ルビッチ・タッチについて
− Laughter in Paradise − *21*
1947年アカデミー授賞式にて
ルビッチはダンスを踊るのが大好きでした。しかし嘆かわしいことにいつも最新のステップを踏むのに遅れていました。ツーステップをマスターした時、みんなはもう次のチャールストンに夢中になってて、やっとチャールストンを覚えた時には世間の流行はブラックボトムに移行していたという具合に。1940年代の初め、ルビッチはルンバを踊れるようになりましたが、その時もすでに新しいコンガが大流行していました。
1943年9月1日の夜、ルビッチはソーニャ・へニーの家で催されたテントパーティーに出席し、いつものように楽しんでいたところ、突然体に変調をきたしました。クローデット・コルベールの夫で医者のジュエル・プレスマンがルビッチ家の運転手オットーと一緒に家まで運び、その夜はずっとベッドで楽な状態にさせ、次の朝、容態を診察しました。
1947年9月2日の朝、オットーはルビッチの友人であるメアリー・ルーに電話して彼を病院へ連れていくつもりだと言いました。メアリーは「誰がルビッチに付き添うの?」と尋ねました。「わからない」オットーは答えます。ルビッチ家にはオットーと家政婦しかいませんでした。メアリー・ルーはルビッチのもっと近しい友人がそばに付き添うべきだと思い、ルビッチの家へ車をとばしました。彼女は述懐します。「ルビッチはもうどうしようもないほど青ざめた表情をしていました」
ルーが救急車の中でルビッチに付き添い、オットーがルーの車を運転して病院へ行きました。ルビッチは一度は平静を取り戻したものの、病院に着いた時は自分は病院で何をしているのかを知りたがりました。ルーは心臓にちょっとトラブルがあったけど今はよくなり始めていると言って安心させ、ほっといても治るような傷みたいなものだと説明しましたが、実は重度の心臓発作だったのです。
この出来事は噂になってたちまち街中に広がりました。サム・ラファエルソンの秘書はルビッチの家に電話をかけて、ステフィー・トロンデルがルビッチの棺と棺をかつぐ人についてヒステリックな口調で話をしていることを知りました。翌日、ルビッチの病気は新聞にも載ります。病院では、ルビッチはザナックが自分に電話をしてくれてるかどうかをしきりに気にしてました。ザナックからの電話はありませんでしたがルーは「もちろんあったわよ」と答えて、ルビッチが寝静まった後、フォックス社の広報部長のハリー・ブラントに電話をし、ルビッチがボスからの電報で安心したがってることを告げます。電報はすぐさまルビッチの元へ届けられました。
医者達の診察によると、この心臓発作は心臓病の最初の症状の発現でした。しかしその前触れは以前からありました。ルビッチがパラマウント社の製作部長だった頃、マエ・ウェストの映画の試写会のために飛行機に乗ることになり、飛行機嫌いのルビッチは怖がっていて、これまでにないほど青白い顔をしていました。飛行中、乱気流に飲み込まれパイロット室のドアが開きます。そして二人の男が通路に飛び出してきて、出口の扉も開きました。「何が起こったのかわからない!でもこのままここから地獄に落ちてしまうんだ〜!!」そう叫んで二人は外へ飛び出していきました。
これはもちろんプラティカル・ジョークです。しかしジェシー・ラスキン・ジュニアはルビッチが軽い心臓発作になって意識を失ったと言っています。もしラスキーの話が本当だったとしても、これは高くつく笑えないジョークだといえるでしょう。
心臓発作から二日後、ルビッチの担当医師となったモーリス・ナサンソン医師は励ましの言葉をかけました。「心配することはありません。多くの人が慢性的な病気を持っていてそれは回復しています。私の言うことが信じられないというなら、私の患者の一人であるジェローム・カーンという作曲家を見て下さい」ルビッチは目を見開き、いぶかしげな鋭い眼差しでナサンソン医師を見ます。「そのジェローム・カーン氏は病気の後、何か作曲したかね」
サム・ラファエルソンも見舞いに訪れ、手さえも動かせないほど医者から不必要な動きを控えさせられ不安で青白い表情をしているルビッチに面会します。ラファエルソンはブロードウェーのプロデューサーのサージョン・ゴールデンが発作の後も元気にカムバックしたことを引き合いに出してルビッチを安心させようとしました。「わかってる。わかっているよ」ルビッチは動揺しつつ震えるように呟きます。「でも、今度のことで自分にも死期が近づきつつあることがわかったんだ」
フォックス社のスタジオでヘンリーとフォエブのエフロン夫妻はルビッチの容態の知らせを聞いて呆然としました。フォックス社の脚本部では、F・ヒュー・ハーバードが「ルビッチに心臓発作を起こさせた脚本家達はいったいどうなってるんだ!!」と怒鳴っていました。ジョージ・シートンは「それは脚本家達のせいではない」とハーバードをなだめながら「それは向上心に燃える若くて美しい姉妹女優の一人のせいなのです。ルビッチはずっと彼女のことを見ていました。もちろん彼女はきれいなブロンドです」
ルビッチは7週間の間ずっと病院にこもりきりでした。11月の第一週になってようやく家に戻ります。看病のために二人の看護婦とステフィー・トロンドルが付き添いました。乗馬も散歩も禁じられていました。ナサンソン医師は完全な回復まではまだしばらくかかるので、スタジオに戻るのは来年の初めぐらいになると告げました。
一命をとりとめたルビッチは、次第に自由のきかない体にイライラするようになりました。ナサンソン医師が将来発作が再発しないように今後数カ月間は絶対安静にしていなくてはならないと説明しましたが、ルビッチは自分のことを病気だと思っていませんでした。しかし薬物療法は本を読むことさえわずらわしくなるほどルビッチの集中力を奪います。これまでずっと自分のしたいようにしてきて、そのめぐるましさに誇りを持っていたルビッチは、動きのないゆっくりとした自らの生活を「ロココ調のサロンみたいなもの」と呼んでいました。
見舞客が来た後はいつも看護婦がルビッチの脈を取っていました。脈拍を危険なほどに上げてしまう唯一の見舞客はミリアム・ホプキンスでした。彼女のマシンガントークについていこうとするあまり、ストレスのために脈拍が125まで上がったとルビッチはラファエルソンに言っています。またこの125の脈拍を下げてくれた唯一の見舞客が物静かなチャールズ・ブラケットで、彼の訪問の後には脈拍は68まで下がったそうです。刺激を避けるためにルビッチは無駄話をすることさえも制限されていました。「もし私が寡黙なイギリス人だったら2倍は早く回復できただろうに」ルビッチはそんな不平を口にしていました。
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