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鬼っ子・長澤蘆雪

出来の悪い子ほど可愛い、という。けれど、出来が良すぎても可愛いものは可愛い。

円山応挙という画家がいた。

この名に覚えがなくても、美術の教科書に載っていた幽霊の掛け軸を見た覚えのある方は多いはずである。幽霊にしてはふっくらと色っぽい、足さえあるなら一夜を共にしてもいいと思えるような、あの掛け軸の作者である。

応挙には山ほど弟子がいた。彼は京都に住んでいたのだが、遠くて通えない弟子には画集を送ったり送らせたりして指導していた。今でいう通信教育である。

そういう弟子まで含めたら、何百という数になったであろう弟子の中で、破門された回数だったらまかせとけ、という弟子がいた。

長澤蘆雪。ながさわろせつ、という。

蘆雪の絵を目にする機会は、あまりない。戦後、外貨を稼ぐために海外に流されてしまったからである。応挙のように有名ではないし、直系の弟子もいない。

だが、五十年足らずの生涯であった割には、残した作品は多かった。多かったし、技量の点では師を越えているようなところがあった。

いや、越えているというより、同じ画題でも内在する物が違うのだ。

例えば「鯉」を応挙と蘆雪が描くとする。

応挙描くところの鯉。

綺麗に鱗が揃い、よく太って色白で、鰓もうっすらと紅に染まり、仲間と餌を奪い合うようなこともなく、豪邸の大きな池の中でのんびりと暮らしている。時々水面に訪れる、やんごとなき身分の女主人に愛想を振りまくこと以外に、一日特にすることもない。

対して、蘆雪描くところの鯉。

鱗など揃っていようはずもない。流れの荒い河に棲んでいるからあちこちぶつけるし、何より縄張り争いが絶えない。鰭は破れてすっかりギザギザになっているが、自分では結構気に入っている。

腹が減ったら水面すれすれに飛んでいる雀を飛びついて捕らえることもあるし、銛をかざして追ってくる人間に噛みついたことさえある。身は黒く締まって、目ばかりがやけに大きい。

蘆雪は、野生の鯉を描く。

彼は、淀川の警備を行う水夫の家に育った。今の京都と大阪の境、今は大きな競馬場になっているが、その昔は一面の芦原だった。

蘆雪の蘆は、芦という意味である。芦に積もる雪。何とも風流だが、本人は恐ろしく気が荒く、他の弟子と喧嘩ばかりしていたという。けれど応挙には最後まで可愛がられた。

応挙と、そして蘆雪にとっても最晩年の作品となった襖絵が、但馬、現在の兵庫県北部の寺にある。応挙の絵は本堂に、蘆雪の絵は北の端の二階にある。

ああ隅に追いやられた、のではない。北の間にふさわしく、波頭砕ける岩に群れて牙をむく猿を、蘆雪は描いた。

何故に山の中に棲む猿がこんな海の近くに現れたのか。猿はすべて年老い、痩せて見える。何に追われたのか、何を恐れたのか、何から逃げているのか。

蘆雪は、野生の猿を描く。

野生に満ちた生き物達は、けれどやけに人間臭い。彼らを追いつめるのは、厳しい自然ではなく、人の世のしがらみ。立身出世、文武両道、家内安全。

武士の家に生まれた蘆雪は、けれど武道で身を立てることはなかった。すでに世は天下泰平。人の首を取って出世する時代は終わった。それなら何で身を立てるか。袖の下、ごますり、お追従。どれもできなければどうするか。畑でも耕すか商売でも始めるか。けれど、どちらにもそれ相応の元手がいる。

ならば、どうするか。

絵を売って身を立てる。

武士をしていても、おそらく生涯決してうだつはあがらない。

蘆雪と最も激しく対立したといわれる弟子の一人、松村呉春、まつむらごしゅんは、同じく武士であった。けれど武士の中にもいろいろあって、呉春は金座に関わる家に生まれた。今でいえば日本銀行名古屋支店店長、対して蘆雪は地方公務員中堅管理職。

