!」
慌しく自分を呼ぶ声に、コンラートは手にしていたこの辺りの地形図から顔を上げた。指令本部代わりにしている宿屋の方から、酷く焦った様子で部下の一人が駆けてくる。
「眞王廟から白鳩便での緊急連絡です!」
「眞王廟から・・・・?」
国の重鎮しか知らない事だが、今この国の主は不在だ。このタイミングで眞王廟からの火急な連絡と聞き、それだけで王の寵臣であるコンラートはその白鳩便が告げているであろう内容をほぼ予想できていた。そう、魔王陛下の帰還だ。故にコンラートにとってその報告で問題なのは、彼は何処に帰還したのか、無事なのか、である。今回魔王が地球に帰ったのは自らの意思ではなかった事を目前で見て知っているだけに、コンラートはその白鳩便に一抹の不安を覚えた。
息を切らせた部下が差し出す紙片を受け取り、逸る気を落ち着かせながら封を切り小さく丸められたそれを広げてその内容に目を走らせる。
「どうして・・・・」
コンラートの唇から僅かな呟きが漏れる。だがすぐに顔を上げ、横に控える副官に視線を移した。
「魔王陛下がこの付近にご帰還なさった。混乱を避けるため王都警備隊だけで動く。一班は俺と共に西の森へ。二班は東の湖。三班はその他の水辺を。一刻も早くその御身を保護し、安全な場所へお移しろ。」
「はっ!」
コンラートが地図を指差しながら指示を与えると、副官はビシッと敬礼した後、宿の前の広場の方へと走って行き、すぐに部下達に召集をかけた。
「俺があなたを必ず見つけるから、どうか無事でいて・・・・、ユーリ」
慌しく走る兵達の動きに、コンラートも足早に本部脇にある厩舎へと向かって走り出した。
各班の連絡の基点を副官に任せ、コンラートは逸る気持ちを抑えながら一個中隊と共にこの地の西にある森へ向った。混乱を避ける為に駐屯軍にはあえて知らせず、直属の部下だけを動かした。魔王の捜索としては少数だが、逆にこれ以上連れていては動きが鈍くなる。そう考えたコンラートの判断であった。
全力で馬を走らせながら、コンラートは彼の人のことを思っていた。道端にあった小さな雪解けの水溜りに吸い込まれていく有利は、伸ばす手に必死で縋ろうとしてくれていた。あの時この世界に留まることを望んでくれるその手をしっかりと掴みきれなかった己の無力さと、引き剥がそうとする強大な力をどれだけ呪ったことだろう。
コンラートがこの地に着いたのは十日ほど前。国境駐屯軍からの報告を受けた宰相からの指示だった。ロシュホール領の西の端にあるこの村は、小さな村ながらも民達は常に豊かで安定した暮らぶりをしていた。しかし、そこに目をつけられたのか、盗賊団が数ヶ月前から襲って来るようになり、困った民からの訴えを受け、初めは国境駐屯軍とロシュホール軍が盗賊討伐に動いた。だが、どうやら人間の国の軍人崩れの集団らしく、盗賊団であるにもかかわらず意外に統率が取れており、上手く作戦の裏を取られてなかなか捕らえる事が出来ずに悪戯に日々が過ぎた。このままでは民の犠牲は増すばかりと、とうとう国境駐屯軍は血盟城に援軍を求めて来たのだった。それを受けてこの地に盗賊団捕獲の司令官として赴いたコンラートは、すぐに作戦を遂行し、つい3日前に賊の首領と思しき男を捕獲した。しかしまだ残党が残っているため安心はできない。その潜伏先も既に把握しているが、首領を捕られ焦った奴等はどんな行動に出るか分からない。この地は今そんな危険を孕んでいる。ずっと待ち望んでいた嬉しい筈の報告だが、今ほど苦々しく感じる事は無い。
「ユーリ・・・・」
コンラートはその身を案じ、誰にも聞こえないほど小さく囁いた。
