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法律講座

 

第17講 アジェンダ

今回は、先日の参院選で「みんなの党」が掲げ、一躍、流行語になった感のある、「アジェンダ」です。これは、一般的には「会議などでの議題や、議事日程」を意味しますが、日本では、「行動計画」転じて、「政策」の意味にもなるようです。

ようです≠ニ書いたのは、私の手持ちの英和辞典には、「政策」の訳がないのですが、ネット上で調べた英和辞典には、訳として載っていたからです。

外資系や海外との取引の多い会社や、幹部が外国かぶれの会社では、会議の議題の意味としてよく使われているようですが、まだまだ、一般的には馴染みの少ない言葉でしょう。

みんなの党の渡辺代表が、この言葉を多用した背景には、耳慣れない言葉を使って、他党との差別化を図る狙いがあるとともに、民主党が多用して与党となったものの、全く有権者の意図とはかけ離れた政策ばかりが推し進められてしまい、「詐欺フェスト」とまで揶揄されてしまうようになった、「マニフェスト」という言葉を避けたかったということがあるかと思います。

ただ、個人的な感想ですが、アジェンダは濁音が多く、聞いていてうるさく感じることが多いので、あまりテレビでアジェンダ、アジェンダと多用していると、意味もなく拒否反応を起こされてしまいそうなので、避けた方がいいのではという気もします。

さて、このアジェンダですが、先に書いたとおり、元々は単なる議題、予定表みたいなものですから、じゃあ、その内容を具体的にどうするんだ、ということは、基本的にはこの言葉には含まれません。その意味では、従来の公約となんら代わりはないものなのですが、さも、行程表通りにこう進むんだと、こと細かく書いて、口先だけのやる気をアピールするといった「詐欺フェスト」(もちろん、本当の「マニフェスト」には、こういった意味はありません)よりは、潔いとは言えるでしょう。

エセ文化人としては、正直、使い方に困る言葉なのですが、利用するとすれば、自分が使うというより、まだこの言葉をよく知らない人に対して、「アジェンダ?ああ、あれは実は単なる議題≠ニ言った意味で、一般の会社などでもよく使われていますよ。ま、特別な言葉ではないんですが、少し値打ちをつけているつもりなんでしょう」と、渡辺代表を少し小馬鹿にした感じで言って、「きっと、今年の流行語大賞を狙っているんでしょうね」と、冷笑しておけば、自分の大物感を演出する一助になるのではないでしょうか。

間違っても、「私のアジェンダは、早寝早起きで…」などと知ったかぶって、訳のわからない使い方をしないことです。

* 「みんなの党のアジェンダ」というのも、「政策」という訳で使っているからいいのでしょうが、元々の意味なら、「みんなの党の国会審議で掲げるアジェンダ」とでも言う方が無難でしょう。

今はイケイケムードで押しているみんなの党ですが、民主党のマニフェストが「詐欺フェスト」に落ちぶれたように、アジェンダも「おじゃんだ」と言われないように、お気をつけを。

2010/07/15

第16講 悪魔の証明

今回は、「悪魔の証明」。悪魔の証明といっても、地獄に悪魔が存在すること、を証明するわけではありません。これは、「ある事柄についての事実がない≠ニいうことの証明」を意味します。

なぜ、この証明のことを悪魔の証明というかというと、一般的にないことを証明することは非常に難しいからです。例えば、あなたがお金を10万円盗んだ泥棒だと疑いをかけられているとします。そのとき、あなたが泥棒でないと証明するには、どうすればよいでしょうか?

家の中を隅から隅まで、疑ってる人に探させますか?でも、あなたが自分の家に隠しているとは限りませんね。離れて暮らしている家族に預けたかもしれないし、知人に預けているかもしれません。少なくとも、相手はまだ疑うでしょう。あるいは、疑われていると知ったあなたは、苦し紛れに全く関係のない他人の家に忍び込んで隠しているかもしれません。

あるいは、たまたま、あなたが10万円以上のお金を家に持っているかもしれません。それが盗まれたお金でないとどうやって証明しますか?あるいは、10万円以上の品物が家にあったとして、その品物を盗んだとされるお金を使って買わなかったという証明は?

