2 思い込みと勘違いと

「――で、何? 今度はあたしに、防波堤になれとでも?」
 翌日。あたしの幼少時代からの大の親友、川瀬春華が心底嫌そうな顔で言う。
 否、嫌そうな顔は表面だけで、内心では面白がっているようだ。春華はまじまじとあたしを見つめて目を逸らさない。目は正直だね、興味津々という目つきだよ。
「や。て言うかできれば……あたしの代わりに、モデルをしてあげてほしいなァと」
 あたしがお願いと頭を下げると、彼女は、なんであたしが、と渋面を作った。
「嫌よそんなの。だいたい、小林くんが頼んだのはアンタでしょ。あたしじゃない。それをどうしてあたしが行かなくちゃいけないのよ? それに友海、ランチを奢ってもらう約束までしたんでしょ? そこまでしておいて逃げようなんて、ちょっと卑怯よ」
 親友はピシャリと言い放つ。チクショウ、少しは考えてくれてもいいじゃんかよ。
 春華はある意味、あたしより男嫌いだ。『ある意味』なのは厳選するからだけど、選ぶ余裕のあるのが小憎いところ。まあ、それだけモテるってことなんだけどね。
「そーれはそうなんだけどさァ……。ねえ、どうしてもダメ?」
「ダメ。そもそもあたしが行くのって変じゃない。諦めて行ってあげなよ。ね?」
 春華はにっこり笑顔で言ってくれる。……やっぱりだめか。
 あたしはすっかり落胆して、机に頭から突っ伏した。勝手にあたしの前の席を占領している春華は、笑窪を作ってクスクスと笑った。鈴を転がすような笑い声。
「どうしてそんなに嫌がるの? せっかく春が来たんだから、相手のことをよく知ろうとは思わないわけ? いい感じになってたんでしょ、あの小林くんが。何が不満なの?」
「不満? もちろんあたしをモデルに、ってところがよ」
「だからそれがどうして? べつに良いじゃない。ちょっと回りくどいやり方だけど、好きな人をスケッチしたいなんてさ、奥ゆかしくてそういうの好きよ、あたし」
 うっとりと春華は言う。いかん、全然話が噛み合ってないようだ。溜め息が出る。
「……あのね、言っとくけど、別にあんたの趣味なんか聞いてないし、そもそもあたし、小林くんから告白されたわけじゃないんだからね。勝手にそういう方向に話を持っていかないように。あたしはね、なんであいつが、わざわざあたしにモデルを頼むのかが分からないって話をしているのよ。もう、ふざけてないで、ちょっとは真剣に考えてよね」
「えっ、何それ? そういう方向の話じゃなかったの?」
 人が本気で悩んでいるというのに、春華は今さら、驚いた顔をする。べたな演技をしおってからに。なんでこいつは、こんな他人事のような顔をしていられるんだ?
「違います。……もう、勘弁してよ。あたしが男嫌いなの、知ってるでしょう?」
「そりゃあ、もう。あたしの見てくれに騙されて寄ってきた野郎どもを追い払うの、友海はよく手伝ってくれたもんね。……だけどいい加減心配だよ。何だか責任感じちゃうな。友海を男嫌いにしたのって、あたしが男運のないせいなの? でもねえ、いつまでもそんなんじゃ嫁のもらい手がなくなっちゃうぞ? ちょっとはリハビリに行ってきなよ」
 あたしのほっぺをつんつん突きながら春華が言う。ええい、止めれっ。あたしは春華とは違うんだ。この呪われたDNAを、子どもに引き継がせる気はないんだよ。
 確かに春華には男運がない。その最高潮は中学3年生の時だった。あたしは春華を守る防波堤、あの時は相手から、散々邪魔者扱いされて罵られたものだった。ブスとか不細工とかいろいろね。でもそれとこれとは無関係だ。春華が気にすることではない。
 しょうもないコンプレックスと自覚しつつ、あたしはそっぽを向いて宣言する。
「……いいよ別に。お嫁になんか行かないから」
「またまた、そんなこと言っちゃって。せっかくのチャンスなのに、もったいない」
「ホントにそう思うなら、あんたに熨しつけてくれてやるわよ!」
 どんと机を叩いて言えば、春華は目を丸くしてあたしを見つめる。ああもう、ホントに腹が立つ。どうして昨日のことが、あたしの色恋沙汰になるんだよ!?
 