何故このタイミングでここに。それも一人でこの地に。同時に帰還した大賢者は無事に眞王廟に到着したと言う。コンラートは胸を掻きむしられるような激しい焦燥にかられ、握り締めた拳を祈りを捧げるようにその胸にあてた。冷静であろうと努めるあまり、強く握ったその拳は白くなっていく。
眞王陛下は自分の有利への浅ましい気持ちを知っていてお怒りなのだろうか。それならなぜ今、王都ではなく、自分が居るこの地に魔王陛下を一人で帰還させるのだろうか。尽きない疑問に思考を奪われるが、今は先ずは主の身が第一だと、コンラートは手綱を握る手に改めて力を込めた。
景色が急速に流れ、耳の横をゴウゴウと風が低い音をたてて通り過ぎて行く。コンラートの速度について行けず、部下たちは既にかなり引き離されていた。前方に広がる深い森。目指すのはその中で静かに水を湛えるこの地で神秘の泉と呼ばれる場所。探している人はそこに居る。コンラートはそう確信していた。
「ノーカンティー、もう少しがんばってくれ・・・。」
ハシバミ色の愛馬に最後の励ましを与え、コンラートは森の中へスピードを緩める事無く突き進んで行く。頬を掠める枝葉も気にせず、ひたすら泉を目指し木々の生い茂り、昼でもなお薄暗い森の中を駆け抜ける。しばらく後、進む先にぽっかりと視界が開け、そこだけに燦々と注ぎ込まれる陽射しを受けて淡く光る小さな泉が現れた。そしてそこで動く小さな影。黒い影は遠目では気づかないほど小さく水際にうずくまっていたが、コンラートが有利を見間違えるはずはない。
「ユーリ!」
待ち望んでいた人の名を呼び、それと同時にコンラートは馬から飛び降りた。丈高く繁る野の草を掻き分け彼の人の元へと走る。コンラートが捜し求めていた人物は、人の気配に一瞬身体を強張らせたが、良く知るその声にパッと振り返り、見知った人影を見出して警戒の色を解くより先に驚きにその漆黒の瞳を見開いた。
「コン、ラッド・・・・!?」
有利は心持ち小首を傾げ、信じられないといった眼差しをじっとコンラートに注いでいた。濡れた黒髪が形良い顔の周りに貼り付き、その先からポタポタと滴が零れ落ちて有利の足元に水溜りを作っている。その小さな水溜りがまた有利を連れて行ってしまいそうで、コンラートは沸き起こる不安に思わず手を伸ばし、まだ事態が飲み込めず戸惑う有利の身体を強くその腕に抱きしめた。濡れた服越しにでも感じる温もりに、張り詰めていた緊張が漸く解けていく。
「ユーリ、無事でよかった。」
どれだけそうしていただろうか。安堵の溜息と共に零れたコンラートの声に、有利はゆっくりと顔を上げた。
「俺も・・・・、あんたが来てくれて安心した。」
突然コンラートに抱きしめられた事に驚き、顔を赤らめ固まってしまっていた有利だったが、そう言って回した腕でギュッと軍服の背中を掴み、コンラートの胸に甘えるように額を擦り付けた。コンラートはその頭の天辺に唇を落とし、濡れた黒髪を優しく撫でる。その指先の心地よさに半ばうっとりと目を細めていた有利に、コンラートは不意に頭からすっぽりとタオルを被せた。そして、やんわりと有利の身体を離し、タオルで髪を拭きながら改めてニッコリと笑いかけた。
「おかえりなさい、陛下。」
「ただいま、コンラッド。って、何で急に陛下な訳?さっきまで名前呼んでたクセに!陛下って言うな名付け親!!」
口を尖らせて有利がそう叫んだと同時にすぐ側の茂みが揺れ、遅れてきたコンラートの部下達がバタバタと駆け込んできた。その一人が差し出した毛布でコンラートは有利の全身を包み、それと同時にフワリとその身体が濡れた地面から浮かび上がる。
「えっ!?ちょっ、コンラッド!?」