これは、もう、現実的には不可能ですよね。それよりも、あなたが盗んだところを見た証人がいるとか、防犯カメラに写っているとか、お金の入っていた封筒にあなたの指紋が残っていたとか、あなたの家にあったお金の番号と盗まれたお金の番号が10枚とも全く一緒だったとか、そういった、あなたが犯人である¥リ明をさせる方がはるかに簡単ですよね。

したがって、法律や普段の生活にかかわらず、ない方が証明するのではなく、あると主張する方が証明するのが一般的になります。正確にいうと事実を主張する側が証明責任を負うのですが、通常はある方が主張するので、同じことになります。例えば、借金を返す返さないについて、借金があると主張する方が、借金を返せと主張しますよね。相手が何も言ってないのに、自分には借金はないんだといきなり主張しませんよね。もちろん、反訴(相手の訴えに対して逆に訴え返すこと)はありますが、あくまでも先制攻撃をするのは、あると主張する方になります。

* 親子関係がないことの主張など、ない&が主張しなければならない法律行為もあるのですが、この場合はDNAなどの科学的根拠もありますし、当事者ではない裁判官が判断するので、合理的な限度で証明できればよいため、特に問題はありません。

しかしながら、実はこの悪魔の証明というのは、我らがエセ文化人にとっては非常に便利なもので、愚かな一般大衆に気づかれないように上手く使えば、自分が非常に優位に立てます。なにせ、相手に不可能な要求をするだけで、自分は一切証明する必要はないのですから。

例えば、政治家が某公共放送の幹部を呼んで放送内容に圧力をかけたと記事にさえすれば、政治家たるもの、疑わしい行為をしたというだけでゆゆしき問題だ、こんな疑惑が出てきた以上、自ら圧力をかけていないと証明するのが政治家であるべきだ。放送局の幹部が圧力を受けていないと言っても信じられない、もっと客観的な証拠を出せ、と、自分たちが勝手に疑惑と称して記事にし、その圧力をかけたという証明を全くしないままに相手にだけ不可能な要求をたたきつけて、自分たちは高みの見物をしていられるのですから。

こんな便利な道具≠使わないでは、実にもったいないではないですか。

もっとも、これも使い方を誤れば、なんでお前の方が証明しないんだ、主張するのはあんたの方だろと、正論を各方面からはかれてしまって、自分自身が窮地に陥ってしまうのでご用心。

特に新聞なんていうのは勝手で、自分たちは先に書いたような悪魔の証明を政治家に向かって平気で投げつけ、旗色が悪くなると頬被りしておきながら、他人に対しては、

「これでは余りに肩すかしだ。…中略…これだけの重大疑惑を公の場で指摘したのだから、民主党もこうした自民党側の対応は覚悟しているのが当然だろう。永田氏が再び質問に立ったきのうの衆院予算委で、どんな「二の矢」が出るのか。多くの人が注目した。 だが、まったくの期待はずれに終わった。…中略…仮に、永田氏の指摘が小泉首相が繰り返し揶揄(やゆ)するように「ガセネタ」であったとすれば、武部氏の名誉を不確かな根拠で傷つけたことになる。…中略…政権奪取を目指して政府・与党を追及するのはいい。だが、有権者が眉につばをつけて見ざるを得ないようなあやふやな議論では元も子もない。民主党は脇を締めて、出直す必要がある。 」

などという辛辣(しんらつ)な言葉を社説で浴びせるようなことも、全くありえない話ではないのでご用心。まぁ、さすがにどれだけ厚顔無恥な新聞でも、ここまで自分たちを棚に上げたひどい文章を書くことはないでしょうが…

いずれにしても、この悪魔の証明は上手く使えば効果的なことが多いので、日頃から技術を磨いておくに越したことはないでしょう。

なお、今回の文章における登場人物や団体については全くのフィクションであり、実在の人物や団体、2006年2月18日付の朝日新聞の社説とは一切関係のないことをお断りしておきます。

2006/02/19

第15講 アナウンス効果

今回は、「アナウンス効果」について。これは、選挙前によく使われる言葉で、「マスコミ報道などの情報から結果を予測し、その予測に基づいて予定していた行動と違った行動をとってしまうようになること」を言います。

よくある例では、どうせ投票するなら、自分の投票した人が当選するように世論調査で優位な人(政党)に投票しようとするバンドワゴン効果(勝ち馬効果)や、逆に、このままだと負けそうだから可哀想と、わざわざ劣勢の方に投票するアンダードッグ効果(負け犬効果)などが有名です。

ただ、日本でよく話題になるのは、次のようなケースです。

例えば、今回の選挙でAという政党に投票しようとしていたが、事前の世論調査によるとAが圧勝しそうだ。Aに勝たせたいが、あまりに議席を取りすぎると調子に乗って増税などの国民の嫌がる法案も通してしまうかもしれないから、あまり勝たせすぎないように対立するBという政党に入れよう。この様子ならBが勝つことはなさそうだし、Bに追い上げられたらAも国民の目をもっと気にするはずだ。うーん、自分ってなんてバランス感覚が優れているんだろう、抜群の政治センスだ、天才的だね、などと考えて元々予定していた投票先を変更してしまうといったケースです。

