ルビッチ・タッチについて
− Laughter in Paradise − *13*


ドン・アメチーとジーン・ティアニー


「生きるべきか死ぬべきか」をめぐる疾風怒涛の混乱の中、ルビッチは次の映画の製作を終身的地位とはいえフォックス社での雇われの身から始めざるをえず、一つの物語を捜すためだけに数カ月も費やしていました。ジンジャー・ロジャースのための映画「A Self-Made Cinderella」は頓挫し、フォックス社はルビッチのためにブロードウェーのヒットミュージカル「Margin for Error」の脚本を買い上げましたが、ルビッチは興味を示さず、結局その映画は舞台でも監督していたオットー・プレミンジャーによって作られました。
それからルビッチはニューヨークの古い商売人一家の人生に焦点を置いたドラマを作るというアイデアを思いつきました。しかしそのアイデアはラズロ・バスフェケットの1923年の戯曲「バースデイ」を読んだ途端に突然変異したものになります。ルビッチとサム・ラファエルソンはその戯曲を元に脚本に取りかかり、タイトルは「天国は待ってくれる」に変更されました。
ルビッチのこれまでの脚本作りと同じように、戯曲の持っていた良い部分はそのまま残され、弱い部分は消え去りました。バスフェケットの戯曲ではオープニングは主人公の15歳の誕生日から始まります。祖父のキャラクターはほとんど戯曲と同じで、戯曲ではキュルコビウス夫妻と呼ばれていた臆病なストレーベル夫妻も一緒です。しかしルビッチは戯曲の主人公はがさつすぎるのでもっとソフトにしなければならないと考えていました。戯曲の主人公は妻の死後、妻の妹とベッドを共にし結婚します。
回顧録で言及しているように、20年間アメリカで暮らしてきたルビッチは、アメリカを舞台にした映画を撮ってきたこともあり、アメリカに住む人々、そしてアメリカという国そのものにとても慣れ親んでいました。2、3年前に作った「That Uncertain Feeling」は言うまでもなく、サイレント時代の「Three Women」もアメリカを舞台とした映画です。しかしそれらの映画は別にアメリカを舞台にする必要がなかったことも事実でした。そこでルビッチは今度の「天国は待ってくれる」はアメリカを舞台にして、主人公ヘンリー・ヴァン・クリーヴを好色な計算高さと純粋さを合わせ持った、まさにアメリカ人といえるキャラクターに仕立てたのです。
「天国は待ってくれる」の脚本はルビッチとラファエルソンの手で執筆され、それはベル・エアー通り268番地にあるルビッチの邸宅で数カ月に渡って行われました。洗練された室内、くつろいだ雰囲気の中で執筆は続けられ、ラファエルソンはパイプ派でしたが、ときどきそこでルビッチ愛用のアップマン製の葉巻を吸っていました。
ルビッチの妻だったヴィヴィアンはもうその家に住んでいなかったので、ラファエルソンはルビッチ家では彼女に代わる気のいい同居人みたいなものでした。1942年4月22日、ルビッチとヴィヴィアンは別れて暮らすことを決め、しばらくの間ルビッチは家を離れてビバリーウィルシャーホテルに宿泊します。二人の最後はすっかり冷め切っていたにもかかわらず奇妙に義理堅い関係で、ルビッチは一日早く家を出る予定だったにもかかわらず、ヴィヴィアンがその日にディナー・パーティをするからというので、ホテルには行かずその日は家にとどまっていました。
1943年5月19日、ヴィヴィアンはルビッチの自分への無慈悲を理由に離婚訴訟を起こしました。「私はこんな風に事実を脚色するのは好きではない」ルビッチはレポーター達にそう説明しました。「これは人生のひとこまにすぎない」
翌月の裁判で、ヴィヴィアンはルビッチは日曜日にはずっと眠りっぱなしで自分となんの交わりを持とうとしなかったと証言します。「私はほとんどの時間をひとりきりですごしていました。他人と一緒に外出する時を除いて、彼の姿をめったに見なかったし、家に帰っても私には何も話しかけなかったのです。自分の家なのにまるでよその人の家に住んでいるようでした」ヴィヴィアンはまたルビッチが自分の友人を快く思っていなかったことについても言及しています。「私達が交わす言葉は”おやすみなさい”ぐらいでした」
ヴィヴィアンの証言が事実であることをルビッチは認めていました。「私はスタジオで働いている時は仕事以外のすべてのことを忘れていました」訴訟の前年にルビッチはローラ・パルソンに語っています。「夕食の時間になっても全然気付かないくらい仕事に没頭していたのです。」ルビッチの姪ラス・ホールも言っています。「ルビッチ叔父は結婚している男には見えなかったわ。ヴィヴィアンはルビッチにただ夫のように振る舞って欲しかっただけなんだけど、ルビッチは彼女とは親友のように付き合っていたんだと思う」言ってみれば、ヴィヴィアンは結婚した時にはすでにルビッチのそのような態度に気付いていたはずだといえます。
ヴィヴィアンの主張はすべて理にかなったことだったので、離婚の訴えを却下する理由はありませんでした。1944年8月4日、離婚判決の条文通り、ヴィヴィアンはルビッチの稼ぎの1%である2万8千5百ドルを慰謝料としてまとめて受け取りました。遺言検認裁判所の記録によると他に別居手当として月3千7百9ドル22セントと娘ニコラの養育費用として月150ドルが彼女に支払われています。
ニコラに関しては、ルビッチはヴィヴィアン以外の他の女性に決して親権を譲らないことを約束しました。そして実際その後彼は結婚することはありませんでした。ニコラもまた自分の父親が判決後に自分の支払うすべてのお金の受益者をヴィヴィアンにしたことから見てもずっと彼女に忠誠を誓っていたことを断言しています。しかしその後、ルビッチの体調が悪くなり始めると、ルビッチの友人達はルビッチをヴィヴィアンからできるだけ遠ざけようとしました。ルビッチの友人であるメアリー・ルーが言っているように「二人はお互いそれほど好きではなかった」からです。



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