所謂お姫様抱っこ状態に慌ててジタバタする有利に「少しじっとしてて」と片目を瞑り、コンラートはすぐにスッと表情を改めて部下たちに視線を移した。
「魔王陛下はご無事だ。すぐに王都と他の班にも連絡を。今から御身を司令本部である宿にお連れする。」
「「はっ!」」
兵達は短い返事の後一礼し、すぐ魔王陛下護衛の体制を整えた。その中心を有利を抱いたままコンラートが進む。至高の存在を覆い隠し、胸元にしっかりと引き寄せ抱くその姿は、まるで全ての者からその姿を守り遠ざけ遮断するかのようであった。
***
「ふぅ〜、すっきりした〜」
宿の者に湯の用意をしてもらい、濡れた学ランを脱いで身体を充分に温めた有利は、簡素な部屋のベッドに座って大きく安堵の息を吐いた。用意された庶民風の平服に着替えた有利のその瞳と髪は、今、赤茶に変わっている。魔王無事保護の知らせを受けた眞王廟から、早すぎる折り返しの便で有利のお忍び用の服数点と一緒に毒女特製の染粉とコンタクトレンズが準備万端に送られてきていたからだった。
『折角行ったことない土地に居るんだから、魔王の身分を隠してゆっくりしてから帰っておいでよ。眉間に皺寄せた怖〜い人や、やたらと魔王に構いたがる汁っぽい人やキャンキャン吼える人達には僕から適当に理由つけて説明しとくからさ。2.3日楽しんでおいで〜vあっ、お土産はロシュホール特産の銀細工とかで良いよ(*´ー`)エヘヘ byムラケンズの眼鏡の方』
同封されたそんな手紙を読み、有利が親友の居る王都の方角へ向って手を合わせたのは、この宿の部屋に入ってすぐのことだった。その横で大賢者に逆らえない兄弟と師を思い、コンラートは苦笑を浮かべていたが、その反面、思いがけない時間を有利と共に過ごせる事が嬉しくもあった。幸いこの場に連れてきた時にはすっぽりと全身を毛布に包まれていたので、誰もコンラートの腕の中に居た者が双黒であることに気付いていない。それならば、血盟城の執務に戻る前に少しでも有利にこの思わぬ時と場所を楽しませてあげたい。そう思ったコンラートは宿の主人にも有利の身分を告げず、魔王捜索に加わった有利の顔を知る直属の部下にも他の隊の者に陛下の身分を明かさないように緘口令を出した。こうして有利はこの場所では魔王ではなく、司令官であるウェラー卿の大事な客人として扱われる事となった。
「ユーリ、まだまだ寒いですから、しっかり髪を乾かして下さいね。」
「うん、わかってるって。」
名付け親の過保護な発言に苦笑を浮かべつつも、有利はその言葉に素直に従う。久しぶりに顔を合わせたコンラートは、柔らかな眼差しでそんな有利の姿を真っ直ぐに見つめていた。まるで親鳥が雛を見つめるような包み込むようなその眼差しに、ずっと見つめられるのはナンだかこそばゆく、 有利はわざと乱暴にゴシゴシと髪を拭き、話題を切り替えようと窓の外の景色に目をやった。
「なあコンラッド、村田の手紙に書いてあったけど、ここってロシュホール地方なんだよなぁ・・・?」
「ええ、そうですよ。ここは眞魔国の南西にあるロシュホール地方の西の端にあるシルベミナという村です。王都からは急いでも馬で三日は掛かりますね。」
「そうなんだ・・・・、そんな遠くに来ちゃったんだ。あっ、でもなんで三日も掛かるそのシルベ村、だっけ?」
「シルベミナ村です。」
「そう、そのシルベミナ村に、なんで丁度良いタイミングでコンラッドが俺の迎えに来れたの?いつもみたいに知らせが来てからじゃ絶対間に合わないだろ?ひょっとして前もって俺がここに来るのわかってた、とか?」
「いえ、俺も陛下のご帰還は今日眞王廟からの白鳩便で知りました。たまたま居たんですよ、俺がこの村に。」