そして、えてしてこういうときは、Bという政党が躍進してしまい、こんなはずでは…と青ざめてしまうことになるわけですが。

で、このアナウンス効果ですが、そもそもこんな効果があるのかどうかよくわからないという批判もあります。確かに、科学的な裏付けはありませんし、どれだけの効果があるのか数字上の影響も未知数です。また、仮にあったとしても、上に挙げたような色々な効果がそれぞれを打ち消しあって偏った影響はないのではないかという見方もあります。

ただ、直近の日本の衆院選や参院選を見ていると、事前の世論調査で優位だった政党が、その調査に比べてかなり減らしてしまっているといった傾向が続いているので、満更否定しにくいものでもあるようです(もちろん、世論調査の方がでたらめだという見方もできます)。

まぁ、いずれにしても我々エセ文化人としては非常に便利な言葉ではあります。散々テレビで場当たり的なことを言って断定してしまっても、終わってから、これはアナウンス効果でこういう結果になってしまったので私の予測が外れてしまったようですねぇ、などと言っておけば、それで済むお話ですから。でなければ、毎回、議席予想で外しまくっているのにもかかわらず、相も変わらず選挙の大家といった顔でテレビに登場している政治評論家の大学教授などという存在は、1度でテレビ界からクビになってしまっているはずですから…。

* ちなみに、アナウンス効果には、マスコミで援助交際は女子高校生の間で普通におこなわれている、などといった報道がされることによって、罪悪感が薄められたり、する方が普通なんだと思わせたりすることなど(これは、女子高生にとっても、買う方にとっても同様)にも使われます。つまり、それが真実であるかどうかとは別に、マスコミで報道されることによって、真実と受け取られるようになるというような効果のことですね。

2005/09/10

第14講 リテラシー

今回は、前回からの続きということで、「リテラシー」を取り上げます。リテラシーというのは、直訳すると「識字能力(文字を読む能力)」ですが、それが発展して、「〜について、理解する能力、判別する能力、利用できる能力」についても表し、造語としてはこちらの意味を表すことの方が多いです。

例えば、「情報リテラシー」とあれば、「情報機器(コンピュータなど)を活用して、幅広く情報を取り扱うことのできる能力」を表します。

そして、最近、特に話題になっている言葉に、前回お話ししたメディア≠ニ組み合わさった、「メディアリテラシー」というものがあります。

これは、私なりに定義をすると、「一方的に情報を送り込んでくるメディアからの情報について、それらの情報についての真偽を見極め、意図を読み取り、その情報の中から自分にとって有用な情報を取捨選択していくことのできる能力」といったものを表します。

そして、この場合のメディアは、いわゆるマスメディアだけでなく、インターネットでの情報、例えば私が色々と戯れ言(ざれごと)を垂れ流しているこの「ぷちらぽちら」というサイトも含む、およそ情報というモノを取り扱うモノ一切を指すと考えていただければ結構です。

大型掲示板群で有名な2ちゃんねる≠ニいうサイトがあるのですが、そこでの格言?である、

「うそはうそであると見抜ける人でないと、(この掲示板を使うのは) 難しい」

という言葉が、このメディアリテラシーという言葉を最も端的に表した言葉だと思います。

インターネットの世界ほどではなくても、普段、正義だの公正だの訴えているマスメディアの世界においても、嘘・偽り、捏造(ねつぞう)、詭弁(きべん)、悪意に満ちた編集など、ワイドショー、バラエティ番組は無論、自称&道番組をも含めて、満ち溢れています。なにせ、我々エセ文化人が、その片棒を担いでいるのですから、間違いありません。

識字能力のないことを「文盲(もんもう)」と言うのですが、我々エセ文化人としては、是非とも一般視聴者の方には、「情報盲」になっていてもらいたいものです。まかり間違っても、独自の「情報網」が張り巡らされて、有用な情報が視聴者にダイレクトに入っていくなどということは避けなければなりません。

2004/07/24

第13講 メディア

今回の言葉は、「メディア」。普段から耳慣れている言葉だと思います。また、日本語訳も、「媒体(ばいたい)」であるというのは、比較的知られていると思います。

しかし、さらに、では、「媒体」とはどういう意味なのか?とまで問われると、少しつまる方も多いのではないでしょうか?

