ルビッチ・タッチについて
− Laughter in Paradise − *11*
ダリル・ザナック
ルビッチは本来の3年間の契約の後も結局ほぼ1年に渡って20世紀フォックス社の管理下で仕事をすることになりました。当時のフォックス社を取り仕切っていたのはダリル・ザナックとそのバックにいるジョセフ・スケンク。脚本家兼監督のフィリップ・トゥンヌはダリル・ザナックをスタジオのクヌート・ロックニー(*)と呼んでいました。それはいつもザナック自身が陣頭指揮をとって、毒づきながらまわりを励まして、いい映画を手早く撮ろうとしていたからです。ザナックはシャープな観察眼とユーモアセンスを持つ強気でしたが、女性については、シーザーがガリア人を見るように見ていて、ヒーローがヒロインの喉に舌を押し入れるような極甘のラブシーンを作りがちでした。
(*)クヌート・ロックニー:ノルウェー生まれの米国のフットボールコーチ。攻撃作戦に優れ、1920年代はFour Horsemanと称された4人の名バックス陣を率いカレッジ・フットボール界の帝王と目された。
ザナックと仕事をした男達は一様に彼を”the excective par excellence”(優秀なる重役)というフレーズで思い出します。エリア・カザンは自叙伝で語っています。「ザナックのために働いていた人はみんな彼を尊敬していました。だから私もそうしたのです。」ザナック行きつけの床屋の息子で後にフォックス社のポストプロダクションの主任にまでなったジョセフ・シルバーは述懐します。「ザナックと一緒に仕事したら、彼の高潔さに気付くはずです。荒っぽいところがあり、監督やプロデューサーを怒鳴りつけることもありましたが、下っ端に対して怒鳴ることは決してありませんでした」ザナックの編集における素晴らしい才能は誰もが認めていました。「彼はフィルムの編集についてありとあらゆることを知っていたのです」シルバーは続けます。「ザナックの映像的記憶力はすごくて撮影されたフィルムの一片一片に何が写っているかを細かいところまで記憶していました」ザナックは夜行性の生き物のように夜11時からラッシュを見て編集を始めて、翌朝のスタジオのメールBOXには彼が書いた大量の指図書やメモが溢れかえってました。
ザナックの最も賞賛されるべき才能の一つは誰の意見にも耳を傾けることでした。床屋であるジョー・シルバーの父親はいつもラフカットの試写会に招待されていましたが、それはこの映画が成功しようが失敗しようが関係のない外部の人間の意見を取り入れたかったからなのです。長年に渡ってザナックのストーリー監修者を務めてきたプロデューサーのデビット・ブラウンはこう言っています。「ザナックは誰からのアイデアでも取り入れてました。正面玄関に立っていた警官を含めてね。そして自分に非があった時はいつも素直にそれを認めた。オットー・プレミンジャーのような強気な男はザナックにはっきりとものを言うことができたが、監督が優柔不断だったりやりたいことがわかっていない時、ザナックはその監督を尻にひいていいようにあしらっていました」
ザナックの大きな悩みはフォックス社にはスターが不足していたという事実でした。人気子役俳優だったシャーリー・テンプルが年頃になってキャリアの終わりが近づきつつあるのを悟った後、ザナックはメトロ社で2番手だった俳優達、タイロン・パワー、アリス・フェィ、ベティ・グレーブル、ドン・アメチーを自社に引き込みます。これはザナック製作の映画ではスターをそれほど重要視せず、物語と脚本を要としていたことを意味していて、欠陥のあるストーリーにスターを起用してなんとか取り繕うよりも、良くも悪くもない並の俳優を使っていい物語を作ることに力を入れていました。
「ザナックは自分が一目置く人物を尊敬していました。脚本家達の作業がうまくいっていない時、彼は衣装部に1週間スキーウェアを借りてストーリー会議のためにサン・バレーに行って来いと言っていました。でも1週間のスケジュール表にストーリー会議が1つもない時、それはザナックが脚本家達の仕事に満足してる感謝のしるしでもあったのです。」
作曲家のデビット・ラスキンは述懐します。「私はザナックに依頼されて西部劇のスコアを書いたことがあり、一度ザナックの要望とまったく逆のことをやって自分のキャリアもこれで終わりだと思ったことがあった。彼はインディアン大虐殺のシーンの直後に”Bury Me Not on the Lone Prairie” を入れるように指示していたが、私はそれは悪趣味だと思ってやらなかった」
ラスキンは自分のやり方で音楽をつけたので、スタジオでの試写会の時、ザナックからどうして”Bury Me Not on the Lone Prairie”を入れなかったのだと尋ねられました。ラスキンは説明しましたが、ザナックは聞き入れずもう一度スコアをつけ直すように言います。それは映画の公開スケジュールが遅れることを意味していました。
「私が試写室から出ようとした時、ザナックは私を呼び止め、そこにいた他の人間にも聞こえるようにこれみよがしに言いました”心配するな、私が編集で失敗した時は50万ドルの費用がかかるんだから”と」
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