呉春の絵は、その寺では応挙に寄り添い、華やかに咲き開いている。風雅を知る家に生まれ、造り酒屋の豪商達とも交流のあった呉春の名は、今も酒の名前に残っている。

けれど、師から遠く離れているように見える蘆雪は、実は最もよく理解されていた。応挙はおそらく、蘆雪の中に自分にはない光を見たのだ。

野生の生き物の、けれどそれは確かに人の、生命そのものが燃えるような光。

その光は、白と黒で描かれた猿を浮かび上がらせる。あるいは黒と白の。その光は人の命を削り、心も削る。

そのような光を、応挙はおそらく憧れの気持ちを持って見たのだ。

但馬の大きな農家から京に出てきた応挙が持っていた光も、おそらく平凡ではなかっただろう。人の持つ光を理解する力を、誰もが持つわけではない。持とうと思って持てる光では、それはない。

その光の下に立ち、そしてできた影を見ることの出来た者は、幸せであると思う。影を捕まえようとして踊ることも、時には必要だと思う。己の本当の姿を知るために。

円山応挙(1733~1795) 長澤蘆雪(1754~1799) 松村呉春(1752~1811)

鬼つら・上嶋鬼貫

鬼の目にも涙、という言葉がある。鬼という名を選んだ彼は、何に涙したのだろうか。

上嶋鬼貫という名前を選んだ彼は。

うえしまおにつら、と読む。つらが顔ではなくて貫なのは、紀貫之への尊敬を込めて、である。

彼は、誰であるのか。

酒屋の三男である。それも、小さな売り酒屋ではない。伊丹でも指折りの油屋の。伊丹といえば、今は国内線のみとなった空港のある街として有名だが、江戸時代には灘と並んで酒所と謡われた。

つまり、サントリーとかアサヒとか、でなければサッポロとかの社長の三男だと考えてもいいだろう。三男といっても、長男は早くに亡くなっているので、実質は次男である。

彼の生きた時代には、ビールやワインは日本ではほとんど作られていなかった。必要なのは米。酒を作るのには大量の米が必要である。

江戸時代、幕府は農本主義政策を執っていた。金本位制が金を基準として経済活動を行うように、幕府は米を基準にして政治を執り行った。役人の給料は米で支払われ、税金である年貢も米で納められた。

だから、米はそのまま金でもある。酒造会社である上に、銀行でもあったのかも知れない。米が多く採れた年には酒は多めに仕込まれ、少なければ禁止令が出た。

市場に出回る米の量を、仕込み量で調整していたのである。ということは、銀行の中でも国債などを発行するようなところ。

だが、彼は俳人でもあった。彼が生きた時代は、かの松尾芭蕉と重なる。

   にょっぽりと秋の空なる不尽の山

不尽は、富士の山である。彼が仕官の話のために下った江戸に向かう途中に見た富士の山である。

さらに彼は、武士でもあったのである。

江戸時代は封建時代で、生まれた家が武士の家であれば武士に、農家であれば畑を耕して生きることになる、と考えられている。基本的にはそうなのだが、実際はそうでもなかった。

武士が画家になることもあるし、農民だった応挙は絵の先生になって武士を弟子にした。芭蕉も元は武士である。

そして、鬼貫は酒屋に生まれて武士になった。

武士の身分は、売りに出されていた。御家人株、と呼ばれて取り引きされていたのだという。おそらくは財政がひっ迫していた藩などが売り出したのであろう。それを買って、鬼貫は武士になった。

なったのはいいが、すぐにお勤め、というわけにはいかない。江戸まで下ったのに結局適当な口が見つからず、大阪に戻ってきたこともある。

その時の出張旅費は、どうなったのだろう。出なかっただろう。

仕官といっても、高給取りではない。三十人扶持といえば、そのまま三十人分の食い扶持、ということである。薄給で名高い与力がそのくらいだったというから、年収三百万あるかないか、というところである。

しかも、現金支給ではない、米で支給される。だから、米の相場によって収入が上下するのである。豊作で米が安くなれば安く買い叩かれるし、不作なら米そのものの量が減る。

もっとも、もともと扶持が目当てではない。あくまでも武士の身分が大事なのだ。武士の格好ができるということが大事なのだ。

だから、鬼貫は江戸に下る時には部下を二人連れていた。まだ仕官が決まっているわけでもないのに、である。そしておそらく、身分を売りに出さなければならないほど汲々としている本物の武士より、その身なりは立派だったろう。