メディアが具体的にどういったモノを指すのかといえば、これは簡単だと思います。例えば、テレビや、新聞、雑誌などですね。もちろん、これで正解ですが、これらの例は、正確には「マスメディア」と言います。これは、いわゆる「マスコミ」、「マスコミュニケーション」とほぼ同義になります。

メディアというのは、元々「ミディアム」という名詞の複数形を表します。あの、ステーキの焼き加減の、「レア」、「ミディアム」、「ウェルダン」のミディアムのことです。つまり、元々、メディアというのは、「中間」を表しているわけです。そして、あるモノとあるモノの中間にいるということから、それらのモノとの間での橋渡しをするという意味になったわけです。したがって、メディア、媒体というのは、「あるモノとあるモノの橋渡しをする存在」、という意味になるわけです。

では、マスメディアとは、何と何を橋渡しするのか?「マス」というのは、「大衆」を意味する語で、マスメディアというのは、「情報」をその「大衆」に伝達するということを表すわけです。これで、マスメディアがテレビや新聞をなぜ表すのかということが、よくわかったかと思います。

したがって、本来メディアというモノは、情報を大衆に伝えるべき仲介者であるわけです。もちろん、現状がそうではないということは皆さんもご存知でしょう。現在のメディアの多くは、本来のメディア≠キなわち中間≠ノ位置するのではなく、自分たちの考え≠ニいうものを情報の代わりに一方の端に置いて、中間≠通すことなく、もう一方の端にいる大衆≠ノ伝えるという形を取っています。

本来のメディア

情報−−−−−−−→メディア−−−−−−−→大衆

現状のメディア

メディアの考え−−−−−−−−−−−−−−→大衆

この現状があるからこそ、我らがエセ文化人も、メディア側に位置する特権階級≠ニして、無知な大衆どもに、我々の崇高な考え≠ニいうものを直接送り込むことができるわけです。もしも、本来のメディアが存在し、機能していれば、我々の崇高な考えというモノが、「なんだこの馬鹿な妄想は?」と鼻で笑われて、大衆に伝わることなく、中間地点で没になるところでした。我々エセ文化人にとっては、まさに現状のメディア様々といえるでしょう。

したがって、我らエセ文化人としては、メディア様には、現状のままでいてもらわなければなりません。たとえ、我々から見てすら、どれだけ馬鹿げた意見に思えても、メディア様が望む以上はそれは崇高な絶対的に正しい意見であり、それを愚かな大衆どもに伝え、啓蒙しなければならないのです。

ただ、最近の大衆はあまりにも愚かなため、そのメディア様の崇高な考えが理解できずに、逆にメディア様をバカにするような空気すら出てきました。このままでは、いけません。もし、大衆どもがメディア様に疑惑を覚え、本来の意味でのメディアが生まれてしまい、有用な情報がそのまま大衆に伝わってしまったらどうなることかっ!!

それは、我らエセ文化人の終焉(しゅうえん)です。そうなってしまっては、一般常識に加え、豊富な専門知識を兼ね備えた、弁論もたつ真の知識人しか活躍できない、暗黒時代になってしまいます。専門知識はおろか、一般常識もなく、はったりとよいしょだけで生きていける我らがエセ文化人の楽園を守るためには、どれだけ馬鹿げた意見でも、電波な内容を垂れ流し続けても、現在のメディアを守るために頑張っていかなければならないのです。

2004/07/10

第12講 アンビバレンス

今回の言葉は「アンビバレンス」。少しばかり、哲学の薫りの漂う文学的な表現ですが、わかったようでいて、なかなかわかりにくい言葉でもあります。辞書的な説明としては、「同一の対象について相反する感情が同時に湧き起こること」などとなりますが、こう説明されてもわかりにくい言葉であるのも事実です。

何度も騙されて、捨てれられて、憎んでいるのにもかかわらずそれでも彼を愛し続けてしまう切ない女心とでも喩(たと)えれば、いかにも文学的な雰囲気なのでしょうが、言っても自分が惨めになるだけなのが分かっていながら、それでも酒を飲んで愚痴をこぼさずにはいられない中年男性の悲哀となると、現実に引き戻され、嗅いだら臭いのがわかっているにもかかわらず、ついつい脱いだ靴下を嗅いでしまう人間の業(ごう)というものを考えると、アンビバレンス≠ネんて横文字を使って格好付けてんじゃねーよと言いたくなるよーな気もします(最後の例が適切な例かどうかはわかりませんが、所詮はエセ文化魚の講座なので、気にしないでください)。