「へ?そーなの??」
「ええ。」
「へえ〜、すっごい偶然だな。」
そう言ってにこにこと満面な笑みを浮かべ見上げる有利に、コンラートも同じ笑顔を返し、さりげなく有利の首に掛けられたタオルを手に取り、まだ水分を含む主の髪を丁寧に拭き始めた。そのくすぐったさに有利は首を竦めながらも問いを重ねた。
「んじゃ、どうしてコンラッドはこの村に居たの?」
「あそこに山が見えるでしょう?」
有利の髪からタオルを離し、手櫛で軽く髪を整えてからコンラートは窓の外を指差した。有利はそこに視線を移し、目の前に迫る山に頷く。
「あれらは全て銀山なんです。その恩恵でこの村はとても豊かだ。」
コンラートの言葉に、山の麓から広がる村の様子に興味を向けると、所々に不自然に壊れた建物があるものの、全体的には片田舎の村の割りに家々の窓には色とりどりの花などが飾られ、小奇麗で生活に窮している雰囲気は全く感じられない。
「うん、確かにそんな感じだな。」
「でも、そこを盗賊団に目を付けられてしまって、ここ数ヶ月の間にこの村は何度も盗賊の襲撃を受けているんですよ。」
「だからあの建物とか少し壊れてるのか・・・。許せないな、その盗賊団!ああ、それで、コンラッドが助っ人として派遣されたのか。」
「ええ、そういう事です。援軍要請がグウェンの元に届けられた時、陛下は地球に帰られていたので、手が空いている俺が指揮を執る事に。」
「手が空いてるってだけじゃないとは思うけどな。あっ!でも、それじゃあコンラッドは俺に構ってる場合じゃないだろ!俺の事はいいから、早く指令本部に戻って盗賊団を捕まえてくれよ!!」
事実を知って焦り、慌ててコンラートを仕事に戻そうとする心優しき魔王に笑みを浮かべ、コンラートはベッドに座る彼の正面に立って少し屈み込むと、安心させる様にその両肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ。3日前にもう盗賊団の首領の男はこの手で捕らえましたから。残党が少し残っていますけど、奴等の隠れ家も既に分かっていますし、もう捕獲作戦も準備が整ってます。後は俺がずっと指令本部に居なくても優秀な部下達がやってくれますよ。部下を信頼するのも上司の仕事でしょ?」
コンラートがそう言って顔を覗き込むと、有利はうんうんと何度も頷いた。
「そうだな。じゃあ、コンラッドは俺がここに居る間、俺の傍に居てくれるの?」
「ええ、もちろん。」
笑顔で答える護衛に、有利は安心したようにニッコリと笑みを返した。途端に気が緩んだのか、有利の腹が大きな音を立て空腹を訴える。グウグウと煩いその音に、有利は顔を真っ赤にして慌てて腹を押さえるが、コンラートはその姿に堪らずクツクツと笑い出した。
「そう言えば俺も腹が減りましたよ。少し早いですけど夕飯にしましょう。陛下が疲れてるならここに運ばせますが?」
「いや、そんな疲れてない。って言うか、陛下って言うな!俺は今、魔王陛下じゃなくてウェラー卿のお客なんだろ?」
「失礼、そうでしたね。じゃあ坊ちゃん、少し先に行った所にこの地方の美味い肉料理を大盛で出してくれる店があるんですが如何ですか?」
「大盛の肉料理?いいねぇ〜!」
「じゃあ、そこで決定ですね。でもその前に、これだけは約束してください。いくら壊滅状態とはいえ、まだ盗賊の残党が近くに潜んでるかも知れません。だから絶対に俺の傍から離れないで下さいね。」
「うん、わかった。」
「約束ですよ。俺が傍に居る限り、坊ちゃんを絶対危ない目に合わせることはないと誓いますから。」
「ありがと。」
