1 事件起こした張本人

「ね、芦田さん。僕のこと覚えてる?」
 突然話しかけてきたのは、こんがりと日に焼けた、爽やか眼鏡男子だった。
 誰だ、こいつ? 素早く胸の名札を見てみると、一年二組、小林、とあった。
 同じ学年で、クラスは隣。だけど目の前の眼鏡くんに、見覚えなんか全然なくて――もといすぐには思い出せなくて――あたしはとっさに一歩、いや多分三歩はあとずさった。
 背中に下駄箱兼用ロッカーがぶち当たる。なのに小林某は、構わずあたしに詰め寄ってくる。いったいなんなのよ、あんた? あたしは警戒をマックスにした。
「ええと、ごめん。……全然分からないんですけど」
 案の定、小林某はちょっと傷ついた顔を見せた。
「そっか。……えーとね、僕、二組の小林文弥って言うんだけど、ホントに覚えてない? 中学三年の時に同じクラスで、それから部活でも、一緒だったんだけど」
 眼鏡の奥で苦笑を浮かべた瞳が、あたしを窺う。それより顔を近づけすぎだと思うんですけど。あたしが威嚇と牽制を込めた視線で見上げれば、彼はようやく気がついたのか、一歩下がって適正な距離をあけてくれた。あたしは思わずほっとする。
 それにしてもこの人誰よ? 元同級生で、部活でも一緒だった? そういえばこの銀縁眼鏡、どこかで見たことがあるような……。
 自称・元同級生の顔をまじまじと見つめて、あたしはあっと声を上げた。
「……小林文弥って、美術部の部室荒らされてぶち切れた、あの小林くん?」
 眼鏡くんはちょっと気まずそうな面持ちになって、うん、その小林です、と頷いた。
「やっぱり芦田さんも僕のこと、それしか覚えていないんだね……」
 半年ぶりに再会した元クラスメートは、自嘲気味な苦笑いを浮かべたのだった。

 元クラスメートで同じ美術部員だった人間の顔と名前、両方すぐに思い出せなかったのってどうよと自分でも思う。しかも相手はあの小林くんなのに。
 でも、どうか非難する前に、落ち着いてあたしの言い分を聞いてほしい。だって今の小林くん、あたしの記憶の中の小林くんとは全然違っていたんだから。
 それはもう別人みたいに。
 あたしの知る小林くんは典型的なもやしっ子で、色白の華奢な体格、銀縁眼鏡の奥には翳りのある目つきを隠し、表情も乏しく、近寄りがたい雰囲気をまき散らし、そうして教室の片隅で、いつもひとりぼっちで読書――それも手にしていたのは画集か大人向け文芸書――をしているような少年だった。暗く陰気なイメージ。
「なんか雰囲気変わったよね。高校デビューしたって感じ。その髪もイメチェン?」
 思わず軽口を叩いてしまったのは、無理にでも和んだ空気を演出したかったからだ。
「――いや、特に考えてはいなかったんだけど。やっぱ短すぎたかな。ダサイ?」
 短い前髪を引っ張りながら、そんなことを訊く小林くんには、やっぱり違和感ありまくりだった。第一ダサイなんて単語が、あの小林くんの口から出てくるなんて。
 思い返せば中学時代、小林くんはお洒落なんて全然気にせず、漆黒の長い前髪を障壁にして自分の世界を築いていた。そのせいかクラスでも浮いていて、自分たちは流行の最先端を行っていると信じているグループからは、嘲笑と侮蔑の的にされていたのだ。
(あいつキモくない?)(性格暗いよね)(友達いないんじゃないの?)
