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法律講座

 

目指せっ!!エセ文化人TOPへ

エセ文化魚による、エセ文化人を目指す人のための、エセエッセイです。

エセ文化人を目指す人のために、これを使えば、知っていれば、あなたもエセ文化人になれるっ!!という言葉を厳選し、解説していきます。

エセ文化人は、カタカナ語が大好きですので、メインは、カタカナ語の解説になると思います。エセ文化人を目指さない方も、興味のある方は、お気軽にお読みくださいませ。

なお、当コンテンツで取り上げる言葉の意味については、一応、辞書等で確認の上、間違いのないようにしたいとは思いますが、なにぶん、エセ文化魚の書くものなので、間違いのあった場合はご容赦を( ̄m ̄)

* エセ文化人の定義・・・ここの文章を読んで、怒った人

第1講 ヒエラルキー

第1回目の言葉は、「ヒエラルキー」。

ドイツ語読みなら、「ヒエラルヒー」、また、英語読みなら、「ハイアラーキー」の方が正しいはずだ、などというのは、エセ文化人としては野暮というものです。ここは、堂々とヒエラルキーと発音してもらいたいところです。

意味は、階級制や階層制。特に、ピラミッド型の、上の管理者ほど少なく、下の被管理者ほど多くなるという支配階級体系を表します。

ま、会社なんていうのを思い浮かべたら、それが典型的なヒエラルキーになりますね(社長の下に数人の取締役がいて、その下にもう少し多い部長がいて、その下にさらに多い課長がいて・・・)。

基本的には、悪口であり、自由や平等が満たされていない状況に対して使われるようです。特に教育分野でのヒエラルキーは目の敵にされ、校長や教頭による一般教職員への管理の反対や、子供たちへの管理教育の反対を掲げて、日夜努力されている方が、エセ文化人には多いようです。

そして、彼らのこの努力の結果生じた、学級崩壊や、問題教師の増加などについても、文科省や教育委員会を悪者にして非難するという、新たな仕事を作り出してしまいます。一粒で二度美味しい商売といえるでしょう。

やはり、エセ文化人は、金銭的に目指す価値があるのではないでしょーか?

2003/05/23

第2講 フェミニズム

「フェミニズム」とは、女性を表す英語の「フェミニン」に、理論、主義などを表す「イズム」がついたもので、直訳すると「女性主義」とでもなるのでしょうが、一般的な意味としては、「女権拡張論」、「女性解放論」などと訳されています。

ようは、女性の人権が男性に比べて著しく低いので、女性の地位を向上させ、男女同権の世界を実現しようという思想のことです。実際に地位が低いかどうかは関係ありません。低いと断言することによって、一つ仕事が増えるんですから、エセ文化人としては是が非でも断言せねばなりません。なお、こういった理論を主張する方々を、「フェミニスト」といいます。

* 現在の日本では、一応、法律上は男女差別はないことになっています。なにせ、憲法で禁止していますので。一部問題になっている法律はあるのですが(女性のみの再婚禁止期間など)、これらは合理的≠ネ理由とされています。ただ、社会的な関係で、特に会社での雇用差別などは存在しているのは事実だと思います。上での書き方では、管理人が男女差別なんかないと思っているようにとられそうなので、念のため。ただし、管理人がフェミニストかどうかは別問題です( ̄m ̄)

「フェミニスト」を、女性に甘い男性に使う用法もありますが、これは本来の用法ではありません。こういった使用法については、「フェミニズムのなんたるかが、全く理解できていない。ことさらに女性に優しくするなど、逆に女性が男性より劣ったものであるという差別主義であり、これこそが現在の女性が不当に扱われていることについての根元だ」と、徹底的に非難するのが、正しいエセ文化人としての行動です。

フェミニズム問題については、基本的に役割分担があります。女性エセ文化人が過激なフェミニズム論を展開し、それを男性エセ文化人および一部女性エセ文化人(年配の女性の役回りが多い)が小馬鹿にし、お互いがやり合うという形です。

一般視聴者にとっても実感しやすい話であり、論理的な主張でなく、感情的な罵りあいでも議論が成り立っているかのように錯覚されるので、中身のないエセ文化人にとっては非常に重宝される話題です。また、それぞれの立場で、役割分担もきっちりとおこない(特に性別による役割分担)、住み分けが可能なところが、ポイントです。