真摯な瞳で誓う護衛に、主君はふわりと微笑んで礼を言った。
それからすぐに出掛ける用意をし、二人は並んで宿の外に出た。飯屋に向う道すがら、銀細工を売る店やこの地方特産の果物などを売る店を色々と覗きながら楽しげに歩いていく。念のためにフードを目深に被り視界が狭い有利を気遣い、コンラートはずっとさりげなくその腰に手を添えて庇いながら歩いていた。その姿はコンラートの意に反して、村に居る者たちの注目をかなり浴びる事となった。
そう、国境駐屯軍が散々手を焼いていた盗賊団の首領を、この地に就いて指揮を執り早々に捕らえた司令官は、この村では雲の上の魔王陛下よりもある意味かなり有名な存在になっていたのだ。そしてその名を聞くと皆驚愕し、すぐに納得した。魔族たちの記憶に未だ色濃く残るアルノルドの地はこの村からさほど遠くない。その雄雄しい伝説と前魔王陛下の息子という身分に反して、実際にこの村にやって来たコンラートは指令本部から動かず指示を出すのではなく、兵達と共に村人達から直接話を聞き、その物腰は柔らかく穏やかで、庶民が出入りするような場所にも普通にやって来て気さくに話をする。そんな人物に村人達が尊敬や憧憬の念を込めて口々に話題に上げ注目するようになっていったのも無理は無いことであった。その救国の英雄が淑女をエスコートするかのように寄り添い歩く謎の人物にも視線が集まるのも当然の事で、しかしその視線の大半は優秀な武官の新たに垣間見えた蕩けるような笑顔を好ましく思い見守る優しいものであった。
「いらっしゃい!」
軽快なドアベルの音と共にドアを開け入って来た客に、威勢の良い店主の声が掛かる。にこりと穏やかな笑みを浮かべるその客を、主人と女将は作業の手を止め満面の笑顔で迎えた。
「これはコンラート閣下。」
「少し早いけど良いかな?」
「ええ大丈夫ですよ、どーぞ中へ。おや、今日はお連れさまがご一緒ですか?いつもの隊の方ではなさそうですね。」
店主はコンラートの背後から中を伺う様に覗き込む有利の存在に気付き、そのマント越しにも軍人には見えない華奢な姿に興味を浮かべた顔で問いかけた。
「ああ、俺の大事な客人なんだ。」
「こりゃ大変だ。閣下の大切なお客人なら、今日はいつも以上に腕に縒をかけて、特別美味しいものをお出ししなきゃいけませんな。」
「あの、俺、そんなに気を使って貰わなくても大丈夫ですから・・・。」
隠れるように立っていた場所からすっと身体をずらし、目深に被ったフードの奥から困ったような声が聞こえる。気取らない、そしてまだ幼さの残るその声は控えめで、店主や女将が好感を覚える種のものだった。
「いえいえ、遠慮なさらずに。閣下の大事なお客様とお聞きしたら、私の方が腕を振るわなけりゃ気がすまないんですから。」
「あっ、それなら俺すごく腹が減ってるんで、大盛に期待してます!」
「そうそう、さっきから坊ちゃんの腹の虫が大騒ぎしてますからね。」
「あっ、コンラッド、それはばらすなよ。恥ずかしいだろ。」
「でも、黙っててもこのままじゃ料理を待ってる間に聞こえてしまいますよ。」
「鍋とか食器とかの音で聞こえなかったかもしんないじゃん。」
尖らせた口元がフードからチラリと見え、微笑ましい二人のやり取りに店主や店に居合わせた他の客達は自然と目尻を下げた。
「さあさあ、先ずはお座り下さい。大至急で料理をお持ちしますから。もちろん特盛でね。」
「やった〜!」
「よかったですね、坊ちゃん。」
「うん、ありがとうございます!」
