3 本命は誰?
 
「あれ? 川瀬さんも一緒なの?」
 小林くんはあたしたちを見るなり、開口一番そう言った。
「ごめんね、ついて来ちゃった。……久しぶりだね、小林くん?」
 春華は上目づかいでにっこり笑う。天然の男殺し。これで本人は媚びを売ってるつもりがないのだから恐ろしい。こんな風だから、あんなのまで引っかけてしまうんだろうと、あたしは胸の内で溜め息を吐く。美人すぎるのも考えもの、ということだ。
 一方小林くんはちょっと驚いた様子で、そうですね、と頷いてみせた。はにかむような、ぎこちない笑み。それからどう対応したらいいのか分からないのか、沈黙してしまう。
 あたしはなんだか落ち着かなかった。とにかくやるべき事を済ませて、お邪魔虫は早々に退散しましょう。そう腹を括って彼に名簿を渡しながら、入部手続きがすでに終えたことを報告する。あとは顧問に連絡するだけで全て終了。
 美術部は超が付く個人主義だから、他に教えることなんてほとんどなかった。あるとすれば週間カレンダーに使う記号――展覧会、絵の先生やOBの来られる日、コンクールの締め切りなど――くらいのものだ。だから説明は3分で事足りた。そして説明が終わると当然、美術室には沈黙が降ってきた。それも最上級の居心地の悪い沈黙だ。
 あたしとしては、今日の部活にも付き合う必要があるのか聞いて、その分のランチ代をドライに受け取って、これにて頼まれ事終了、解散! としたいのだけど、妙にそれを言い出せない雰囲気があった。たぶん春華のせいだ。彼女が話をする気満々だからだ。
「……用事は終わった? なら、少し話をしてもいいかな?」
 春華が腰かけていた机から飛び降りた。あたしはそれを横目で見る。あの事件に裏なんて、本当にあるんだろうか。あっちとこっちで起きたことは互いに無関係じゃないのか。
 ――土壇場になってそう思えてきた。
 だったら、あたしらが考えていることは大ハズレ、赤っ恥をかくだけなのに。
 でも春華はそう思ってはいないようだ。なんて自信家。だってほら、春華の目が爛々と輝いている。彼女は自分が無関係な色恋沙汰に限って、そういう話が大好きなのだ。相手があたしでも、多分それは変わらないのだろう。――このバカ女。
 どうして分かんないのよ。この場で彼に聞き出すのは無理があるし、大体そんなの酷いじゃないか。だってねえ、小林くんの大本命は春華、あんたかも知れないんだよ?
「……話って、僕に? 川瀬さんが?」
 小林くんはあたしと春華の顔を見比べて困惑顔。微笑して頷いたのは春華だった。
「うん。去年のほら、小林くんが腕の骨を折られたあの事件。あれについてあたし、ずっとお礼が言いたかったのよね。いい機会だから、あなたに言っておこうと思ったの」
「……お礼って、どうして? ……それって、どういうこと?」
 慎重な声。その瞬間、はっきり小林くんの顔に浮かんだのは――狼狽だった。
 あたしは驚いた。困惑でも、虚をつかれた顔でもなく、狼狽。それってたとえばドラマなんかで、何か知られてはまずいことを指摘されたときに、浮かべるものじゃない!
 この事件には裏がある。推理小説の決まり文句ではないけど、いきなり言葉に重みが増したようだった。あの乱闘騒ぎと春華への嫌がらせの絶息は、無関係ではなかったの?