実際、女性エセ文化人の多くはフェミニスト出身の方が多く、その中でもラディカルフェミニスト(過激なフェミニズム論を唱える方々)は、視聴率がとれるので(「あー、あの人、また馬鹿なこと言ってるよ。面白いなぁ」と人気がある)、よく見かけられます。

こういった方々は、基本的にフェミニズム論以外の知識がありませんので、そのままエセ文化人として生き残るためには、どれだけフェミニズムとは遠い話題でも(経済不況、イラク戦争、北朝鮮問題など)無理矢理フェミニズムに関連づけて、全く見当はずれな方向での回答に結びつけるという荒技を繰り出すことができなければいけません。

ですので、フェミニスト系のエセ文化人を目指すためには、知識を身につけるよりも、落語の三題噺(全く無関係の言葉を3つお題として出してもらい、その3語を使って1話の落語にすること)の練習などの方が実践的になってきます。

よく、女性の敵は女性だと言われます。それは、(フェミニストの言う)男尊女卑体制を肯定する男性よりも、肯定する女性の方が厄介な存在であるからなのですが、実際のところは、それ以上にフェミニストの敵はフェミニストであるということの方が正しいかと思います。

しかし、エセ文化人は、フェミニズムを語るのをやめてはいけません。たとえ、エセ文化人のせいで、フェミニスト全員がバカだと思われても、頭がおかしいと思われても、その結果、フェミニズム論自体がカルト宗教(オウムのような宗教)の教義のようなものだと思われてしまっても、やめてはいけないのです。男女同権の実現なんてどうでもいい、自分たちがその障害であってもいい、全ては自分たちの仕事のために、お金のために語るべきなのです。

2003/06/05

第3講 ジェンダー

前回の「フェミニズム」に関連した言葉として、今回は「ジェンダー」を取り上げます。

ジェンダーとは、「性別」を意味しますが、その性別は生物学的な意味の性別(セックス)ではなくて、社会的・文化的に規定される性別を表します。

ようは、「女らしく」とか、「男のくせに」とかの文脈で使われる場合の「男・女」の区別のことです。

このジェンダーについては、否定することが今のエセ文化人の主流です。今までの長年の文化なり、伝統なりから続いてきているものでも、何のためらいもなく、切って捨てなければなりません。ジェンダーとは、男女をそのらしさ≠ノ閉じこめる檻(おり)であり、破壊しなければならない障壁(しょうへき)なのです。

看護婦やスチュワーデスといった表現も、ジェンダーです。看護師や客室乗務員といわなければなりません。桃太郎で、お爺さんが山へ柴刈りに行き、お婆さんが川へ洗濯に行くのは、男性が外で働き、女性が家事をするのを前提としているジェンダーです。そんなおとぎ話、子供に読ませては悪影響が出ます。シンデレラ?白雪姫?女性が男性に救われるだけの存在だなんて、許されがたいジェンダーによる差別です。女性が大活躍するアリーテ姫の物語でなければダメなのです。

そういった、ジェンダーをなくすこと、ジェンダーにとらわれずに生きていこうとすることを、「ジェンダーフリー」といいまます。ジェンダーという言葉が出てくるときには、常にセットとして使わねばならないので、よく覚えておいてください。

ジェンダーフリーを目指すエセ文化人からすると、女らしく生きる女性は、許せざる存在です。彼女たちが望んでそうしていても、それは、自分に嘘をついて生きているのです。女性らしく生きることを望む女性は、旧来からの社会に洗脳されてしまった可哀想な存在なのです。彼女たちを、徹底的に否定し、軽蔑し、再教育しなければなりません。女性には、女らしく生きる権利などないのです。そうでなければ、ジェンダーフリーとはいえないのです。

もちろん、掃除のできない女や、料理のできない女の特集の時には、大いにため息をついて、今後の日本を憂わなければなりません。それを矛盾ととらせないスタイルこそ、エセ文化人の腕の見せ所です。

2003/06/10

第4講 サイレント・マジョリティー

直訳すると、「静かな多数者」となり、よく、「声なき多数者」と訳されています。

ようは、何らかの組織や団体に属していないので、マスコミなどで発言したり、デモを起こして拡声器などで叫んだりすることもなく、その結果、世間に知られることのない人々の意見、もっとわかりやすく言えば、普通の一般大衆の意見のことです。