丁寧にペコリと頭を下げる有利を促し、コンラートは女将に勧められるまま店の奥の席に移動し椅子を引く。それに「ありがとう」と礼を言い、口元を綻ばせながら有利は席に着いた。そんな二人の自然な雰囲気に益々笑みを深め、店主は張り切って厨房へと向った。それと同時に、腹を空かせた村の若い男達数人がわいわいと店に入ってくる。夕飯時の賑やかさを増した店に主人の作る料理の良い匂いが漂った。
先ずは腹の虫を静めてもらおうと、店主は朝から煮込んでいた豆と肉の煮物を大き目の器に盛り、主人自ら二人の元へと運んだ。その良い匂いに反応し、有利の腹の虫がまた盛大に騒ぎ出した。
「おやおや、閣下の仰ってた通り、本当にこちらの坊ちゃんのお腹の虫は大騒ぎしてたんですね。」
そう言って店主は豪快に笑う。
「はははっ、オハズカシイ。」
「恥ずかしがることなんて無いですよ、誰でも皆お腹は空くものですからね。」
「そうそう、閣下の仰る通りです。さあさあ、早く召し上がって、先ずは坊ちゃんの腹の虫を大人しくさせてやって下さいな。まだまだ色んな料理をお持ちしますからね。」
「楽しみだなぁ〜、ありがとうございます!」
礼を言う少年に蕩けるような笑顔を向け、ウェラー卿が手ずから少年の器に取り分ける。その様を少し驚いた眼差しで見ていた店主の背後で、その時、店の扉が勢い良く開き、小さな子供が転がるような勢いで店に飛び込んできた。
「ただいまー!父ちゃん、コンラート閣下が来てるってホント?」
「こら、ルーカス!!店の扉が潰れちまうじゃないか!!」
「ごめん!でも、今そこでマリオがウチの店に閣下が入っていったのを見たって言ってたから・・・・・あっ!コンラート閣下、こんばんは!!」
息を切らして駆け込んできた少年は、父の立つすぐ側の卓にコンラートの姿を見つけると、満面の笑顔を浮かべ、店主と同じ赤毛の頭をペコリと下げた。
「やあルーカス、こんばんは。」
「すいません、騒々しい奴で。」
そう言って、店主は申し訳なさそうに頭を下げ息子の頭をグリグリと撫で回し押さえつけた。やめろよーと父の大きな手から逃げ回りながらも、少年の表情は上気し楽し気だ。
「賑やかなのは楽しいですから気にしないで下さい。坊ちゃんも気にしませんよね。」
「うん全然。息子さんですか?」
「ええ、そうなんです。今年50になったばかりなんですが、生意気にも将来はコンラート閣下の様な軍人さんになりたいとか言い出しましてね。」
「へぇ〜、じゃあコンラッドは憧れの人なんだね。」
「そういう事なんです。すいませんね、お食事の邪魔をしてしまって。」
父親と有利のやりとりに、ルーカスは初めてその存在に気付いたのか、コンラートの前に座る人物に顔を向け、すぐに怪訝そうに眉を顰めて両腰に手を当てて有利を睨み付けた。
「ねえ、お兄ちゃん。」
「えっ、何?俺?」
「そうお兄ちゃん、僕より大きいのに、フード被ったままご飯を食べるのは行儀が悪いって知らないの?」
「こっ、こらっルーカス!!」
すぐに店主がパーンと思いっきりルーカスの頭を叩いた。突然の痛みに頭を抱えるが、ルーカスにとってそれは理不尽な痛みでしかなく、頭を抱えながらもおかしな行動をとる父を睨み付けた。
「痛いよ父ちゃん!僕、間違ったこと言ってないだろ!」
息子の反論に、店主は困ったように眉を寄せた。確かに客人のその不自然な行動に店主は気付いていたが、そのまま自然に食事を続けている二人に、何かフードを脱げない訳があるのだろうと店に居る大人たちは推測し、あえて見て見ぬ振りをしていたのだ。そんな事情を子供が理解できるわけは無い。店主は正義感に満ちた息子を自慢に思うものの、今日初めてその真っ直ぐさに困惑した。
「確かに間違っちゃいないが、でもな、坊ちゃんは」