 春華は、仁宮に嫌がらせをされていたことを話し出した。そのやり口がどれだけ酷く、どれだけ精神的に参っていたか。そしてそれがある日唐突に終わり、それが例の乱闘騒ぎを境にしてだったことを。
「――だから、小林くんには感謝してるの。あのしつこい仁宮を大人しくさせてくれたおかげで、あたしもやっと解放されたから。ホント、その節は助かりました」
「……へええ。あいつ、そんなことまでしていたんだ。知らなかったな」
 話の流れが見えてないのか、苦笑いを浮かべる小林くんに、春華は一歩詰め寄った。
「……本当に、知らなかったの?」 彼を見上げる春華の目は、笑ってはいなかった。犯人を問いつめる探偵の目、しかも怒りを湛えている。
 ……なんで? どうして怒る必要があるの? たぶん小林くんもわけが分からないでいるんだろうけど、あたしだって困惑した。感謝の気持ちはどうしたのよ?
 ふいに小林くんの視線があたしを捉えた。とまどいながら、何かを問いかける目。
 何なのよ、いったい? なんでそんな目をするのよ?
「……何も言わないなら、あたしから言うけど。仁宮って、もの凄い勘違い野郎で、かつもの凄い嫉妬深かったのよね。だからあたしと仲良くする男子、全部敵視していたの。それで……よく聞いてよ、あなた友海と同じクラスだったでしょ。だから友海とも会話ぐらいするし、当然あたしとも口をきくことだってあったじゃない? て言うかあったのよ、覚えてないかも知れないけど。――で、あの乱闘事件よ。あの喧嘩って美術室が荒らされたのが理由らしいけど、本当はあたしも、喧嘩の原因の一つなんでしょう? 違う?」
 さらに一歩詰め寄って、春華が問う。胸を張って、自信満々の笑みを浮かべて。
 あろう事か、小林くんは目を見開いた。愕然。驚愕。その反応が答えになった。
 ――小林のくせに川瀬春華に片思いするのは許せない。例えばそんなめちゃくちゃな理屈で喧嘩を売られて買ってしまった。それがまさか『裏』なわけ? まさか、本当に?
「何で知って……あ、いや、それはそうだけど、でもそれはあいつの」
 青ざめながらも言い訳――事実として認めたのだ、彼は――をしようとする小林くんの台詞を遮って、パシン、と小気味のいい音がした。強烈な平手打ち。手を挙げたのはあたしじゃない、春華だ。呆然とする彼に、春華が酷薄な笑みを浮かべて言い放つ。
「小林くん、あなたのしてくれたことは感謝してるし、それに関して恩着せがましい態度を取らなかったのも偉いと思うけど、でも友海に近づくやり口はどうかと思うのよね。全然男らしくないじゃない。あたしの友達を落としてから次は本丸? あたしの周囲の子を使ってあたしに自分のいい噂を吹き込んで、そうやってあたしを搦め手で落とすのがあんたのやり方なわけ? それってちょっと酷いんじゃない? 友海を何だと思ってるのよ」
 つまり春華は、自分にお近づきするのに、どうして親友であるあたしを利用したのかと責めているのだ。あたしを前にそれを言えてしまえる春華も、充分ひどいと思うけど。
 小林くんは叩かれた頬を押さえて、唖然とした表情で春華を見下ろしていた。
 あたしは大きく溜め息を吐いた。……何も殴ることはないでしょうに。
 まあね、あたしにだってプライドはある。恋のキューピット役を勝手に押しつけられるのは嫌なものだ。それもあたしに気があるような振りをして近づいてくる男の、恋愛成就の手伝いなんてもっとゴメンだ。予想はしていたけど、事実だと判明するとなんだか疲れた。徒労感だ。悩んだのは二日間、早くに事が判明してよかったと思うべきなんだろか。
「行こう、友海。こんな奴に付き合う必要なんてないよ」
 冷たく言い捨てて、春華があたしの腕を引っ張った。背を向けて思い出したのは、右腕をギブスした少年の涙。あれは恋に破れて泣いていたのだろうか? でも、それならどうしてあれ以降、仁宮は嫌がらせを止めたんだろう。彼にやっつけられたわけでもないのに。