つまり、こういうことである。

酒屋の三男として生まれて、俳諧も嗜み、武士の身分も手に入れた。

今風にしてみると、酒造会社の社長の息子として生まれて関連の銀行に役員として入り、大学の文学部の講師としての名もあり、地方公共団体の役員にも名を列ねている。

彼は、いったい誰なのか。

誰でありたかったのか。

皮肉なことに、鬼貫の周りの人物は誰であるかをはっきりと後世に残すことになる。

武士を捨てて諸国を巡ることで俳諧の祖となった芭蕉然り、浮き世草紙で名を馳せた井原西鶴然り。さらには、歌舞伎に舞台に映画に年末の特別ドラマに、おそらく永遠に残り続けるであろう名を残した、大高源吾。

赤穂浪士の一人である。大高源吾も子葉(しよう)という俳号を持っていて、二人はこんな句を一緒に詠んでいる。

    かく山を引ッたてゝ咲しをに哉   子葉

       月はなし雨にて萩はしほれたり   鬼貫

子葉のいうところの、山とは何だったか。それを引き立てて咲くしをに、紫苑は誰のことか。

紫苑は、師恩とも取れる。小さく淡い紫、道端にゆらゆらと咲く、決して頑強とはいえない紫苑の花を、誰に喩えたのだろう。

月がないのは、本当は誰だったろう。萎れたのは。恥にまみれて萎れたのは、本当は誰だったのだろう。

鬼貫を、愚かとは言うまい。

自分が何に相応しいか、知ることのできる人間は少ない。おそらく、鬼貫はどれにも、そこそこ相応しかったのだろう。町人としても、俳人としても、武士としても、及第点の取れる人物だったのだろう。

彼の残した句に、こういうのがある。

    土に埋て子の咲花もある事か

鬼貫は長男を幼くして亡くしている。

六歳で、疱瘡に罹って世を去ってしまった息子の亡骸を、土に埋めれば生き返るということが、もしやすればないだろうか。花の種を埋めれば芽が出て花が咲くように。

・・・いやいや、そんな馬鹿げたこと。けれど、枯れたように見える梅の花は、春が来れば花を咲かせる。いったい、花はどこから溢れてくるのだろう。

    木をわりて見たれば中に花もなし

        されども木より花は咲きぬる

彼の死から二百五十年後、アメリカの作家が小説の中で息子を土から蘇らせている。息子の父親は、先住民が使っていた死者を蘇らせる力のある土地に、交通事故で死んだ息子を埋めたのだ。

アメリカの、小説の中の父親は誘惑に負けたのだ。死者は決して蘇ってはならない。たとえそれがどんなに悲惨な死であろうとも。

そんなことは分かっていた。良く分かっていた。けれど彼は、息子の遺体を埋めた。息子を失った悲しみに、耐えられなかった。息子は蘇る。けれどそれは息子ではなく、息子の体を借りた悪魔だった。

鬼貫は、息子の隣に眠っている。

そして、鬼貫の句は、三百年の時を超えて、同じ国に住み、同じ言葉を話してはいても、全く異なる伝達方法を持つ私達の胸を打つ。

   拠秋は膝に子のない月見かな

男と生まれて、最大の幸せは、子供を膝に抱く事だと思う。血など繋がっていなくてもいい。子供の重みを、小さいが一人前に生きている子供を、膝や胸や背中に感じる事。

女は、その重さを内側で支える。けれども、己の体の中に決して子供を抱く事のできない男は、その腕で抱くよりない。目に入れても痛くないが、実際には入れられない。

その幸せを、手に入れられる事は稀である。その重みがとてつもなく幸せなものだと、感じとれることは、稀である。

男は赤ん坊の世話などしないもの、そんな事は女がするもの。そういわれて、そんなものかな、と納得してしまう。そうやって男は、せっかく生まれた自分の子供から遠ざけられてしまう。

鬼貫は、その幸せを手に入れた。幸せであればある程、それを失う悲しみは大きく、涙も涸れる事はない。

けれどそれでも、鬼貫は男として、最高に幸せであったのだと思う。

上嶋鬼貫(1661~1738) 参考文献「伊丹の俳人・上嶋鬼貫」日本の作家29 櫻井武次郎・新典社

炬燵・内藤丈草

兄弟が八人、という人は、もうあまりいないだろう。そして、自分以外の兄弟全部が自分とは母親が違う、という状況も、昔ならままあったかもしれないが、今では七人の弟妹という事自体が珍しい。

