「スクリューボール」
−映画における最もロマンティックな瞬間とは?− *3*


1936年クリスマス「影なき男」公開に行列する人々


映画というものは作られた時代背景から多くの影響を受けているという理由で、1930年代半ばに爆発的に増えたスクリューボールコメディというジャンルは、世界恐慌後の大不況が大きな要因となって生み出されたものであるという説が多数を占めています。30年代は厳しい生活を強いられた時代で、人々は笑うために映画に行き、貧困という現実の苦境から逃避するために劇場に足を運び、豪華で夢のようなミュージカルや、陽気なロマンティックコメディを見ることによってお伽噺のような世界に入っていったというのがこの説の主張するところです。
確かにコメディが人々のすさんだ心をやわらげるということはあるかもしれませんが、不況下の民衆がメロドラマや歴史ドラマやホラーフィルムより、コメディやミュージカルを好んで見ていたという証拠にはまったくなりません。単に現実からの逃避だけを目的に映画を見に行ってたとしたら、それはギャングが銃を撃ちあうような映画(暗黒街の顔役,1932)や巨大ゴリラがマンハッタンを占拠する映画(キング・コング,1933)、自らの人生を不幸に貶める女性を描いた映画(Stella Dallas, 1937; Jezebel, 1938)でもよかったのです。「白雪姫」(1937)、「汚れた顔の天使」(1938)は大ヒットしましたし、「Wee Willie Winkie」(1937)や「ノートルダムのせむし男」(1939)もスマッシュヒットを放ちました。
不況にもかかわらず、この時期のハリウッドは大量の映画を製作しています。映画会社の株は急落し、停滞した経済はそのうちの何社かを赤字に陥れたのですが、こういった厳しい状況の中でも映画の本数と観客数はともにいい数字を維持していました。最もひどい不況時であった1932年においてでさえ、毎週6,500万から9,000万のチケットが売れていたのです。20世紀に入って最も景気のよかった1928年には毎週少なくとも1億2,500万を超えるチケットが売れていたので、その時よりはかなり落ち込んではいるものの、不況時のチケットの平均プライスは23セント前後とほとんど値上がりしなかったこともあって、映画のチケットはまだまだ多くの人々が買えるものだったのです。
スクリューボールコメディについての解説の多くは、不況下のパラマウントがその原型を作ったとしています(厳密に言えばMGMなのですが)。「経済的苦境は現実の深刻な問題とされ、どんなスクリューボールコメディ映画にもそれが反映されている。」スクリューボールコメディの進化に関するこの理論は、このジャンルを深く探求するわずらわしさなしにこれらの映画を特徴づけるのにはいいかもしれませんが、的を得た考えとは言えません。ほとんどのスクリューボールコメディにおいて、ヒーロー、ヒロインははじめからお金持ちか、話の途中で大金を得たり、その機会を逃しているという事実はあります。しかし、お金とともに重要な要因となるのはセックスの存在(あるいはその不在)なのです。
スクリューボールコメディは他のあらゆるジャンルの映画と同様、当時の世相、文化的、芸術的な側面、思考の流れの変遷など多岐にわたる意義を内包し表現しています。プライベートな映画や才能のある監督の作った映画が世界を意義みたいなものを表現した時、一応一時的な結論に達することもあるでしょうが、あるひとつのジャンル全体で見てみるとそれはまれなものにならざるをえません。スクリューボールコメディ−これは映画が作られた過去の特定の期間を指す言葉でなく、あくまでひとつのジャンルなのですが−はより柔軟な形で芸術フォーラムを作っているように思われます。映画の中での約束事項をとっかえひっかえして無限のバリエーションを作りながらあるひとつの問題に焦点をあてつつも、決して単一化したイデオロギーには結びつくことはありません。スクリューボールコメディの範囲は”開放性”(街は春風1937)から”性的反動性”(Public Deb No.1, 1940)、”性的解放性”(My Favorite Wife, 1940)から”性的抑圧性”(Turnabout, 1940)、”明白な階級意識”(或る夜の出来事, 1934)から”階級無視の姿勢” (特急20世紀, 1934)までさまざまです。スクリューボールコメディをひとつのジャンルとして見てみると、私たちがベストだと思う作家性の強い映画よりも矛盾に満ちた世界を深く表現していることがわかります。
スクリューボールコメディというジャンルは当時の社会的状況と関わっていますが、人類の辿ってゆく道を決めるような大きな出来事だけをとらえて世界をみるとそこには一つの落とし穴があります。人々の日常生活は意気消沈してましたが、陰々滅々とした木曜日(Black Thursday)に続く多くの灰色の金曜日(gray Fridays)には新聞で読んだ金融情勢や職業安定所での失業者の列で聞いたうわさ話と全然関係のない理由で多くの人々がお互いに愛し合ったり憎しみあってたりする日々が続いていたのも事実です。映画というもの−ここではスクリューボールコメディだけでなくギャング映画やホラー映画、メロドラマや歴史ロマンなども同様−は実際の生活におけるすべての事柄を見て聞いて感じるひとつの手段だったとも言えます。スクリューボールコメディが劇場のスクリーンやミュージアム、TVでそれがどんなものであるかをはっきりと人々に伝える機会を得たとき、私たちがこれまで聞き慣れた話とはまったく違う物語を知ることになります。スクリーンを見てみますと、「新婚道中記」(1937), 「街は春風」(1937), そして「Nothing Sacred」(1937)などの映画の中には、洗練された身のこなしや肉体美、スタイルが見られ、「ヒズ・ガール・フライデー」(1940), 「影なき男」(1934), そして「My Man Godfrey」(1936)や他の30年代の多くの映画では粋な会話のやりとり聞かれ、それらの細部は豊かさをあらわすものとして表現されています。たとえこういった表現がなかったとしても、深い洞察力をもった目でスクリューボールコメディを観察してみれば少なくともその映画が語る入り組んだサブプロット(わき筋)が見えてきます。



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