「そうだよ、ルーカスは悪くない。ルーカスの言うとおりだよ。ごめんな、そりゃ俺が悪いよな。」
「坊ちゃん!」
事情は後で息子に話し、今は身分低い自分達が頭を下げる方が良策だろうと判断し、店主は息子の頭に手を伸ばし、その頭を下げさせようとしていた。しかしその気配を察したのか、席から立ち上がって店主の手をやんわりと留め、逆に自分の息子に頭を下げる大事な客人に、店主は酷く驚き困惑の表情を浮かべた。そして恐る恐るその連れであるコンラートの様子を伺う。しかしウェラー卿は柔らかな笑顔を浮かべて自分の客人の姿を見つめているだけで、特に息子や自分の言動を咎める様子も無い。
「そうだよな。フード被ったまんまで食事したら、ご飯作ってくれたルーカスのお父さんにも失礼だよな。」
「そうだよ。父ちゃんも母ちゃんも一生懸命作ってるんだもん。」
「うん、分かるよ。この料理凄く美味しいもんな。」
有利はそう言って頷くと、傍に立つコンラートに顔を向けた。
「コンラッド、もうフード取っても良いだろ?」
「はい。」
コンラートは店の客の中に数名の部下の姿を確認し、すぐに頷いた。
「すいません、俺が坊ちゃんに被ってて下さいってお願いしてしまったから。」
「それは仕方ないよ。コンラッドは俺のことを思って言ってくれたんだし。」
「坊ちゃん・・・・」
「ルーカスごめんな。よし、じゃあフード取って、ルーカスのお父さんとお母さんが作ってくれた美味しい料理を思いっきり食べるぞ!」
勢い良くフードを取り、有利は赤茶の髪をふわりと揺らしそう宣言するとニッコリと微笑んだ。その鮮やかな笑顔に、顔に大きな傷でもあるのかと思っていた店主や、同様に事の成り行きを見守っていた客達が一様に驚き、大きく目を見開く。息子のルーカスの方もこれまで見たこともない程整った容貌を間近で見て顔を真っ赤に染め、ポカンと口を開けて固まってしまっていた。そんな店主親子の前で、有利は更に眩しいほどに笑みを深めた。
「おじさん、俺まだお腹ペコペコなんで、料理どんどん持って来て下さい!・・・・・・おじさん?」
「あ・・・、ああ、はいはい。すぐにお持ちしますね。ほら、ルーカスも手伝え。」
「う、うん!」
バタバタと厨房に戻っていく店主親子に、固まっていた店の客達も慌しく食事を再開する。しかし現れた気高い容貌とコンラートの少年への物腰から、これはさぞや高貴な家柄の貴族の坊ちゃんがこの片田舎の食堂に現れたものだと、余りにも不似合いなその輝くような存在に食事をしながらも皆一様にどこか上の空だ。そんな村人達の様子に、コンラートと部下の兵達は僅かに苦笑を浮かべるしかない。だが、その不自然な店の空気を感じないのか、無自覚な彼らの主は、村人達と同じように古びて少しがたつく椅子に頓着せずに座っている。
「腹減った・・・」
麗しい眉を僅かに寄せた有利のその小さな声に反応したのか、途端にぐぅぉ〜ぐぅぉ〜と鳴き出す腹の虫。見目の麗しさに反して、静まっていた店内に響いた地響きのように大きなその音に、コンラートが堪らずプッと噴出し、つられて店に居た者達が皆一斉に笑い出した。
「うわぁ〜恥ずかし過ぎる・・・・静まれ俺の腹の虫!」
羞恥で真っ赤になり腹を押さえて蹲る有利に、店主は大慌てて大皿に乗せた肉料理を運んで来た。途端に満面の笑みでそれに目を輝かせ、いただきます!と大きな声で手を合わせる。一瞬の内に和やかさを取り戻した店で、有利はいつの間にか民達に溶け込み、二人を取り囲むように皆楽しげに食事を再開したのだった。

okan
(2010/06/14)

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