江戸時代であれば、そういうことも起こりうる。女性が生涯に産む子供の数は今より遙かに多く、けれども出産によって命を落とす女性も今より遙かに多かった。

だから、内藤丈草の母親も若くして命を落とし、しかし後に家に入った女性は壮健で、七人の子供を産んだ。

丈草は、じょうそう、と読む。松尾芭蕉の高弟の一人であった彼は、丈の高い草のように目立ったが、その人生は短いものだった。内藤家の長男として生まれた丈草は、尾張の国(現在の愛知県)の犬山の武士の家を継ぐはずだったが、出家して琵琶湖のほとりに小さな庵を構えた。

白粥の僧正。彼の呼び名である。病弱で、食もあまり太くなかった丈草の創る句は、こんな感じである。

     着てたてば 夜るのふすまも なかりけり

ふすま、というのは襖ではなくて寝間着のこと。一枚きりの布子で眠って起きる。起きたらまた寝る。

     かみこきて 寄ればいろりの はしり炭

紙子というのは、紙のように硬い生地の着物。暖かくはないだろう。だから囲炉裏に近づきすぎてしまい、弾けた炭が飛んできて、慌ててもみ消す。

     春雨や ぬけ出たまゝの 夜着(よぎ)の穴

春だし、雨も降っているので、昼近くまでうだうだ寝ていた。ついに便所を我慢しきれず、渋々起きて厠へ。戻ってみると、湿った夜着の穴が、抜け出たままの形で残っている。

     隙明や 蚤の出て行 耳の穴

隙で隙で、あんまりにも暇な宿主に蚤も呆れたのだろう、こそこそと耳の穴から出ていく。

だいたい、こんな感じである。

けれど、さすがに新鮮で絵画的な句には、他の追随を許さないものがある。

     幾人(いくたり)か しぐれかけぬく 勢田の橋

琵琶湖から流れ出すただ一つの河、瀬田川に架かる橋。唐風の大きな橋の上を、時雨にあった人々が足早に、しかしどこやら楽しげに、橋の板を鳴らしながら駈けていく。

こんな可愛いのもある。

     水底を 見て来た皃(かお)の 小鴨哉

ぷくん、と水に潜った小鴨が、狙った小魚を捕まえ損なったのか、ふん、ちょっと水の底を見物に行って来ただけさ、とすまし顔。

     我事と 鯲(どじょう)のにげし 根芹哉

冬の間に肥えて美味しくなった芹の根を引き抜こうとすると、慌てて泥鰌が逃げ出していった。なんだ、捕まえる気などなかったのに。そういえば泥鰌は、普段から驚いたような顔をしているな。

けれど、こんな句もある。

     血を分ケし 身とは思はず 蚊のにくさ

血を吸われたからには血を分け合った間柄である。いわば兄弟である。しかし蚊はぶんぶんとうるさくつきまとい、痒みと痛みを残す。

これは、半分だけ血を分けた兄弟を皮肉った句であると、取ろうと思えば、確かに取れる。血をかっきり半分分け合った兄弟というあたり、蚊は追って払ってもしつこくついて来るというあたり、数ばかり多くてうっとうしいというあたり。血、とはっきり書いてあるので、よけいにそう勘ぐってしまう。

けれど、さらに他の句も味わってみると、何だかそれは丈草の引っかけのような気もしてくる。

     草庵の 火燵の下や 古狸 

ああ、寒い寒い。炬燵に潜り込む。おや、炭もそろそろ切れる頃なのに、ぬくぬくと暖かい。まあいいか、もう春も近いのだ。・・おや、何か動くぞ。誰かいるのかな。そんなはずがない、私は一人暮らしだし。じゃあ、この中にいるのは誰だろう。やけに毛深いが。・・狸?