 だけど今の小林くんはあの頃と違って、翳りや暗さ、あるいは不屈の精神と言ったものが、一片たりとも感じられなかった。きっと表情が明るくなったせいだろう。
 気の合う仲間と、太陽の下でバスケや野球なんかを楽しんでいるのがお似合いな、日向のイメージ。薄暗い美術室で、気迫のこもった目をしてキャンバスと対峙する小林くんなんて、きっと昔の彼を知らなければ想像もできないだろう。
 どうやら人間、変われば変わるものらしい。あたしは内心唸ってしまった。
 不良どもを相手にブチ切れて、派手に暴れ回ったのは一年前。あれで何かを吹っ切ったのだろうか。昔の記憶を掘り返しても、やはり彼が自分から誰かに話しかける姿を見た覚えは、どこにもなかった。ましてや笑顔など――たとえそれが苦笑であっても――見た記憶はあたしにはない。なんて、考えればよく見ていたものだと内心呆れつつ思い出す。
 とにもかくにも、性格が明るくなったのは良いことであるに違いない。しかしどういうわけか、あたしはひどく動揺していた。まさか彼が、こんなにも変わっているなんて。
 ――だってこれじゃあ、ただの軽薄な遊び人みたいじゃないか。
 昔の小林くんの雰囲気を残すのは、よく似合う銀縁眼鏡、それだけなのだ。
「ううん、似合うよその髪型。それに日に焼けて、なんだかたくましくなったみたい」
 すぐに思い出せなかった後ろめたさも手伝って、つい調子のいいことを言ってしまう。
 でも彼はそんなあたしの動揺には気がついていないようで、嬉しそうに笑って言った。
「うん、脱・虚弱体質を目指しているから。部活でもだいぶ、鍛えられたし」
「クラブって、何やってるの?」
 中学時代、あたしは幽霊部員だったけど、にも関わらず彼の評判はよく耳に届いた。
 いかにデッサンが上手で、筆遣いが巧みで、色遣いの品がよくて、アイデアが秀逸か。そしてどれほど熱心に、絵を描いていたか。それほど絵を描くことを、楽しんでいたか。
 だから小林くんの答えを聞いて、あたしは一瞬呆けてしまった。
「それが実は色々あってさ。……空手部に入っちゃったんだよね」
「……は? からてって、まさかあの空手部? ……小林くんが、瓦割ったりするの?」
「瓦は割らないけど、まあ、あの空手部だね、格闘技の。……そんなに意外?」
 小林くんが、驚いたあたしの顔をのぞき込んで、くすりと笑う。
 意外とか言う以前の問題だ。だってあたしの神経回路の中ではまだ、今目の前にいる小林くんと、あたしの知る昔の小林くんとが、しっかりと結びついていないのだ。
 どうやら変わったのは、外見だけじゃないらしい。とは言えそれにしても、あの小林くんが格闘技だなんて、とち狂ったとしか思えない。
 そりゃあ昔、不良ども相手に乱闘騒ぎを起こしたことのある小林くんだ。それに今の小林くんは、爽やかな笑顔を振りまく少年で、でもでもやっぱり格闘技なんて似合わない気がしてなんと言うか、昔の彼を知っているあたしはどうしても、首を捻ってしまうのだ。
 あの名付けるならば『部室荒らされて小林くんぶち切れ事件』とでも呼ぶべき出来事から早一年、人間変われば変わるものだとは、ついさっき思ったところ、しかしいくらなんでも、ちょっと変わり過ぎではあるまいか? ……本当にこの人、あの小林文弥?
 華奢で生真面目で寡黙で表情に翳りのあった、あの小林文弥なの?
