ルビッチ・タッチについて
− Laughter in Paradise − *8*


有名な口髭のシーン


「生きるべきか死ぬべきか」は1942年の3月6日に公開されました。しかしその2週間前、ユナイテッド・アーチスト社はすでにこの映画の製作会社だったロメーヌフィルム社を解散することを決定していました。それは映画がまだアメリカ国内で公開中だった6月30日に正式に発表されますが、それだけでなくUA社は決算前の時期になってコスト負担基準という決算方式を採用したのです。これは負債を返済するために収益の全体からコストを差し引いた後に分配する報酬を見積もるという計算方法でした。
驚くべきことにUA社は、それまでの計算方法では国内外あわせた収益が210万ドルあり30万ドルを超える純益があったという記録が残っているにもかかわらず、この映画に対する損失を申告したのです。ルビッチには1943年後半まで報酬の残金である5万ドルは支払われず、この5万ドルもルビッチ自身がUA社のアーサー・ケリー宛(ニューヨークの21という場所で1日おきにルビッチの前に現れて分割の小切手にサインをするように言った二人の人物のうちの一人)に「(この不払いは)ジョークでやってるのかね?」という催促の手紙を書いてようやく受け取れる運びとなったのです。またロンバートの取り分は契約上7万5千ドルだったのに5万7千307ドルしか支払われなかったので、ルビッチはその差額分を自分の懐から捻出しました。
最終的には国税収益監視庁がUA社をロメーヌフィルム社の解散を操作したことを理由に裁判を起こしました。UA社は疑われるような利益はなかったと主張し、ベニーの取り分である5万8千ドルの不払いにはまったく触れず、ルビッチに対してはすでに5万ドルを支払ったと言い張る始末です。
国税裁判所でUA社は映画そのものが負債をかかえていたことを主張しました。ロンバートの死が成功の可能性への期待を打ち砕いたこと、映画の主題としてナチスをユーモラスに扱っていたことなど、その理由と簡潔に述べています。「1942年の初め頃、戦争はドイツ軍優勢の状況であったためナチスはユーモラスな存在ではありませんでした。だから私達は世情からかんがみて、この映画は観客からナチスをからかっていると受け取られるのではないかと深刻に悩んでいました。」
金銭的な面で悪評を持たれていたUA社にとって、この裁判はフェアに行われただけに厳しい状況を強いられました。政府はロメーヌフィルム社は少なくとも7万4千67ドル21セントの納税義務を怠っているとして追徴課税を課しましたが、その後弁護士や会計士と多くの交渉を重ねた後、この金額は2万1千7百46ドル41セントにまで引き下げられました。最終的にこの裁判の判決が下ったのは1949年の2月でUA社は25%の罰金とともに1万1千2百ドルを支払うことになります。



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