「スクリューボール」
−映画における最もロマンティックな瞬間とは?− *6*


「人生における悲しみは芸術における喜びである」

ジョン・バリモア in「特急20世紀」(1934)


たとえ映画制作規定や大恐慌がなかったとしても、30年代のコメディ映画はブロードウェイのコメディと同じく歴史的な足跡を残すことになったはずです。トーキー映画の発達とアメリカ国内全域にわたる新しい映写設備への急速な移行はブロードウェイ演劇の映画化への道を開き、劇場主達が思っていた以上に幅広い客層を得ることになりました。スクリューボールコメディの最も著しい特徴のひとつとして、多くの物語がニューヨークを舞台にしていることがあげられます。ニューヨークは洗練された都会というイメージだけでなく、スクリューボールコメディの脚本家達が集まっていた場所でもありました。良くできたコメディの登場人物のほとんどはニューヨーク風の会話、身のこなしを身につけており、ニューヨークウェイと呼ばれる斬新で洗練された演劇的効果を生む脅迫自殺をあらわす言葉まであったのです。
1920年代後半から30年代の初めにかけてのアメリカのコミックシアターは活気のあるものとして我々の記憶の中に残っています。それは才能ある脚本家達が文学性や幅広い観客を求めて劇作に取り組んだ短い期間でもあったわけです。トーキー映画が会話の必要性を生み出して以降、ジョージ・S・カウフマン、ベン・ヘクトやチャールズ・マッカーサーなどの脚本家達がハリウッドに魅せられ、劇作家から映画の脚本家へすばやく転向していきました。それは彼らに支払われる巨額なマネーのせいだけでなく、映画によって彼らの作品がこれまでとは比較にならないくらい世界中の多くの人々に知られるということに着眼していたからなのです。これらの才能ある人間がハリウッドで仕事をしたことによって、これまで劇場で使われていた倫理観を疑われるような俗悪で野卑た言葉が当然のように映画の会話の中でも使われるようになったとされています。しかしこうした劇作用の脚本とそれを引用した映画の脚本とを読み比べてみても、映画製作会社が脚本家の書いたものに手を入れた痕跡−それは脚本家の独立性を損なわせた根拠としてあげられるリライト作業なのですが−を見つけることは難しく、少なくとも当時のハリウッドはブロードウエーの才能ある脚本家達の茶目っ気たっぷりでありながらも抜け目のない演劇的な話法の流入を受け入れざるをえなくなっていました。それらの表現はこれまで行われていた映画会社によるリライト作業を時代遅れにさせるぐらい、斬新で、スピード感のある個性的な作風だったのです。著名なコメディであれば、ニューヨークのアッパーミドルクラスの人間にだけがわかるような芸術的で洗練された話法に陥らせることなく、劇作の本来の持ち味も壊さずに、その作品の持つ活気を生かして、誰にでもわかり、楽しめるような表現に書き換えていくのが、これらの職人性を持った映画脚本家達の仕事でした。このようにしてハリウッドは人々を活気づけ、笑わせる場所をスクリーン上に作りだし、それを世界中に広げていったのです。
有能なブロードウェーの劇作家達はハリウッドに器用で技術的にも洗練された手法を持ち込み、そうでない下請けの売文作家達は早口でまくしたてる手法を持ち込みました。また有能な俳優達は大袈裟でない自然な演技をするようになります。何もわかっていない映画会社の重役連中が、大衆に受ける娯楽作品にありがちな、いらいらするような説教臭いセンスを持ち込んでいた時代にです。そういった重役連中のセンスは、広大なスケールでもって映画に携わる人間の才能を見極め、その才能を売り出していくという彼らが本来身につけなねばならないセンスとは無縁のものでした。しかしこの一時期はロマンチックコメディの分野にある文化的な一面を持たせた時代でもあったわけです。映画評論家のポーリング・ケイルはヘクトやカウフマンなどの脚本家のユーモアのセンスがアメリカ映画に息を吹き込んでいったと明確に指摘しています。しかしながら、スクリューボールコメディの台頭に先駆ける10年前から、ロマンティック・コメディの精神を開拓し育んできた最も重要な脚本家として忘れてはならないのがノエル・カワードの存在なのです。
ヘクトとマッカーサーは1932年ブロードウェーで興行した「特急20世紀」で、自己中心的な口げんかばかりしているカップルを登場人物にして脚本を書きました。カワードは2年前にそれを「Private Lives」でやっていたのです。「Private Lives」と「生活の設計」において、カワードは絶えず喧嘩をしている意固地なカップルを描いています。その喧嘩は二人の愛のエッセンスでもありました。普通の人々が日々感じている穏和な喜びとは違った、神経をすり減らすようなすさまじい諍いであったとしても、それは少なくとも日々の退屈さから逃れられるものであるというのが彼のコメディの特徴でした。「Private Lives」では怒りによって、「生活の設計」ではスキャンダラスな恋愛によって、二人の愛の確かめ合いが行われているという点において、スクリューボールコメディのあの逸脱したセンスを先駆けていたと言えます。ただ英国の上流社会で使われていた言葉づかいは、あまりにも上品すぎて芝居がかったものでした。それにカワードはこれらの芝居を映画のようにプロダクションコードに制限されることなく、思うままにけばけばしく演出ことができたのです。(ただし「生活の設計」はブロードウェーで成功したにもかかわらず、作品の品性に問題があるという理由で6年後の1939年までロンドンでは上演されませんでした。)
映画「生活の設計」(1933)はベン・ヘクト脚本、エルンスト・ルビッチ監督でパラマウントで製作されました。言葉使いとキャスティングはアメリカナイズされていますが、基本的にはカワードの劇作をなぞったものです。舞台ではアルフレッド・ラント、リン・フォンテーヌ、カワード自身が演じていた役柄を、映画ではゲーリー・クーパー、ミリアム・ホプキンス、フレデリック・マーチが演じています。この映画はしばしばスクリューボールコメディのカテゴリーに分類されることもありますが、自由奔放な恋愛スキャンダルというよりも、ブルジョア同士の仲違いに焦点を当てているので、このジャンルの周辺に位置づけられる映画といえます。
結局、スクリューボール・コメディは舞台では映画ほど発展することはありませんでした。ハリウッドがブロードウェーから取り入れたドラマティックな手法は、それが映画として表現される時に、新しいものへと移り変わってゆきます。登場人物が2階のバルコニーから現れる舞台の表現方法は、映画ではクローズ・アップから入るという具合に大きく変わりました。それに舞台と映画の違いはこういった単純な表現方法だけではありません。劇場という狭い空間にとどまらず、25フィートの銀幕のスクリーンから芸術的なパワーが世界中に広がってゆくという壮大なる変革があったのです。その発展の中心に置かれたのはどのようにしてこれらのコメディを観客に見せていくかということにつきました。当時の一般大衆は現実にはペントハウス(高級なアパート)やミンクのロングコート、洗練された美しい男女達によるスマートな会話などと接する機会もなかったので、どのようにして観客達にこれらのコメディを見てその雰囲気を感じてもらえるかが最重要課題であったわけです。



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