 何度だって言ってやる。あたしはオトコが大嫌いなのだ。だから恋愛は言うに及ばず。
 もちろんそれは、あたしの容姿コンプレックスに由来している。
 世間では、たで食う虫も好き好きだという。人間見た目じゃないと言う。だけどそれなら見た目も中身もピカ一な人間には、あたしは一生かないっこないことになる。もちろん一番になる必要がないことくらい分かっている。凡庸で充分、十人並で何が悪い? そうだよ、別に悪いことは何もない。だけど自分の顔を好きじゃないってこととそれとは、まるで次元が違うのだ。あたしは自分の顔が好きじゃない。大きな鼻も小さな瞳も薄い唇もはれぼったい顔も、どのパーツもみんな、故意に神さまが手抜きをして作ったとしか思えない。でなければ芦田家のDNAが呪われているに違いない。きっと世の男どもはあたしを見て醜いと思うに違いなく、こんな醜い自分を好きになる相手のことを、あたしは悪趣味でおぞましいとしか思えない。だからあたしは男嫌いで、きっと恋愛も一生できない。
 あるいは――恋愛対象になる種族全てを嫌いになることで、自分への反応を見なくていいようにしているだけかもしれない。醜い自分を思い知らされることのないように。
 なんて卑屈な自己防衛だ。我ながら根性がねじ曲がっている。しかも自覚があるから手に負えない。開き直った者の勝ちだなんて。
 せめて――とあたしは春華の横顔を盗み見る。艶のある髪に長い睫毛。白いもち肌には産毛がそよいでいて、それは見事な毛穴レス。もしあたしが、彼女の10分の一でも綺麗な顔立ちをしていたら、あたしの人生もっと明るくなったりしたのだろうか。
 美術部の名簿を眺めながら、あたしは考えるだけ無益なことを考える。
 現在平和なランチタイム。地獄のようなパン争奪戦をくぐり抜け、あたしは親友を引きずって美術室にやって来た。というのも約束通り、小林くんの入部届を出すのに付き合ってあげるのと、ランチ代を奢ってもらうためである。だけど肝心の小林くんが現れなくてあたしたちは待ちぼうけ。それであまりに暇だったので、隣の美術準備室に行って、美術部全員分の名前がのった名簿を見つけ出して、つらつら眺めているのだが――。
「……まだちゃんと残ってた? 友海の名前」
 足をぶらぶらさせながら、春華がジュース片手に尋ねてくる。頑強に嫌がる春華をここまで連れて来たのは単純に腕力の賜物、あたしが強制連行してきたのである。
 あたしはコックリと頷いた。幽霊部員なのに、まだあたしの籍は残っていた。しかも名簿は誰でも手に取れる場所に置かれていた。さらによく見ると、小林文弥と同じクラスに美術部員のいることが判明した。名前からして女子、それが二名。だからどうと言うことでもないのだけど、なんとなく落ち着かなかった。
 ……いや待て。だから何を考えているんだよ、あたしは?
 もやもやした頭で名簿を眺めていたら、いきなり目の前にペンを差し出されて顔を上げた。視線の先には美少女然とした親友。パンを頬ばりながら春華は言う。
「先に名前、書いといてあげたら? それに書いたら、入部届け完了なんでしょう?」
 あたしはつい眉をひそめた。教えるまでもない簡単な入部方法。それで済むなら、なんであたしは呼び出されたのか。あえて考えないようにしていた疑問が浮上する。
 ……なんか凄いヤだ。男に呼び出されて待つという、このシチュエーション。
 それにまだ、解明されていない大きな疑問が、宙に浮いたままなのに。
 どうして彼が、幽霊部員であるあたしが美術部に属していると知っていたのか。またどうしてそれを知り得たか。――もちろん名簿を見たからに違いない。確定だ。
 問題は、そこにどんな他意が含まれているのか、と言うことなのだ。
「……そうだね。別に本人が書かないといけないって決まりはないもんね」
 雑念を振り払って彼の名前を書き込んでいると、春華が感心する口振りで言った。
「へえ、友海ってば小林くんの名前、書けるんだ?」
 何気ない一言。だけどあたしは焦ってしまった。おかげで手元が狂ってしまった。
「そりゃあ、元クラスメートだもん。昨日まで忘れていたけど、思い出したのよ」
「でもあんまり親しくなかったんでしょ? なのに下の漢字まで覚えてるの?」
 春華の指が、文弥の字を指し示す。……どうしてそんなの気にするのよ。
「そーれはだってほら。あの乱闘騒ぎ起こした小林くんだもん。名前だけは有名でしょ。しかも何度も言うけど、あたしは半年前まで、同じクラスだったんだからね」
 ちょっと言い訳がましかったかな。春華の顔色を窺うと、親友はふうんと頷き、面白くなさそうな顔で、それもそうね、と呟いた。
「……あの乱闘騒ぎは、あたしたちにとっても、忘れられない事件だもんねえ」
 感慨深く頷いて、春華は遠い目をして考え込むふうにする。一年前の追いつめられていた頃を思い出したのだろうか、人形のような横顔が首を傾げた。
「彼にはあたしからも、一言お礼を言っておいた方がいいのかなァ……」
 お礼。もちろんそれは、例の件――あたしたちの義理のことを言っているのだ。
 