以前、当時プロ野球チームの監督だった方のご婦人がワイドショーで叩かれていたとき、その方が「サイレント・マジョリティー」のことを「サイエンス・マジョリティー」と言って失笑を買った出来事がありましたが、エセ文化人としては、このようなわかりやすい間違いをしては大きな恥になりますのでご注意ください。サイレントをサイレンスと言っただけでも、手痛いミスになりかねないのが、エセ文化人の厳しい一面です。コトの本質に全く関係のない、どうでもいいことこそ、大切にしなければなりません。

その人の考えを批判するには、批判する方にもそれなりの知識や論理的思考能力が必要になりますが、言葉の間違いを攻撃する分には、さして脳味噌はいりません。ライバルは消えてもらうに越したことはありません。また、間違いを指摘することにより、自分が賢いと勘違いさせることもできます。細かなところですが、日々のこうした努力が、エセ文化人としてステップアップしていくための貴重な糧(かて)となりますので、お気をつけください。

なお、第1回目で指摘した、ヒエラルキーの発音レベルの小難しい間違いになると、逆に何を細かいことを言ってるんだ=Aインテリぶってる嫌味な奴だ=Aなどとかえって反感を買う恐れもあるので、難しいところです。とりあえず、サイレントなどの、普段から割合聞き覚えのある言葉かそうでないかで、対応を変えた方がいいでしょう。聞き覚えのない言葉の場合は、発音の仕方≠フ違いで逃げ切ることも可能です。正直、「サンクトペテルブルグ(ロシアの都市名)」を少々言い間違えようが、誰も気づきません。「スリジャワルダナプラコッテ(スリランカの首都)」なんて、誰も聞こうとすらしません。

話がずれましたが、ようは、エセ文化人は、「サイレント・マジョリティー」の代弁者として、マスコミで、一般大衆の思いを伝えなければなりません。あくまでも、代弁者として≠ナあり、実際の内容がサイレント・マジョリティーの思いと同じかどうかは関係ありません。ようは、大きい声で、マスコミで叫び、それが大衆の声だと言い張ればいいのです。私の意見こそ、サイレント・マジョリティーの意見だと叫べばいいのです。

万一、世論調査で大衆の声がわかってしまえば、今までの意見を180度変えればいいだけのことです。世論調査がなければ、もう、怖いモノはありません。思う存分、好き勝手言ってください。あなたの声が、大衆の声≠ネのです。

なお、余談ですが、サイレント・マジョリティーの対義語として、「ノイズィー・マイノリティー」という言葉があります。これは、「やかましき少数者」とでも訳すもので、一部の人間の意見が、テレビなどで(タレントや評論家の場合もありますし、デモなどの示威行動における取材もありますし、そもそもマスコミ自体がそうである場合もあります)広く伝えられるために、実際に同じ様な意見を持っている人は少ないのに、あたかもその意見が世論であるかのように、都合良く利用されるものを言います。

これは、あくまでも余談ですしね。他意は一切ありません。

2003/06/17

第5講 マニフェスト

今回は、今流行の「マニフェスト」。「政策要綱」などと訳されているようですが、「マニフェスト」だと、実は「船舶積荷目録」という意味になるようです。本来は「マニフェストウ」という発音が正しいようです。もっとも、完全にマニフェストで通っているので、ここは不正確でも、マニフェストと呼んでおく方が無難でしょう。ちなみに、これはイギリスでの使い方で、アメリカでは政策要綱のことを「プラットフォーム」と言います。

マニフェストとは、ようは、政治家の「公約」のことなのですが、エセ文化人たるもの、そのような安易な訳を使ってはいけません。むしろ、逆にマニフェストというものは、公約とは全然違う、素晴らしいものだと力説せねばなりません。

すなわち、公約というのは、抽象的で、曖昧なものである。それに対して、マニフェストとは、数値目標を備えた、具体的かつ明確なものであると。

なんのことはない、数値をまじえた具体的な公約を出せば、それがそのままマニフェストと同じモノになるのですが、それではありがたみがありません。一般大衆が今まで聞いたことがないような言葉を使うからこそ、今までの日本にはなかった、全く素晴らしいものであるかのように錯覚させることができるのです。「数値目標を定めた、具体的でわかりやすい公約」などと、わかりやすい表現をしては、なら、なんで今までできなかったんだと、非難されるのがオチです。聞いただけでは意味がわからないような言葉だからこそ、値打ちがあるわけです。

なので、これからしばらく政治ネタでは、特に、いつ衆議院解散、総選挙があるかもしれないというこの時期には、エセ文化人としては、是非ともマスターしておきたい言葉の一つです。ゲストで政治家が出たら、まずはさておき、あなたのマニフェストは?と聞いてみましょう。まともな政治家なら、マニフェストは政党単位での政策、公約であり、個人が出すものではないんですよという、正しい♂答をしてくれるでしょうが、エセ議員なら、きっと、嬉しげに回答してくれると思います。特に、ワイドショーなどに喜んで出演してくれる政治家さんなら、そういった確率も高いのではないでしょうか?