「意外って言うか、その……絵の方はまだ、描いているんだよね?」
 恐る恐る聞いてみる。高校でも美術部に入部したくせに、やっぱり幽霊部員しているあたしが聞くのも妙だけど、でも気になった。彼は現在確かに、美術部員ではない。それでも本当に絵が好きなら、やはり描き続けているはずだと思ったのだ。
「――あ、いや。それが全然。……しばらく辞めていたんだよね、描くの」
 あたしから視線を外して俯いて、口元だけで薄く笑って。訊かれたから、仕方ないから答えるけど、みたいな言い渋るような口調だった。あたしは考える前に尋ねていた。
「どうして? あの時あんなに怒っていたのに。マジ切れして、手がつけられないくらいに大暴れしたんでしょ? あれは自分の作品を台無しにされたからじゃ、なかったの?」
 
 約一年前、小林くんが部室で泣いているのを見たのは、何もかも終わったあとだった。
 部屋の窓が割られ、石膏でできた胸像が壊されていた。床一面に画材道具がぶちまけられ、絵の具のチューブが踏みにじられ、描きかけのキャンバスにはナイフで斬りつけられた傷が何本も走っていた。煙草の吸い殻が転がっていて、それを押しつけた跡もあった。
 荒らすために荒らしたのだろう部室に、部員たちは声を失ったものだった。
 美術準備室――そこは作品の保管室でもあった――が荒らされたと知って、だけど幽霊部員だからと割り切ることができたあたしは、薄情にもさっさと一人、帰宅してしまったのだった。だから小林くんがその後、犯人――正確には重要参考人であって犯人とは断言できない学校の鼻つまみども――たちと乱闘騒ぎを起こしたのは、あとで知った。
 小林くんが彼らに目を付けられ、たびたび嫌がらせされていたということも。
 ――いじめられっ子が牙を剥いたのだ。窮鼠猫を噛むのことわざ通りに。
 だがみんながそう言って、その意外性ある事件を「こんなこともあるさ」と日常レベルに溶かし込んでいく中で、あたしはその事件だけは、なかなか忘れることができなかった。
 そのせいだろうか。あとから話を聞いて想像するしかなかったあたしには、小林くんが大暴れした事件周辺の話よりも、制服の袖で涙をぬぐう姿の方が、うんと思い出深いのだ。
 美術準備室の、絵の具やニスの臭いが混ざり合った独特の空気。窓辺から忍び込む夕陽。運動場から聞こえる部活に励む学生の声。右腕にギブスをして、立ちすくむ少年。
 同時に思い出すのは、男の子が泣いているのを見てしまった罪悪感だ。だったら早く立ち去ればよかったものを、あたしは少年の背中から目が離せなくなっていた。足元に落とす影の、黒々とした何かが床に染みわたっていくのを、食い入るように見つめていた。
 あの事件で、小林くんはどれほどのものを失ったのだろう。描きかけの絵が台無しにされただけじゃない。彼は利き腕の骨を折られたのだった。多勢に無勢、体格の差、喧嘩慣れの有無。そもそも小林くんが喧嘩して、勝てる相手ではなかったのだ。
 しかし乱闘騒ぎで得たものもあったはずだ。卒業するまでの間、小林くんが誰からもバカにされたりしなくなった。それはあたしにとってもまた、「得たもの」だった。
 だってあたしは親友の春華と一緒に、彼に恩義を感じていたから。
 それもこれも、彼はあの時、取り巻きを無視してリーダー格の少年の仁宮だけを狙って反撃したらしく、彼の鼻の骨と前歯を二本、折ったからだった。窮鼠猫を噛む。ざまあみろ。他の身に覚えのある同級生も、それで小林くんに恐れをなしたに違いない。
 だけど、聴衆や侮蔑の言葉を遠ざけることに成功した代わりに、小林くんに訪れたのは孤独だった。個人的に親しくしていなかったから記憶も曖昧なのだけど、最後まで小林くんに友達ができた様子はなかったのだ。
しかもその上――その事件直後、小林くんは美術部を退部してしまったのだ。
 それは責任を取って退部というよりも、時期的なもののせいだと、当時のあたしは思ったものだ。文化祭直前のことでしかも受験生、文化祭が終われば引退を余儀なくされるのは定石だ。だから右腕を使えなくなった小林くんが、みんなより一足お先に引退を表明しても別に奇妙だと感じなかった。居づらくなったのかな、と邪推した程度だった。
 そもそも部室荒らしの犯人が奴らであるという、確たる証拠が見つからなかったのだから、たとえどんなに奴らの嫌疑が濃く、奴らが他でも様々な悪事を働き、あるいは人に嫌がらせなどをしていていたとしても、ただの喧嘩と見なさざるを得なかったのだ。
 学校側――美術部の顧問や担任教師、それから同じく被害を被った部員たちさえも。
 悔しいのは作品をダメにされたこと、だから部室で一人、彼は泣いていたのだろうと思ったのだ。それを疑う理由なんか、当時のあたしには思いつかなかったのだ。
 ――それだから、まさか小林くんが絵筆を折ってしまっていたとは、思わなかった。
 驚愕の事実。いったいどうして? どうして今まで辞めていたのよ?

