ルビッチ・タッチについて
− Laughter in Paradise − *16*
ジーン・ティアニーとドン・アメチー
ルビッチとラファエルソンが自分達の作った「天国は待ってくれる」の脚本の出来映えに興奮している一方、製作者のザナックはこの脚本に満足していませんでした。ルビッチが「何事かをなしえよういう目的意識を持たず、人生を謳歌して生きるということにだけ興味を持っている人物」として描いた主人公ヘンリーを、ザナックは「ただ人当たりの良いあまりにも素直な人物」という風に見ていたのです。
「なぜこんな無意味な人物の映画を作りたがるんだ」とザナックに尋ねられたとき、ルビッチはこう答えました。「観客が主人公に思い入れを持った時点で映画が成功する、そのような人物を描いてみたかった」
ルビッチとラファエルソンはヘンリー役としてフレデリック・マーチかレックス・ハリソンを頭に描いていました。しかし脚本が完成するとザナックは個人的な温情からドン・アメチーをテストするように指示します。
数日後、ルビッチは「困ったことになった」と言って、ラファエルソンをテストに立ち会わせるために呼び出しました。ヘンリー役は俳優の内側からにじみ出る微妙な思慮深さが引き出せるような人物と考えていたルビッチは、アメチーをテストするというザナックの提案にむっつりとして同意し、ラファエルソンはそれを面白がっていました。しかしテストでアメチーはいい結果を出します。「困った。なんてことだ。私達はどうかしていたに違いない。あの男はいい奴だ。」
2月1日のクランクインの日。ルビッチは俳優達を集め、脚本を手にして言います。「ここには事実が書かれている。どうか脚本通りに何も変えずに演じて欲しい。それが私のやり方だ」いつものようにルビッチは自分の表現したいことを映画の中で成し遂げるという気構えを持っていました。その気構えのため、特定の俳優−ジーン・ティアニー−にきつくなることもありました。ドン・アメチーは述懐します。「ジーン・ティアニーはあるシーンをうまく演じることができませんでした。でもルビッチは彼女が自分の力でそこを乗り切るまで何も言わずほっとらかしにしていました。しばらくすると彼女は立ち直り、ルビッチは自分が望んでいたシーンを撮ることになるのです。ルビッチは必要のないことは何もしません。でもどうすれば自分の撮りたいシーンが撮れるのをよく知っていました。彼は芸術にすべてを捧げた男だったのです」
アメチーにはルビッチが芸術にすべてを捧げた男に見えたかも知れませんが、ティアニーにとっては暴君にしか見えませんでした。ティアニーは天使のように気高くて美しい顔でしたが、それは感情を深いところに押し込めて常に生気のないこわばった表情にも見えました。フォックス社のスタジオ内では彼女はセンチメンタルなシーンを演じるのが不得手で不自然にオーバーな演技になってしまいがちだという評判でした。そんな彼女から生き生きとした表情を引き出そうときつくあたっていたルビッチをティアニーは怖がっていました。ある日、たまりかねたティアニーはルビッチをつかまえて胸の内を打ち明けました。「私はベストを尽くしているつもりです。でもあなたがそんな風に怒鳴り続けるなら、この映画の仕事をすることができません」
「じゃ君に怒鳴るのをやめよう」ルビッチは答えます。
「まだ十分ではないがコツはつかめてきたようだし」
ルビッチはそう言って笑い、次の日から彼女に対して怒鳴ることはなくなり、それは最後の撮影日まで続きました。
ヘンリーの思春期時代を演じたディッキー・ムーアは小さい頃やら主役を張っていた人気子役俳優でしたが丁度この頃は年齢的にも不安定な時期にいました。ディッキーもまたルビッチを親愛すべき素晴らしい人物と思っていました。「ポケットから葉巻を取り出さなければならないシーンで、家庭教師役だったシーネ・ハッソーとルビッチの二人がセットにいたことを今でも憶えています。私は胸ポケットから葉巻を取り出さなければならないのにズボンのポケットから出してしまった。不慣れな手つきでポケットから葉巻を取り出す私を、ルビッチとハッソーは面白がって見てたのでとても恥ずかしかった」ムーアはまたルビッチがいつも防虫剤の匂いのする古いセーターを着ていたこともよく憶えていました。ヴィヴィアンがいたら絶対にそんな服を着て外出させなかったはずです。
ルビッチは思春期時代のヘンリーはムーアが演じたものよりおおらかな人物と考えていて、ムーアもそのことに気付いていました。それでもムーアが降板させられなかったのは、ムーアは感情の込め方の上達が早く、それが演技の欠点をカバーしていたからでしょう。よく知られているようにルビッチは俳優の演技に満足しなければすぐにキャストを変更していました。
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