「スクリューボール」
−映画における最もロマンティックな瞬間とは?− *5*


「或る夜の出来事」(1934)


1930年代半ばにさしかかった頃、ロマンティックコメディ映画の手法にちょっとした変化がありました。1934年に劇場でヒットし始めたロマンティックコメディがどうして話のテンポが急激に早くなって、登場人物も喧嘩っぱやくなったのか?これらの映画が40年代はじめまで、すさましい勢いで作られたにもかかわらず、戦争時に衰退してゆき、その後ほとんど姿を消すことになったのはなぜか?スクリューボールコメディというジャンルは不況の真っ只中から第二次世界大戦が起こるまでの間の一過性のものとしてみなすべきなのか?また経済的苦境からの楽しい現実逃避の手段ではないとするならこれらの映画には一体どういう役割があったのでしょうか?
スクリューボールコメディの誕生が実在していたある事柄と深い関わりがあるとするなら(本書はそうではないという見解ですが・・・)、それは1934年に設立された悪名高い映画制作規定(プロダクション・コード:ウィル・ヘイズの元でMPPDAが作成した自主倫理規定)から端を発することになります。この規定は映画と映画製作者はアメリカの民衆を退廃させているという考えを持つ一部の信仰家のリーダー達の10年以上にわたる憤激と異議申し立てによって作られました。「腐敗したハリウッドはアメリカを自滅させるので誰かがそれを阻止しなければならない」とモラリスト達が騒ぎ立てたのです。
アメリカじゅうのカソリックの聖職者達が当時のハリウッドのみだらで退廃したイメージに対して剣を抜く準備をしていました。1934年の春には他の教団の代表者達にも支援され、アメリカカソリック司教の一機関として倫理国家連盟を作ります。この連盟からの圧力は政府の検閲制度の方針にも大きな影響を与え、連盟の脅迫まがいのボイコットは確実に映画産業を脅かすものとなりました。ハリウッドのプロデューサー達はこの映画制作規定管理委員会の中央検閲機関に対し承認のためにすべての脚本を提出する義務を負ったのです。
この映画制作規定の提唱者はハリウッドが映画を介して人々に美徳を説くならみんな高潔な人間になると信じていました。アメリカ人がこの規定が行われていた間、健全で高潔な暮らしをおくっていたかどうかは異論のあるところです。当時のホテルの部屋や酒場、賭博場では映画館では到底味わうことのできないような犯罪めいたことが絶えず行われていました。
この映画制作規定のために量産されていたハリウッド映画のほとんどが質的に向上しなかったというのも事実ですが、そこにはもう一つの(あるいは二つの)隠されたおまけがありました。キリスト教改革運動家のダニエル・A・ロード氏は「貧困な生活や汚らわしい犯罪が横行する社会において映画産業が息抜きとなっているのであれば、この制作規定は単に豪勢で格調高い映画に対しては可能性を開くものであるかもしれない」としてスクリューボールコメディの台頭を偶然にも予期していました。才能ある監督、脚本家、俳優達はセクシャリティを排除するようなことはせず、ずるがしこくそれをうまく表現する方法を見つけていったのです。アンドリュー・サティスのこのジャンルを著した2つの最良のエッセイのうちのひとつによると「スクリューボールコメディはセックスなしのセックスコメディである」、一方ウィリアム・K・エバーソンもこう言ってます。「スクリューボールコメディは検閲官の言いなりになって性的表現の抑制していた礼儀正しいコメディ映画と当時の慣習に対する反発である」
映画制作規定のためにロマンティックコメディの中で男女間の性的な諍いの暗示することができなくなったのですが、技巧のある脚本家や監督は性的な諍いから性的なものを取り除いたとしても諍いは起こりうることに気づきました。こういったことから考えると、1934年という年は映画制作規定が猛威を奮った年であるとともに、フランク・キャプラの「或る夜の出来事」、ハワード・ホークスの「特急20世紀」という騒々しいロマンティックなスクリューボールコメディの古典的名作が誕生した年でもあるのです。
スクリューボールコメディをよく見てみますと、スマートな会話と罵り合いの背後には微妙ではありますが特徴のある意味付けがなされていることがわかります。脚本に対する検閲官のチェックはウォールストリートで売買されている株の動きよりも気まぐれで発作的なやり方で行われていました。偉大な監督の映画にも、検閲官に受けのよさそうな信心深い描写がありましたが、そこには映画製作者達にやってはいけないことを指図する検閲官、彼らが覆い隠そうとしているものを笑い飛ばす監督、脚本家達の思惑などが会話の断片の中からでも読みとることができます。1934年のはじめには、ロマンティック・コメディを作りたがっていた監督、脚本家は肉体関係を暗示するような描写を削除せざるをえませんでした。不思議なことにそれ以後、彼らは抑圧された感情をあらわす手段として口と体をフルに使って動き回るコミカルなキャラクターを作り出したのです。
性的抑圧は不況が生み出したものなのでしょうか?またそれは経済的苦境にあった民衆に対して検閲機関まで作って禁止すべきものだったのでしょうか?とりわけ犯罪行為を容認するような描写は強く禁止されていました。無秩序になりつつあった当時の状況において、民衆の性的衝動を制御する方法として映画制作規定があったという考え方は正しくありません。MGM、20世紀FOX、RKO、パラマウント、ワーナー・ブラザーズ、コロンビア、ユニバーサルなどの大手のスタジオは明らかに利益を稼ぎ出していました。不況だ、検閲だ、と言っても、これらの大手スタジオは数セントを払って映画を見る民衆の反抗的側面を抑えつつ、利益をあげていたのです。
大恐慌と映画制作規定とスクリューボールコメディの増加は時代的な考証もぴったり一致しており、互いに影響しあっていることは確かなことです。不況が最もひどかった年からフィルムの検閲が始まり、スクリューボールコメディが誕生するまで2年かかっています。1929年から1932年まで経済的に下り坂の時期でしたが、ハリウッドにとってこの期間は最も成功する下地があり皮肉なことに登り坂の期間でさえあったのです。1934年までに映画制作規定の検閲は強制的なものとなり、最初のニューディール政策はメキメキと効果を上げ、1932年を境に経済は復興を遂げるようになりました。しかし、ハリウッドの夢工場はこういったまわりの状況以外のものを媒介として活況を呈していたのです。映画完成までの長いプロセス、映画の影響力、苦心して作り上げられた理由と混乱した(めんくらった)効果、これらはすべてスクリューボールコメディというのは実際に見てはじめてその定義を判断するのが最良の方法であることを教えてくれます。



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