「まあね、さすがに僕だって、自分の作品台無しにされたら腹が立つよ。だからあの時は大暴れしたんだけど。……でも、そろそろ立ち直ってもいい頃だろうと思ってさ」
 小林くんが、よく分からない言い回しをして、あたしの顔色を窺うようにして言った。
「……もし、空手部と掛け持ちで入部したら、嫌がられたりしないかな?」
 どうやら彼は美術部に入りたくて、あたしに声をかけてきたらしい。なんだ。あたしは肩の力を抜いた。いきなり変なことを訊いてくるから、変に驚いてしまったじゃないか。
 小林くんの言いたいことが分かった途端、何故だか急に恥ずかしくなって(なんで恥ずかしくなるんだ、その方がおかしいじゃないか!)あたしは素っ気なく言った。
「いいんじゃない、て言うか幽霊部員より全然いいよ。入りなよ美術部。絵が好きなら遠慮せずにさ。あたし、小林くんの描いた絵、評判よかったの知ってるし。それよりなんで今まで我慢してたの? そんなの気にしないで、さっさと入部すれば良かったのに」
 あたしは美術部員だけど幽霊部員で、だからただの平部員と自称するのもはばかられる立場で、だから掛け持ちしていいかどうかなんて本当は分からない。何も言えない。
 だけどあたしはあの事件で、小林くんに義理があるのだ。とは言っても、小林くんには与り知らぬ事なのだが。それを今になって思い出して、あたしは彼が絵を書くのを辞めていたことに申し訳なく思い、そして同時に恩を返そうと決めていた。この場で。
「本当にいいの、掛け持ちしても? じゃあ明日にでも、入部届け出そうかな」
 小林くんは嬉しそうな笑顔を見せた。そして自分のロッカーに手を乗せて、そのまま考え込むようにして固まってしまった。笑顔まで引っ込めて。
「……どうしたの? 別に気を遣うことなんて、ないと思うけど」
「――いや、そうじゃなくて。……ちょっと、どうしようかと思って……」
 わけの分からないことをモゴモゴ呟く。変な感じだと思っていたら、何やら横顔に盗み見するような視線を感じて、もう一度あたしは彼に、どうしたの、を繰り返した。
「うん、その……。芦田さんは幽霊部員だから、こんな頼みはどうかと思うんだけど」
「何? まだ、何かあるの?」
 慎重に尋ねれば、小林くんははにかむような笑顔で言った。
「美術部の勝手ってよく分からないし、知り合いもいないから、色々教えてくれる人がいたらなって思って。……しばらく僕に、付き合ってもらえないかな?」
 彼が言わんとする意味を掴みかねて、あたしはマヌケ面を晒してしまった。付き合うって、どういうことよ? 何をするのに、あたしに付き合えっての?
「――付き合うって……つまり、部活に? 美術部に入部するのに?」
「両方かな。ついでに――デッサンの練習台になってくれたら、嬉しいんだけどな」
 小林くんは、さらりと凄いことを言ってくれる。あたしは目を剥いて驚いた。
「練習台って、あたしにモデルになれって言うの? 冗談! やだよ恥ずかしい!」
 即答で拒否。モデルなんて絶対ヤだ。確かに義理はあるけど、そんなの無理だ。
 だがその義理を知らないはずの小林くんは、くつくつと笑って言った。
「……どうしてそんなに嫌がるかなあ。まさかきみに、裸になれなんて言わないよ」
「あ、当たり前でしょ! 裸なんて冗談じゃないわよ。ビックリさせないでよ!」
 赤面するあたしを見る小林くんは楽しそうで、まるで女の子の嫌がるのを見て喜んでいる、小学生の男の子のようだ。あたしは恥ずかしさのあまりに頬が熱くなるのを感じ、それを自覚して、今度は嫌悪感の波に襲われた。バカね、本気にしてどうするのよ。
 あたしはコンプレックスの塊なのだ。自分の顔も髪も手も足も大嫌いで、そんな自分が紙に描き出されるなんておぞましいとしか思えない。醜悪だ。悪趣味もいいところだ。
 こんな醜い自分を、モデルにしたい奴なんているはずがないんだから。
 ところが小林くんは一転、態度を改め両手をあわせて、神さまお願いポーズになった。
「頼むよ。イスに座っているだけでいいから。誰にも描いたやつ見せないし。それに芦田さんだって美術部員でしょ、たまには部活動に参加しないと。……ね?」
 今度こそあたしは唖然としてしまった。……本当に本気なの? 信じられない。あたしにモデルを頼む趣味の悪さも、それを頼むのがあの小林くんだということも。
 昔の小林くんは寡黙で、話しかけても必要最低限の返事しか返ってこなくて、笑ったりはしゃいだりなんて見たこともなくて。――それとも、あたしが知らないだけでこっちが本性、実は小林くんは臆面もない人だったりするのだろうか。よく、分からない。
 ただ、今のあたしが言えるのは、こんな小林くんを知らなかったということだ。
「……分かった」あたしの声に、小林くんがぱっと顔を上げた。
「いいよ、付き合ってあげても。――その代わりモデル代、払ってもらえるのよね?」
 確認のための問い。拒絶代わりの交換条件。意地悪くあたしは笑う。たとえ練習のためでも嫌なものは嫌なのだ。だって顔とか足とかじろじろと見つめられるなんて。
 もちろんこれが自意識過剰で、あたしが気にしすぎるだけなのは分かっている。――そう、理屈では分かっているのだ。理屈では。それでもやっぱり、どうせモデルを頼むなら、あたしの親友の川瀬春華みたいな子にすべきだと思うのだ。
 色白でお目々ぱっちり、笑顔の可愛い彼女なら文句なしだ。
 それに昔のこともある。……本当はそれ、春華にお願いしたいんじゃないの?