     守りゐる 火燵を菴(いお)の 本尊かな

足の冷えは体に応える。こうして炬燵を一日抱いているのが一番具合がいい。こうしていると、まるで信仰篤い僧が本尊を守っているように見えるかもしれない。そうではないのだが、ついでに御利益があってこの下腹の痛みが消えてなくなればいいのに。

     ほこほこと 朝日さしこむ 火燵かな 

あー、ぬくい。膝には炬燵、背中には朝日。あー、極楽。

     下京を めぐりて 火燵行脚かな

友人を訪ねて京は下京へやってくる。都会の暮らしは華やかで、炬燵に入る炭の香りも良い。蜜柑などたくさんよばれた。ふと、この近所にもう一人、友人がいたことを思いだした。炬燵に入りながら、生姜湯などよばれる。そういえば、ちょっと東山に向かって歩いた方にも、知り合いがいた。炬燵を腰にあてがいながら、暖かい蕎麦掻きなどよばれる。

万事、こんな具合だったのに違いない。

炬燵行脚。何ともちゃっかりしたおっさんである。このちゃっかりさ加減は、おそらくは生来のものだったろう。総領の甚六とは、よくもいったものである。

あの蚊の句以外は、きりぎりすや蛙、案山子に薬缶などが詠われている。身近くにあるもの、いつも手に取れるもの。その中の一つが、蚊だったのではないか。

どんな心境で書きましたか、とインタビューする人々をまさに蚊のようだと私も思っていたが、この句に出会い、そして他の句もあれこれ味わってみて、やっぱり訪ねてみたくなった。

それで、この蚊は、あなたの手で叩きつぶされてしまったのですか。

内藤丈草(1662~1704) 参考文献「蕉門名家句選」(下) 堀切実 編注 岩波文庫

葡萄・伊藤若冲

江戸時代を代表する画家の一人である。と言いはる人は、あまり多くないと思う。確かにその名は、与謝蕪村や円山応挙ほどには有名ではない。

その割には、2000年に若冲没後二百年を記念して開催された、京都国立博物館での展覧会は盛況であった。バスでやってきた団体さん以外にも、日本画を学ぶのであろう人、洋画を趣味とするのであろう人、ただ画が好きなのであろう人々が、辛抱強く並んで彼の描いた野菜や鶏や花に逢いに来ていた。

彼について、よく言われることがある。

八十歳を過ぎての高齢とは思えない創作に駆ける意欲。年齢を感じさせない若々しい表現力。

こんな話を聞いたことがある。お年寄りには手先の器用な人が多い。その技は、加齢によって衰えるどころが、むしろ磨きが掛かっていく。何故か。

個人差はあるようだが、加齢によって手先が器用になるのは、手首にある丸い石のような骨の数が増えるからだという。赤ん坊の頃には二つか三つしかないその骨は、加齢とともに数を増し、特に器用で国宝級の技を持つと言われるような人は、ごろごろとその骨を持っているのだという。

つまり、手首の動きを制御する歯車の数が増え、小さく精巧になり、複雑で繊細な動きをすることができるようになるのだ。

彼はおそらく、数え切れないくらいの骨を持っていたことだろう。小さな骨は、彼の手首の中で磨き上げられ、光り輝いていたに違いない。

そして彼は実は、早く年をとりたかったのではなかろうか。

青物問屋の長男に生まれながら、家督を弟に譲り、四十歳の若さで隠居してまで画を描き続けた若冲にとって、画以外のもろもろの事柄は、ほとんど意味のない存在だった。若いと、周囲はあれこれ言う。結婚しろ子供を作れ家を継げ。けれど爺さんには誰もそんなことは言わない。

彼の描く葡萄を見ていると、特にそう思う。

節くれ立った枝は、ある時は絡み合いある時は駆け上りある時は垂れ下がり、けれど確かに多くの実をつける。若い葡萄ではそうはいかない。葡萄の蔓は、堅くなり瘤を作り皺を寄せ、したたかな老獪さを身につけることで立ち上がり、意外なほどの深い甘みと鋭い酸味、そして豊かな香りを持つ実を、たわわに実らせることができる。

実際若冲は、画を売って糊口を凌ぐ必要がないだけの収入を得られる身分、ではあった。京の都のど真ん中、錦小路の青物問屋。今で言えば商社だろうか。その社長の長男として生まれた彼は、隠居後も、実家の桝屋が持っていた地代の上がりなどを得ることができた。もとより、そうでなければあれだけの画材を集めることも不可能だったろう。

当時、絵の具はほとんど輸入品である。それは同じ重さの宝石にも匹敵する。彼の画が二百年以上を経ても瑞々しく鮮やかなのは、保存状態の良さもあるが、絵の具の品質の高さにも依るのだという。