* これだけではあんまりなので、マニフェストの内容について、簡単にフォローしておきます。マニフェストの役割は、数値目標をあらかじめ掲げることにより、選挙後の政権の政策が約束通りなされたかどうかが、有権者に簡単に判断できることにあります。

例えば、失業率を3%にします、という公約を掲げ、結局5%に終わった場合、結果は明白です。失業をおさえ、雇用の促進をはかります、などという公約だと、公約が達成されたのかどうか、よくわかりません。

充実した福祉を目指します、よりも、認可保育園を1年間に○○カ所ずつ増やして、待機児童数を年に○%ずつ減らしますなどといった公約の方が、実際に何をするかがよくわかります。

その結果、公約が守られたかどうかの判断が有権者にも簡単につき、これらの結果が、あまりにも外れていた場合は、次の選挙で落選させて、別の政権担当能力を備えた政権を選ぶ・・・というのが、本来のマニフェストの役割と効果なのです。が、そのためには、二大政党制、あるいは、連立政権でも、政権担当能力が備わった政党が複数なければなりません。

なので、実際問題としては、現在の日本にとっては、あまり意味はないです。どれだけ公約が守られなくても、他の選択肢がない状況では・・・。まぁ、あくまでも、現在≠フ日本なので、未来については希望があるのが救いですが。

2003/07/07

第6講 右翼と左翼

今回は珍しく、日本語です。新聞やテレビなどで、目や耳にすることも多い言葉とは思いますが、実は意外に定義するのが難しい言葉でもあります。元々の意味としては、「右翼」は議会(国会)の保守派・守旧派、「左翼」は、革新派・急進派を表します。

これは、フランス革命当時の国民議会の座席で、議長席から見て右側に保守派が、左側に革新派が座っていたことからきているようです。

ですが、現在の日本で使われている、右翼、左翼の意味はもっと偏っており、右翼については、「国粋主義者」左翼については、「社会・共産主義者」の意味で使われています。ちなみに、左翼については、世界的にもこの意味で使われているようです。社会・共産主義思想というものは、比較的最近の概念であり、従来の王政や資本主義に対して革新的思想であるからだと思います。

なお、社会・共産主義国においては、社会・共産主義思想体制の維持こそが保守主義なので、対立する主義の資本主義者は左翼になるのか?という疑問もわいてきますが、社会・共産主義国家においては、思想や言論の自由はないので、そんな存在は考える必要がありません。

* 本来は、資本主義と共産主義は経済体制の違いであり、思想や言論などの自由≠フ弾圧などというものは無関係なのですが、共産主義は、全国民がそれを支持しないと成り立たない制度なので、結局、自由≠ェ弾圧されるということになります。もっとも、逆に、共産主義という思想≠ェ資本主義体制に弾圧される場合もあります。自由の国<Aメリカで、「レッド・パージ」と呼ばれる弾圧がおこなわれていたのは有名です。

右翼については、世界的にこういった使われ方をしているのかどうかはわかりません。国粋主義というのは、自国が最高であり、自国民は選ばれた崇高な民族であり、世界中から尊敬されるべきである、などといった思想のことです。なので、例えば北朝鮮などのように、共産主義体制をとっていながら、国粋主義でもあるというのは、現在の日本の基準では、左翼か右翼かよくわからないということになります。

ただ、日本の新聞では、外国の政党等についても、国粋主義的な政党については、右翼や極右という形容をしているので、現在では、そういった使い方が一般的なのかも知れません。

* 右翼というと、街宣車で軍歌などを大音量で流しながら、スピーカーから大声で叫んでいる方々が思い浮かぶ、という方もいるかも知れませんが、それらについては、そういった行為による威圧によって、金を脅し取ったりするのが目的のエセ右翼が多いということで、本当の右翼≠フ人は苦々しく思っているとか。
本当の右翼≠ヘ、そんなもんじゃない、もっともっと怖いものなんだ・・・などということも、よく聞いたりするのですが、私は本当の右翼≠ニいうものを知らないので、そのあたりの真偽は不明です。

