ルビッチ・タッチについて
− Laughter in Paradise − *1*


「生きるべきか死ぬべきか」 ポスター


1941年3月、エルンスト・ルビッチは自身の独立プロダクションからスタジオでの雇われの身へと戻り、安定した給料を受け取るべく20世紀フォックス社と3年契約の書類にサインすることに決めました。ルビッチはユナイテッド・アーチスト社での2本目の映画である「生きるべきか死ぬべきか」の製作に取りかかってすぐのこの時、撮影を夏の半ばから終わりにかけてするする予定でしたが、作業はそう単純なものではありませんでした。
「生きるべきか死ぬべきか」はルビッチとソル・レッサーの共同作業による2本目の映画として製作がスタートしましたが、ルビッチの独立プロダクションであるルビッチ・プロダクションが解散した後、ユナイテッド・アーチスト社はこの映画の権利をウォルター・ワーナーへ渡しました。しかしウォルターが当時製作していた映画は失敗作ばかりでルビッチの映画に対して100万ドルの融資すらできない状態にあり、映画製作はアレクサンダー・コルダの手に渡ることになったのです。
ルビッチとコルダは1920年代後半からの知り合いでした。コルダがハリウッドに着いてすぐ、数あるルビッチのプラクティカル・ジョークのひとつとして有名な出来事が起こります。ある日曜日の午後、散歩をしていたルビッチと友人の脚本家ハインリヒ・フランケルがコルダの家にやってきました。ノックをすれども返事はなく、ドアは開けっ放しで中には誰もいません。いたずら好きのルビッチは泥棒を装うことに決めました。灰皿や本、そこらにあったものはすべてソファーの下へ押し込み、カーペットをグイッと引っ張って、家具を部屋の隅へ押しやり二人は素早くそこを立ち去ったのです。
二人はルビッチの家に戻り、家に到着したコルダに電話をかけさせるために顔見知りの女優達を集めます。女優の一人がロサンジェルス・タイムズ紙のレポーターのふりをして「丁度今あなたのところに泥棒が入ったという通報がありました」とコルダに告げるのです。怒りを抑えつつコルダは「そうだ、泥棒にやられた」と現状を認めます。そこで彼女はコルダにこれまでの職業のこと、盗まれた物のリストなどを尋ねます。
5分後、別の女優が電話をかけて別のレポーターのふりをしてまったく同じ質問を繰り返すのです。「あなたの以前の職業は何ですか?ハリウッドでの仕事は順調ですか?アメリカの女性とヨーロッパの女性とではどちらがかわいいですか?ところで盗まれた物は何?」
3度目の電話でピンときたコルダは「妻の真珠のネックレスが盗まれた」と言います。もちろんルビッチもフランケルも真珠のネックレスなど盗んだ覚えはありません。ルビッチは受話器をひったくって荒っぽいベルリンなまりの声で「いいか!ソファーの下でも覗いてみるんだなっ!」と吠えるように告げて電話を切りました。
ハリウッドでのコルダの最初の仕事は失敗に終わりましたが、イギリスで「ヘンリー8世の私生活」という映画を手掛け成功を収めました。それまでコルダは制作費のかかる映画を作っては失敗ばかりしていましたが、この作品でようやく花が開いたのです。その後コルダは一英国人としてイギリス政府の許可の元、アメリカに戻ります。彼の映画のほとんどが英国銀行の融資を受けていたので、幸いなことにアメリカで英国外国為替運営委員会の仕事を任せられました。「バグダッドの盗賊」「美女ありき」「ジャングルブック」のような利益を生む映画はそこでイギリスに利益が還元されるべく取り決められたのです。
「ジャングルブック」は当初の予算をオーバーし、追加の融資を必要としていました。銀行家達はコルダをこれ以上甘やかさないことを選択し、キップリング(イギリスの短編小説家・詩人でジャングルブックの作者)の作品にない部分の撮影のための融資を断りました。そしてこの融資の拒否がルビッチの映画製作を危険な状態に陥らせたのです。コルダはルビッチの新しい映画の立ち上げ費用としてすでに10万ドルを投資していましたが、続けて投資するための流動資産が不足していました。
コルダはユナイテッド・アーチスト社の共同経営者でもあったので、法的にも心情的にもルビッチと一緒に仕事をせざるを得ない状況でした。映画の資金を調達し、八方丸く収めるために、ルビッチは20世紀フォックス社と1年間の契約を結ぶことになったのです。



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