「待って! お願い待って! 仁宮と同じ勘違いしないでよ!」
 小林くんの声に春華がぴたりと足を止めた。つられてあたしも足を止める。
 追いかけてきた小林くんが、あたしの腕を掴んで、呻くようにして言った。
「それだけは勘弁してよ。やっと勇気を出して声をかけたってのに、そんなバカな勘違いでフラれたんじゃ、浮かばれないよ……」
 ――は? あたしは目を丸くした。意味分からん。でも春華は笑っていた。冷たさも怒りもない天使みたいな、悪戯好きの妖精みたいな可愛いらしい笑顔で。そして言った。
「て、ことはだ。小林くんの大本命、本当はあたしじゃなく友海なのね?」
 あたしはこれでもかってくらい目を見開いた。ええええええっ!? 何それ何それどういうことよ!? 小林くんはその場にしゃがみ込んで、耳まで真っ赤にして言った。
「……そんなの、ここで言わせなくても良いじゃんかよ……」

「川瀬さんに、仁宮がちょっかい出していたのは知ってるよ。川瀬さんが言い返すの、よく見てたし。川瀬さんを庇って芦田さんが応戦するのも、よく見てたからね」
 場所は美術室がある棟の外、非常階段の一階部分。美術室は次の選択授業のために移動してきた連中が集まってきたので、人気のない場所に避難したのだ。
 小林くんは不機嫌な声で話し続ける。
「芦田さんもよくやるなって、初めは感心していたんだ。酷いこと言われたり突き飛ばされたりしても、友達庇うの、凄いなって思って。……でもいつだったか、二人にすげなくされる仁宮を見て笑ったのを、仁宮の仲間に見られたんだよね。嫌がらせはそれ以前からもされていたんだけど、きっとあれで、本格的に目を付けられたんだと思う……」
 恥ずかしい場面を見られて笑われて、バカにされたと思ってカンカンになる仁宮。その怒りを弱い者虐めで解消しようとする彼の姿は、容易に想像ができた。
「僕が見ていたのは誰かなんて、そんなの関係なかったと思うよ。虐めの口実ができたことの方が重要でさ。でも僕にだって、プライドがあるからね。美術部が荒らされて、他の奴らにまで迷惑かけたのが信じられなくて、それで喧嘩吹っかけたんだ。……凄いでしょ、僕から喧嘩を売ったんだよ。――とにかく、僕が勝ったら川瀬さんらに手を出すな、一対一の男同士の勝負で決着をつけようってことになって。で、結果は知っての通り」
 おどけて小林くんは両手を広げる。だけどあたしも春華も笑わなかった。
「あなたは右の腕の骨を折られて、仁宮は鼻の骨と歯を折られた」
 口を挟んだのは春華。肩をすくめて、小林くんは一人で自嘲気味に笑った。握ったり開いたりするのは右の手。彼にとってあの喧嘩は、きっと負けたも同然だったのだろう。
「今でもね、絵を描こうとすると、仁宮が言ったことを思い出すんだ。『お前が自分の大事なものを犠牲にする覚悟があるってんのなら、その覚悟に免じて、川瀬から手を引いてやるよ』って。……右腕差し出したつもりはないんだ。でも結局折られたんだから同じことだよね。しかも今でも、絵筆握るのが怖いんだから情けないよ。染みついた恐怖って言うのかな。それ拭い取るために、らしくもなく空手部なんかに入ってみたんだけど、でもいくら強くなっても絵筆が握れなくちゃ、意味が無いんだよね……」
 あたしの知らないところで、どれだけの葛藤があったのかあたしは知らない。
 だけどあらしにだって、女の子にモテたいからなんていう軽薄な動機ではなく、小林くんにはもっと切実な願いや苦労や悩みがあって、自分と戦うということを知っていて、その結果が、今の小林くんなのだということくらい、よく分かる。想像できる。
 明るい表情の、昔とは全然違う、今現在の小林くん。
 そして彼は、今も戦っているのだ。
 その戦いの一つが、美術部に入部することだったのだ。
 それをあたしは邪推して勘違いして。あたしは自分が恥ずかしかった。