まぁ、なんにしても、基本的には、単なる政治イデオロギーの区別で使われているだけなので、別にどちらがいいとか悪いとかいうことはないのですが、現在の日本では、ともにあまりいい意味としては使われていません。どちらも、偏った思想の持ち主であり、排他的であるとされているからです。

元来、日本では、戦後長らく、マスコミや教育界で左翼思想が幅をきかせていたので、左翼の方は、進歩的左翼≠ネどと自称≠オて、むしろインテリを気取っていたりしていたこともあり、あまり嫌悪感はなかったようにも思われます。もちろん、我らがエセ文化人にも、その仲間は大勢います。

ただ、最近は、左翼政党の議員の方々(ようは、社民党や共産党、民主党左派)や素人の自称左翼エセ文化人(エセ文化人として素人という意味)のせいか、左翼の評判も悪くなってきたので、プロのエセ文化人としては、我々は以前から中道ですよ、といった顔をしている方が無難です。

「センターレフト」という言葉もあるのですが、某政党代表の三顧の礼を受け、このままでは日本はダメになるから仕方がないと、それを受け参議院選挙に出馬し、見事に当選、国会で、「僕の友人は・・・」と極々内輪の具体例から、全てのことがこの法則に当てはまるという斬新な論理を展開した、非常に国際感覚溢れる元タレント議員が、嬉しそうに使用していた言葉なので、個人的には、あまりいいイメージを持っていません。これも使われない方が無難かと思います。というか、野球じゃないんだから、「中道左派」という、日本語を使えよと個人的には思うんですが・・・。

なお、右翼の方は、特にマスコミ界では、明白な悪口≠ニして使われることが多いので、エセ文化人としては自称しない方が無難でしょう。あえて使って、注目を浴びるという方法もありますが、これはかなりの高等テクニックなので、難しいと思います。

ちなみに、余談ですが、日本の現在の政治体制は、自民党でも大体、中道左派の政策です(日本は、世界で唯一成功した社会主義国≠ニ言われることもあるぐらいです)。民主党の政策も中道左派。正直、右左による違いはありません。

なのに、最近日本は、「右傾化(右翼思想に傾くこと)」しつつあると騒ぐ一部マスコミが、個人的にはよくわかりません。別に、国粋主義者が増えたようにも思えませんし、逆に不況で自信をなくしているぐらいなのに。おそらく、安全保障問題には、右翼・左翼が関係するという、新しい解釈を生み出しているのでしょうが、旧ソ連や、北朝鮮、中国などを見ていながら、左翼思想と平和思想をなぜ結びつけるのか、理解に苦しみます。

とはいえ、マスコミがあっての、エセ文化人です。わけがわからなくても、彼らの定義に従って、テレビ朝日・TBSでは日本の右傾化を憂い、日本テレビでは左翼に対して、現実を見ていないと批判をするのが、プロの仕事というものでしょう。

2003/08/08

第7講 ファッショ

今回の言葉は「ファッショ」。この言葉の元になっている言葉は「ファシズム」で、ファッショは、このファシズムの傾向があるという意味を表します。

で、その元のファシズムの意味なのですが、これは「全体主義」と訳され、ある独裁者(一党独裁政治)の下で、国民全体がその政策に一致して従い(従わされ)、その独裁者の意思がそのまま国民の意思になってしまうような政治体制のことをいいます。また、対外的には、武力による侵略政策をとることもその特徴です。

ムッソリーニ率いる、ファシズムの語源にもなったファシスト党や、ヒトラー率いるナチス、独裁者はいなかったものの、天皇をその象徴として、一党独裁支配をおこなった旧日本軍(大政翼賛会)など、第2次大戦時の枢軸国が、大体こういったファシズムの体制をとっていました。

現在では、金正日体制の北朝鮮や、ついこの間までのフセイン体制だったイラクなどがファシズムの典型的な国家例です。ファシズムには、まず、その顔となる独裁者≠ェ必要であり、また、その独裁者を、少なくとも初めは、国民が民意(選挙)により支持していたことが必要なので、一般の共産主義国家や、軍事クーデターなどによる独裁国家などは、ファシズムとは少し違うと思います(これは、管理人の定義なので、必ずしも一般的でない可能性はあります)。

で、このファシズム的な体制をとっているという批判、悪口として、ファッショという言葉が、エセ文化人の間ではよく使われます。もちろん、実際に独裁体制をとっている必要はありません。ようは、自分の意見を採り上げない人に対して、「私の言うことを聞かないなんて、なんて奴だ、こんな奴はファッショだ!!」と、単なる悪口として使えばよいだけです。