よくある例でいえば、「好きな子ほど、ついついいじめてしまう」、などといった感情がちょうど当てはまるのではないでしょうか。あるいは、スポーツの試合などで、味方だから得点してくれたら嬉しいんだけど、でも、ホントは自分が試合を決めたいので、外して欲しくもあるとかいった感情もそうでしょう。親の説教に対して、自分を心配して言っているのはわかるし感謝するけれども、それと同時に反発の心が起こるなどといったこともそうでしょうし、「幸せすぎて怖い」といった感情もそうなのかもしれません。

なお、このアンビバレンスの訳で、「二律背反(にりつはいはん)」といった訳が使われることがあるのですが、感情≠ェ対立するアンビバレンスに対して、こちらの二律背反の方は、論理的考察≠フ結果、二つの対立する命題が生じてくるという意味なので、訳としては適切ではないように思われます。もっとも、アンビバレンスにしても、二律背反にしても、一々細かい意味まで知ってる人は少ないので、エセ文化人としては、あえて同じモノとして扱ってみる方が、外国語にも日本語にも強いように見せられて得といえるかもしれません。

* 二律背反の例としては、宇宙に果てはあるのかとか、時間に始まりと終わりはあるのかといったことを論理的に考え続ければ、宇宙に果ては存在することも、存在しないことも同時に証明され、時間の始まり(終わり)のあるなしもまた、同時に証明される・・・らしいです。もっとわかりやすい例を挙げると、「私は嘘吐きである」という言葉は、正しいのか嘘なのかを考え続けてみれば、なんとなく意味がわかるかと思います。

なお、エセ文化人たるもの、自分の言動に対して、「恥ずかしく思う」とか、「自己嫌悪に陥る」といった、アンビバレンスな感情に浸ってしまってはいけません。厚顔と無恥と知ったかぶりは、全て並立する、決してアンビバレンスではない概念です。自分を信じて、これからもプロのエセ文化人を目指して邁進(まいしん)していきましょう。

2004/03/10

第11講 ダブルスタンダード

今回の言葉は、「ダブルスタンダード」。直訳すると、「二重の基準」で、ようは、ある事柄を判断するのに、自分たちの主張に合うように、都合のいい基準を適用するという意味です。

例えば、子供がアニメ番組を見ているときに、「もう、いい加減に子供じゃないんだから、そんなくだらない番組を見るのは止めなさいっ!!」と言っておきながら、ちょっとHなテレビ番組を見ていたら、「子供がそんな番組を見るんじゃありませんっ!!」と、母親が怒るような場合です。

つまり、この母親は、子供自身は同じ年齢であるにもかかわらず、子供である年齢≠、それぞれの場合において、使い分けているということになります。これが、ダブルスタンダードの典型的な例です。

とはいえ、このような使い分けはむしろ微笑ましく、特に問題ありません。

問題があるのは、社会的な影響を持つ人物・団体が行使する場合で、しかも、これがまた、ごくごく日常的に行われています。よくあるのが、当然というべきか、マスコミが使う場合で、例えば、雪印や日本ハムといった企業が不正をした場合は厳しく糾弾したのに、身内のマスコミ関係者が不正をした場合は、扱いが非常に小さく、すぐに収束してしまうということがあります。

例えば、毎日新聞の記者がヨルダンの空港に爆発物を持ち込み、爆発が起こってしまった事件では、その記者の家に多くの報道陣が押しかけ、糾弾し、晒し者にするといった行為は全くなかったのに、宅配便で爆発物を送り、集配所で爆発を起こさせた犯人は、その家に多くの報道陣が押しかけ、テレビでもはっきりと報道されていました。

個人的には、凶悪犯であったとしても、直接関係のない犯罪者の家族までも晒し者にするような行為は反対です。したがって、毎日の記者についても、その家族まで晒し者にしろという気はありません。しかし、それならば、マスコミ関係者以外の犯罪者に対しても、晒し者にすべきではないでしょう。

また、自民党や民主党の議員が汚職で捕まったときには、厳しく糾弾しておきながら、社民党の議員が、しかも党首の秘書と一緒に捕まっているにもかかわらず、「なぜ、この時期に逮捕なのか」といった、糾弾どころか、まるで擁護するかのような論調のマスコミもありました。

対象となる人物や団体に応じて、使い分けるというのは、確かに生きていくための知恵であり、誰しもがすることではありますが、仮にも報道の自由の名の下に生きているマスコミには、その自由に値する、公平な報道の義務≠ェあると思います。

もちろん、我らがエセ文化人には、こんな高尚なる義務はありません。自由自在にこの業界を渡り歩くためにも、ダブルどころか、トリプル、フォーススタンダードといった基準を駆使して、お偉いさんに気に入られて生きていく必要があります。

2003/11/03