 どうして彼があたしに声をかけたのかなんて、くだらないことをいつまでも気にして。自分のコンプレックスに拘って。それだって本当は、春華に嫉妬してのことだったのに。
「……助かったわよ、こっちは。ホントにあいつ、しつこかったもん」春華が言う。
「うん。……実際には、川瀬さんのためではなくて、芦田さんのためだったんだけどね」小林くんがあたしを見てにっこり笑った。
「尊敬してたんだ。僕はいじめられっ子で、勇気なんて全然なくて。なのに芦田さんは友達のために頑張っていて。それに引き替え僕はあいつらから逃げ回っているだけで、そう思うと自分が情けなくって。……ずっと、気になっていたんだよ。芦田さんのことが」
 すっくと小林くんが立ち上がる。階段を降りてくる。あたしは条件反射で一歩後退。だけど一歩だけで、何とかその場に踏みとどまった。
 ここで逃げたらダメだって、あたしにも分かってる。でも本音は全力で逃亡したかった。その後に続く言葉を想像するのは簡単で、でも恋愛は苦手で。あたしは全然変わらない。
「やっぱり、僕じゃいやかな? ……じゃあさ、せめて、友達からなんてどうかな?」
 苦笑いを浮かべて小林くんが言う。その後ろにいる春華の、どうするの、と問いかける視線が突き刺さる。もちろん、友達も嫌だなんてのは、さすがにおかしいだろう。でも彼の本心が違うのは分かってるんだ。そしていつか、いつかその日がやってくるかもしれないんだよ? ――いや、きっとやって来るのだろう、答えを求められる日が。
 ……いやでもしかし。それまでに恋が冷めるかも知れないし。あたしは一条の光を見出した地獄の亡者のように、その光にすがりついた。それに春華も言ったじゃないか、これはリハビリだって、あたしの男嫌いを直すリハビリだって。
 人生において、逃げることが許されない場面というのがある。きっとそれが今なのだろう。性懲りもなく頭の中でぐるぐる言い訳をしながら、あたしは頭を下げてこう言った。
「……あたしでよければ、お願いします」

 しかしながら気まずいことに、昼休み終了のチャイムが鳴って教室に帰る道すがら、二人がぼそぼそと内緒話をするのを、あたしはしっかり聞いてしまった。
「ね、小林くん。本当に友達からでいいの? あの子、男嫌いだから安心とか思っているんでしょうど、でもホント、あの子もの凄い奥手なのよ。大丈夫なの?」
「これから時間をかけて何とか。それに、本丸落とすには外堀からって言うでしょ。さっき言ってた例の搦め手で行きたいんで、川瀬さん、ご協力お願いできないかな?」
 あたしが奥手なのは事実だけど、外堀って何? 搦め手って何?
「え、あれ? 本気でやる気? でもあたし、男を見る目ないって言われてるしなあ」
「どうしてそういう、意地の悪いことを言うのかな。わざわざ僕に告白させるような真似をしておいてさ。……僕の頬を叩いたの、あれ、わざとだったんでしょう?」
「……あ、バレてた? だってあの子、小林くんがあたしに気があるって勘違いしてるみたいだったからさ。親友として、一発かましてあげないとって思ったのよね」
 全部聞こえてるぞ。もちろんあたしは聞いていないフリをしたけど。だってこんな会話、どうやって参加したらいいのか分からない。って言うか、参加なんかしたくもない。
 春華があたしの背後で、呆れた声で呟いた。
「小林くんって、臆面もないことを平気で言うわね。人格変わったんじゃなくて、本当はそっちが本性なんじゃないの?」
「やだなあ。僕はもともと、素直な性格なんだけどな」
 くすくすと笑いながら、小林くんが言い放つ。だったらメチャメチャ、やばいんだけど。
 だけどやっぱりあたしは、聞こえていないフリをするしかないのだった。

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