自分の意見を聞かないからといって、あいつはバカだとか、ワガママだとか言っても、いま一つインパクトがありませんし、そんな直接的な悪口は品がありません。そこであえて、元の意味からはズレてしまっても、ファッショという、一見よくはわからないけど、なんとなく批判してるんだなぁとわかり、また、なんとなく知的に見せられる表現を使うわけです。

よく見られるのは、検察がある事件について捜査をすると、客観的に見ても犯罪≠フ容疑があるから捜査を受けているにもかかわらず、これは不当な捜査だ、検察ファッショだなどと言ったり、首相や知事などが、自分のリーダーシップを発揮しようと、自分の意志に基づく政治をおこなおうとしたら、その政策に対する反対派が独裁政治だ、ファッショだ、などと言ったりする場合です。

そもそも、ファッショだなどと批判ができる時点で、ファッショでも何でもないわけですが・・・。本当のファシズム体制なら、そんな声がマスコミ(まぁ、これそのものも政権の宣伝組織としてしか存在できませんが)に漏れることもなく、収容所に淡々と死体の山が築かれていくだけです。

どれだけ時の政権や公権力を批判しても、なんの懲罰も受けない現在日本の平和に感謝しながら、我らエセ文化人は、今日もまた無責任な批判を繰り広げ、言論の自由を謳歌(おうか)しなければなりません。もちろん、どれだけ言論の自由が保障されていても、どれだけ正当な批判であっても、マスコミ様とスポンサー様の批判は、一切許されないということだけは、肝に銘じておきながら・・・。

* 余談ですが、私が大学生時代に講義を受けていた教授の一人が、テレビなどによく出ていた、いわゆるタレント教授だったのですが、講義の最中に確か中国への痛烈な批判をした後で、「大学の講義は言論の自由が保障されてていいわぁ。テレビやったら、こんな言えんもんなぁ」と感慨深げに呟いておられたのを、今でもよく覚えています。インターネットも、今のところ′セ論の自由が保障されているようで、ありがたいことです。

2003/08/15

第8講 キャスティング・ボート

発音的には、キャスティング・ヴォウト、とでもした方が正しいかも知れませんが、見慣れた形ということで、「キャスティング・ボート」にしておきます。たまに、ボート≠ナはなくボード≠ニ発音する人もいますが、これはツッコミが待ち受けられているわかりやすい間違いなので、エセ文化人としては絶対に間違えてはいけません。

元々の意味は、ある事案への投票で賛否同数になったときに、最終的な決定権を持つことになる議長の投票のことを言います(議長は、基本的に初めに投票しません。賛否同数になった場合、そこで初めて議長が投票することになり、その議長が投じた方に決定することになります)。つまり、ボート≠ヘ、舟などのボートではなく、投票を意味する英語のボート(vote)≠ノなるわけです。ちなみに、キャスティング≠ヘ、「(票を)投じる」という意味の英語キャスト≠ゥらきています。

ここから、最終的な決定権を握ること、力を持つことをキャスティング・ボートを握るなどと言います。

例えば、Aという政党とBという政党がほぼ同じ勢力で対立しているとき、10人ぐらいの小さな政党Cがどちらの案に賛成するかでその法案の賛否が決定されることがあります。このときの政党Cが、キャスティング・ボートを握る典型例となります。これほどの典型例ではありませんが、日本の政治でいうと、自社連立政権ができたときの社会党や、現在の自公保連立の公明党などがこの例にあたります。

この立場になると、最大野党よりもはるかに小さな勢力で、閣僚を出したり、時には首相すら立てることもあります。また、かなりくだらない、その政党の自己満足に過ぎないような政策でも実施させたりすることができます。ただ、調子に乗ってやっていると、次の選挙の結果で連立が不要になって、あっさりと見捨てられていじめられてしまうので、あまりやりすぎない方がよいでしょう。

また、先の例では、少数のものが決定権を握る場合を取り上げていますが、元々の実力者が権力を行使する場合にも、よく使われます。こちらは、元々権力があるのだから、好き勝手やれても当たり前なのですが、まぁ、それでも、「盛者必衰の理(じょうしゃひっすいのことわり:どれだけ盛んな勢力を誇っていても、いずれは衰えてくるという真理)」の言葉通り、謙虚に生きるすべは身につけておいた方がいいでしょう。去り際が惨めになる方々は、枚挙にいとまがありません。