 ところがあたしの策略を軽く無視して、小林くんはやんわりと笑って言った。
「そうだね。お礼ぐらいはするよ。あんまりたくさん出せないけど。……希望はある?」
 予想しなかった展開に、あたしは二の句が継げなかった。まさか本気? お金を出してまで? 真意を探ろうと彼の目をのぞき込んだが、にっこり笑う目に揺らぎはなかった。
 あたしが答えられずにいると、彼が言った。
「普通はアルバイトで雇うものなんだよね、モデルって。でも僕のお小遣いじゃ一日で終わってしまうから、一回いくらでどうかな? 例えば、その日の昼飯代とか」
「……あ、うん。……それでもいいよ」
 茫然自失。気がついときには、そう返事をしていた。
 もお、あたしのバカバカバカっ! なんでそんな簡単に引き受けてしまうんだ!? 
 だけど、グズグズ駄々をこねるのもみっともないし、なんて、こんな時に限って見栄っ張りな部分が頭をもたげたりして、何を見栄張ってるんだよあたしはいったい!?
 あたしの混乱をまるで知らずに、小林くんは破願して喜んだ。眼鏡の奥で、目が細くなる。ああ、小林くんの笑顔を見るのも初めてだったんだな、と今さら気づく。
 昔は表情も暗くって、いつも教室の片隅で仏頂面していたのに。それ以外の表情は、部室で泣いているところしか見たことがなかったのに。ホントこの人、明るくなった。
「――それじゃあ、明日からお願いするね。明日――昼休みに。入部届出しに行きたいんだ。ちゃんと体空けといてね。ランチ代ならその時渡すから。よろしく」
 釘を刺すのも忘れず、小林くんは走り去っていく。今日は空手部の日なのだそうな。
 彼の背中を見送って安堵して、そしたら急に気になったことがあった。どうして彼が声をかけたのが幽霊部員のあたしで、しかもあたしにモデルを頼んだりしたのだろう。
 同じ中学出身で、とりあえず美術部に籍を置く知り合いだから?
 だけどどうして彼、あたしが美術部員だってことを知っていたのだろう?
 もちろん調べるのは簡単だ。名簿を見れば一目瞭然だし、あるいは誰か知り合いから聞いたのかも知れない。昔と違って今はきっとそれなりに、友人だっているだろうし。
 でもあたしは幽霊部員で活動なんてほとんどしていないし、そもそも美術部に友人がいるのなら、あたしに付き合うよう頼む必要もないはずなのだ。
 ……なんか変だ。これはちょっとものすごく、奇妙な感触がする。
 嫌だ。なんだか気分が悪い。小林くんとは明日も会うのだ。なのに思考があさっての方向に流れてしまって非常に困った。まさかまさかそんなこと、あり得ないって。
 だけどあたしの困惑とは裏腹に、様々な疑惑が浮かんでは消えていく。あたしは頭を振って靴を履き替えた。あたしの義理、あたしたちの恩義。それに関係があるのだろうか。
  
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