 例の件。それは簡潔に言えば、あたしよりも春華と、そして件の美術室荒らしの犯人と目され小林くんに鼻の骨を折られた最低野郎との、面倒な関係にあった。
 つまり彼――仁宮は、身の程もわきまえず春華に目を付け、中学時代、何かと春華にちょっかいを出しに来たのだ。もちろん完全な片思い。はっきり言えばストーカーだ。
 春華は友人のあたしが言うのもナンだけど、そんじょそこらのアイドルなんかにも引けを取らないくらい可愛いらしい。しかも華がある。目立つ。そうすると呼んでもないのに男が寄ってくるようなのだ。さながら甘い蜜の香りに誘われた、昆虫みたいに。
 ――で、あたしは親友として、春華のピンチに幾度となく駆けつけて、ことごとく妨害してやったわけだ。でも奴らからすれば当然あたしはお邪魔虫以外の何者でもない。だからあたしは蛇蝎のように嫌われていた。
「このブス! お前なんか呼んでねえよ、引っ込んでろよ!」
「そう心配するなよ、誰もお前なんかに手ぇ出したりしないって」
「俺は美人にしか用はねえんだよ。……なあお前さ、鏡見たことあんのかよ?」
 忌々しい。なんて暴言の数々だ。思い出しただけでも血管がぶち切れそうだ。
 この経験が、あたしにコンプレックスを植え付けたって? まさか! しつこく繰り返すが、あたしのコンプレックスはもっと以前から芽生えていたのだ。だけど確かに酷かった。春華があたしの男嫌いを自分のせいかと勘違いするのも、納得できなくもない。
 とにかく、仁宮のやり口はえげつなかった。待ち伏せなんて当たり前、春華の話では自宅に脅迫まがいな電話をかけられたことが、一度や二度ではないらしい。14、5歳にして仁宮は立派なストーカー。しかも奴は学校でも有名な不良少年で暴走族とも付き合いがあったらしい。いっそ警察に相談しようかと、両親と話し合ったこともあった。
 しかし結局あたしたちは、警察には相談しなかった。相談する前に、どういうわけか嫌がらせが途絶えたからだ。
 その原因が何なのかは、未だはっきりとは分からない。だが仁宮が手を引いたのは、あの小林くんの乱闘事件以降であることは、どう足掻いても事実なのだ。
 だからあたしたちはどうしても、その関連性を疑ってしまうし、それが遠因なのではと思えばこそ、どうしても小林くんに恩義を感じざるを得ないのだ。
 部室が荒らされた一件は警察にも通報されていた。もちろん奴は自供しなかったし証拠もなかったから、何のお咎めも受けていない。だが他の悪事が明らかになり、警察からも目を付けられたことで、彼の牙を抜くことに成功したのではと考えたのだ。

「でもさ、お礼って言うけど、何て言うつもりよ? 仁宮にナイスな仕返ししてくれてありがとう、おかげであたしたちも助かりましたって? こっちの事情、何にも知らないでやったのかも知れないのに? そもそもどう関係しているのかも分からないのに?」
 小林文弥が仁宮たちと喧嘩したのは、部室――正確には美術準備室――を荒らされ自分たちの描きかけの作品をめちゃくちゃにされたからだ。日頃から嫌がらせもされていたらしいから、堪忍袋の緒が切れたのだろう。――あたしはそう、確信している。
 だが春華の見解はまるで違っていた。否、もしかしたらあたしの想像するのと同じなのかも知れない。だが口に出さないのは、それがあまりに野暮だからだ。
「ウソ嘘、そんなこと思ってもないくせに。あの時だって、不思議よねって散々話し合ったじゃない。結局小林くんとあいつらの間に何があったのかは、全然分からなかったけど。でも実はあたしたちが睨んだ通り、何か裏があったのかもって思わない?」
「――裏って何よ?」聞かずもがなを聞くあたしは、きっとバカだ。
 春華は含みのある視線を寄こして、悪女みたいに楽しそうに笑って言った。
「だーかーら、それは聞いてからのお楽しみでしょう?」

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By Tacni Ririko copyright (C) All rights reserved since June 2006.