キャスティング・ボートを握っていたつもりが、いつの間にやらキャスト・アウト(放り出される)≠ノ早変わりしてしまうのでご用心。

ま、政治の世界の話はさておき、エセ文化人としては、機敏にテレビ局でのキャスティング・ボートを握っている人について行き、ワイドショーのキャスト≠ノ名を連ねられるよう、日々努力していくことが肝要でしょう。上手く行けば、自分がワイドショーのメインになれる、エセ・キャスター≠フ称号も夢ではありません。もっとも、キャスターといっても、キャスター付きの家具のように好き勝手に転がされていくはめになるのでしょうが・・・。

2003/09/14

第9講 ポピュリズム

「大衆的な」を表す「ポピュラー」に「主義」を表す「イズム」がついた、「ポピュリズム」。日本では、「大衆迎合主義」、「衆愚政治」などと訳されます。

これは、主に政治家(政府)に対して使われ、口当たりのいい、安易な政策だけを語って、大衆の関心を引き、必要だけど国民に負担を与えるような政策は採らず、結果的に国力が疲弊(ひへい)していく状況に追いやるような政治について言われます。

ようは、国民に受けのいいことばっかり言う政治家と、その安易な嘘に騙されるバカな大衆という、政治家も国民もともに侮蔑(ぶべつ)した表現なのですが、普段これを使う場合は、時の政権を揶揄(やゆ)するためだけに使い、国民をもバカにしているということは押し隠して使っています。

しかし、実際の意味はそういうことなので、したり顔でポピュリズム政治と述べているキャスターは、「バカな愚民どもが同じ様なバカを支持してるよ」などと舌を出して笑っているわけです。

もちろん、エセ文化人は違います。本来の意味を知らないので、単に無邪気に時の政権を批判しているだけです。政策の具体的な内容はわからなくても、批判しているように聞こえる便利な言葉だから使っているだけです。だからこそ、「ワイドショー内閣」などと言って、自分が出ているワイドショーの悪口どころか、自己否定につながる言葉も平気で口にできるわけです。我らがエセ文化人を舐めてはいけません。

衆議院が解散され、総選挙が始まります。今こそ、ポピュリズムの使い時です。今なら、与党にも野党にもいくら使っても当てはまります。所詮、選挙とは「人気投票」なのですから。

* 選挙は、ミスコンに喩えられることも多いです。つまるところ、人気投票の一形態であることは否定できません。政策よりも人柄が、知識よりも常識が求められます。比例代表制なら、政党を選ぶので、政策重視ではないかと思われるかもしれませんが、その場合も、党首のイメージが政策よりもより重要になってきます。これがいいのかどうかはわかりませんが、顔の善し悪しの問題ではなく、その人の内面は「人相」に出るというのは、普段の経験から多くの人が思っていることでしょう。まぁ、人相のいい政治家が何人いるかと言われれば、それはそれで返答に困りそうですが。

2003/10/10

第10講 タカ派とハト派

今回は、「タカ派」と「ハト派」。タカ派もハト派も、どちらも鳥の「鷹」と「鳩」から来ています。その鳥のイメージから、タカ派は攻撃的で、ハト派は平和的という色分けにされています。

つまり、タカ派とは、ある対立≠解決するのに武力(もしくは、武力による威嚇(脅し))を利用する考えの持ち主、ハト派とは、武力によらない解決を目指す考えの持ち主ということになります。また、基本的には、「政治家」に対して使われます。

とはいえ、現在の常識では、武力の必要がない対立(例えば、経済問題など、直接人命に関わらない場合)において武力を行使するのは、タカ派でも何でもない単なる「人殺し」であり、武力による解決しかない場合(例えば、現に戦争を仕掛けられている場合)においても、話し合いだけを叫ぶなどというのは、単なる「臆病者」や「無責任」に過ぎません。

* 先のイラク戦争は、この点からして、考え方が分かれるようです。つまり、アメリカのイラクへの攻撃は、石油利権のためであり、単なる人殺しだという考え方と、圧政で、大量の死者も出ていたイラク国民を救い、大量破壊兵器によるテロや殺戮(さつりく)を未然に防ぐための人命に関わる問題だという考えです。これについては、管理人は魚のあぶく≠ナも書いているとおり、人命に関わる問題が主であると考えています。もちろん、人に押しつけるものではありませんが。

タカ派とハト派の違いが明確になるのは、多くの人命が焦点となる対立において、武力(戦争)という手段と、非武力による手段(通常は経済制裁)とがどちらも考えられるときに、解決までのスピードとその間の犠牲を勘案して、どちらが妥当であるかという判断をする場合に表れます。

