ルビッチ・タッチについて
− Laughter in Paradise − *2*


ミニチュアセットを検討中のルビッチ


「生きるべきか死ぬべきか」の元々のストーリーはほとんどルビッチ本人から引き出されました。ルビッチと協力して脚本を書いたメルチオール・レンゲルは「ルビッチのための仕事はちょっとしたおふざけみたいなものでした」と言ってます。「メリー・ウィドウ」のしばらく後、ヨーロッパへ戻っていたモーリス・キャバリエをアメリカへ返り咲かさるためにこの映画の企画が始まりました。しかし「メリー・ウィドウ」はアメリカでは不評でわずかな利益しか稼ぐことができなかったのです。アメリカ人の監督であるロバート・フローレイは述懐しています。「パリにいたキャバリエはルビッチから自分をハリウッドへ戻す電話がかかってくることを期待していましたが、その電話はついにかかってきませんでした」
ルビッチは次作では意識的にこれまでと違ったことをしようともくろんでいました。「私はこれまでやってきた2つのありきたりの手法にうんざりしていました」1942年3月29日のニューヨークタイムズ紙にルビッチはコメントを寄せています。「コミカルなドラマ、ドラマティックなコメディ、この2つの手法とは違った、映画を見ているあらゆる人がどんな時も安心することがないような一本の映画を作ってみようと心の中で決めていました」
脚本家のエドウィン・ジェスタスメイヤーは以前にルビッチのプロデュース作品である「Desire」でルビッチと仕事をしたことがありました。ニューヨークの知識人だったメイヤーは皮肉にも今後自分の身の置き所となる映画やメディアを冷笑し痛烈に批判した戯曲を書く劇作家として創作活動を始めました。1923年10月に発行されたニューヨークタイムズ紙にメイヤーはハリウッドについてこのように言及しています。「贅沢なる失敗の地、ゴロツキ知識人の避難場所、やくざものの収容所、負け犬の街、センチでステロタイプな手法の集積場」
当時メイヤーはベンヴェヌート・チェリーニ(16世紀イタリアの彫刻家)を題材に「The Firebrand」という高尚で洗練された劇作を生み出し、その作品は1924年度の劇作ベスト10の1本として喝采をもって迎えられました。ブルックス・アトキンソンはメイヤーをオリジナリティと審美眼を持つ劇作家と評し、ジョージ・ジーン・ネイザンは巧みで奇抜なアイデアで人を惹き付ける力をもった高潔な作家ともてはやしました。
しかしメイヤーの後の戯曲「Children Of Darkness」はその辛辣なユーモアが賞賛されはしましたが興行的には失敗し、1927年にはハリウッドで職を求める知識人のルンペンとなっていました。そのような経緯をたどっていたメイヤーをルビッチはいつものように共同脚本家として迎え入れたのです。
「エディ・メイヤーはとてもソフィスティケイトされた劇作家でサムソン・ラファエルソン(「極楽特急」「天国は待ってくれる」の脚本家)より優れていました」とゴットフレイト・ラインハルトは述懐しています。「メイヤーは知識人の間ではハーマン・マンキーウィッツの一派に属していて、そこには他にヘクトやマッカーサー、S・N・バーマン、ルイス・ウェゼンコーンがいました。そこはヨーロッパにおけるコーヒーハウスのような雰囲気を持っていて、連中はみなウィットに富んでいました。政治的な側面を持っていたブレヒトを除いて、ドイツではそのような気の利いた連中は映画界にはまったくいませんでしたし、演劇界にもめったにいませんでした。そんな雰囲気の中でメイヤーはルビッチのような人物に対して真摯すぎるほどの敬意を持つようになったのです」
メイヤーが書いた「生きるべきか死ぬべきか」の脚本は「The Firebrand」と「Children Of Darkness」のブラックユーモアのセンスをたして2で割ったような作品で、冷笑的な側面と不条理さが各登場人物に備わっていました。メイヤーのそれまでの劇作は才気縦横といった感じで書かれていましたが、ユーモアに欠け、金属的で冷たい印象がありました。しかし「生きるべきか死ぬべきか」には温かさがあります。たとえどんなに不条理な事態でも、ヨーゼフ・トゥラは偉大なポーランドの俳優であろうとします。ヨーゼフの芝居がかった虚栄心の奧には誰もが見憶えのある人間性のようなものが存在しています。それこそが真のルビッチ・タッチなのです。

オープニングシーンの撮影風景



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