例えば、ある国が、その国の一部住民を虐殺している場合、その虐殺を止めるために、武力によってその行為を止めさせるのと、経済制裁をして苦しめることによって、その虐殺を止めさせるのとどちらを選ぶかということが、その典型的な例です。

前者の武力による方法だと、一般的には短期間で解決します。もちろん、その間に虐殺をしていた加害者側である住民が多く死傷するでしょうし、虐殺されている側にも被害は出るでしょう。それに対し、後者の非武力による方法は加害者側である住民への直接の被害は出ませんが、医薬品や食料品の不足による死亡は増加していき、また、被害者側である住民の虐殺は留まらず、彼らの被害は、加害者側が経済制裁に音を上げるまで増え続けていきます。

また、後者の場合は、一般的に人道支援ということで、加害者側であっても医薬品や食料品は例外的に支援されることが多く、そうなると、なかなか音を上げなくなり、問題が解決するまで、かなり長期化することになります。もちろん、前者も、解決≠ニはいえ、その後も色々な遺恨(いこん)が生じ、真に解決するためには長い期間がかかります。

結局、どちらの方法も、良い悪いの問題ではなく、背景には思想や哲学といったものがあって、優劣がつけられません。

「戦争は絶対悪だ。どんな理由があろうと、間違っている」という意見があります。ですが、民族浄化や異教徒排除の名の下で、一部の被差別住民が虐殺され続けるということもあります。それに対し、「彼らは、ただ、殺され続けなければならないのか?武力でその行為を止めることは本当に悪なのか?いや、そんなはずはない、これは正義の戦争だっ!!」という意見も当然出てきます。

そのどちらの考えも、きっと正しく=A間違って≠「るのでしょう。この解答≠ヘ、おそらく永遠に出ない解答だと思います。これらの言葉は、本来はここまで突き詰めて考えて使われなければならない言葉だと、個人的には思います。

とはいえ、当然エセ文化人は、ここまで深く考える必要はありません。いや、考えてはいけません。考えてしまうと、こんな簡単にムードだけで人にレッテルが貼れる便利な言葉なのに、気軽に使えなくなってしまいます。

なにせ、、北朝鮮に対して経済制裁すべきだという、上記の例に照らし合わせてもハト派以外の何者でもない意見を述べる人物にすら、タカ派とレッテルを貼ることができますし、その他にも、靖国神社に参拝したり、国旗国歌を尊重するだけで、なぜかタカ派に分類されるという不可思議な現象もまかり通っています。これらは、どう考えても、武力行使論自体には結びつかないんですが・・・。以前に書いた「右翼」へのレッテル貼りなら、まだ理解はできるんですけどね。

もっとも、だからといって、安易にタカ派タカ派とレッテル貼りをしていると、「タカ派というのが、国民一人の命もおろそかにしないという意味なら、喜んでタカ派と呼ばれます」などと、逆襲を受けて、次の言葉に詰まってしまうしまうことにもなるので、相手を見て使う方がよいでしょう。もっとも、最近は、タカ派という言葉があまり悪口ではなくなってきているようですので、悪口としての使用は控えていく方が、進歩的な<Gセ文化人になれるのかもしれません。

* 上の、「タカ派というのが・・・呼ばれます」という発言は、ニュース23の筑紫氏の質問に答えた、自民党の安倍幹事長の言葉なんですが、筑紫氏は、タカ派という言葉を国民一人の命もおろそかにしない人物≠ニいう意味では使っていないので、安倍幹事長は、喜んで呼ばれない方が良いでしょう・・・とまぁ、これはシャレとして、現在も、マスコミでは、タカ派を好戦的な人物というレッテル貼りに使っていますが、最初に書いているとおりタカ派もハト派もそんなに単純なものではないと、管理人は考えています。安倍幹事長の考えはわかりませんが、マスコミ人の思考停止の発言に切り返した発言は、管理人には好感が持てました。

今現在、タカ派とハト派の問題が、一番端的に表れているのがパレスチナ問題でしょう。この問題が解決したとき、タカ派とハト派の論争も終焉(しゅうえん)するのでしょうか?それとも、タカ派とハト派の論争が解決しないものである以上、パレスチナ問題も永遠に解決することがないのでしょうか?管理人は、悲観的な考えしかできません。非常に残念なことですが・・・。

2003/10/26