そんな高価な画材を買いあさり、画題にするための美しい鶏や鸚鵡を飼い、一日中部屋にこもって画を描き続けていても、それでも十分に暮らしは潤っていたのである。

けれどさすがに天明の大火では、家も、収入源の長屋も焼かれ、若冲は、一気に貧乏になる。生活を建て直すために画を描かなければならなくなった若冲は、たちまち病に倒れる。

だが、彼はむしろそれを楽しんでいたのではなかろうか。

画を売って得た米で、石工に五百羅漢像を彫らせることは以前からやっていたが、それに涅槃図を加え、若冲好みのあの世を完成させることにした。

あくまでも此の世に現実があるというのなら、此の世に自分であの世を作ってしまえばいい。あの世でなら、現実に惑わされることもない。

貧困は、実は人の心の中にある。現実に追い回されること、生活に負けることが、すなわち貧困である。

彼は画を米に替えて暮らすようになってから、斗米庵と名乗り、金銭的な貧困すら描くことへの活力に変えさえしたのだと、二百年後にガラスの向こうに彼の画を見ながら思う。

風・曽我蕭白

曽我蕭白。仇討ちした兄弟ではない。江戸時代の画家である。

1730年は享保十五年生まれ。円山応挙より三歳年上である。亡くなったのは天明元年だから1781年。

確実に言えることは、これくらいのものである。それも、乏しい資料から逆算して生年を割り出しているから、もしかしたら二、三年くらいのずれはあるかも知れない。

出身地は伊勢という説と京都という説がある。伊勢の出身の説は、蕭白の没後四十年ほどして刊行された岡田樗軒の『近世逸人画史』に依る。京都説は京都興聖寺の過去帳に依っていて、親族関係なども記載されているし、岡田樗軒は江戸の人だから京都説の方が正しいのだろう。けれども古い本などでは「伊勢出身」と言い切っている。

最初に画業を学んだのは、たぶん高田敬輔(けいほ)という、近江は日野の画家である。けれど蕭白は高田ではなく曽我を名乗っている。

普通の画家は、自分の画には大抵自分の名前を入れる。判子を押す場合もあるし、サインのこともある。人に頼まれて描いた場合には、日付も書き込む。記念になるからである。そういうのをひっくるめて落款というが、蕭白の落款は他の画家とは著しく異なっているのである。

明大祖皇帝十四世玄孫蛇足軒曽我左近次郎暉雄入道蕭白画

従四位下曽我兵庫頭暉祐朝臣 十世孫蛇足軒蕭白左近次郎 曽我暉雄行年三十五歳筆

式部太輔蛇足軒暉雄玉(おうへん)入道十世 曽我左近次郎蕭白暉雄筆

長い。意味が分からない。ついでに、花押まで押してある。花押というのは手書きの判子のようなものだが、これもまた、訳が分からない。

けれど、何の意味もないわけではない。式部蛇足は朝鮮から渡来した秀文という画家の子と伝えられるし、秀文は曽我派の祖とされる。漢の時代には蕭何という功臣と蕭照という画家がいたらしい。

だから、蕭白がそのまま明大祖の十四世、ではなくて、明大祖の皇帝に十四世前には仕えていたかも知れないしそのまた玄孫の蛇足軒の画を見て面白いなと思ってあれこれ勉強してよしこれからは曽我を名乗ろうと決めた左近次郎暉雄入道が蕭という漢字が好きだから蕭白にしました、の描いた画、というなら、なんとかなる。

そうやって何とかしていけばどんなものでも何とかなるわけだし、なにしろ落款としてあまりにも長過ぎる。

だが、この落款と花押を蕭白の画に添えてみたとき。その長さと横行さは、全く気にならなくなるのだ。

彼は、風を描く。

その風は新米の仙人の衣を溶かし、鬼女の髪を梳かし、荒れ狂う波頭を宥める。龍の爪の先でぐるぐるととぐろを巻いたかと思うと、爪で削ったように荒い岩肌を霞ませる。髭を伸ばしすぎた仙人の鼻の下を伸ばすため、色白の美人の裾を煽ったかと思うと、いきなり去っていく。

去っていく風はしかし、とどまるところを知らない。

遠い遠い昔、宋の時代に生まれた李郭(りかく)と呼ばれた様式は、元、明と時代を生き抜き、朝鮮にも渡って新たな表現方式を加えられ、東の果ての戦国時代の日本に派手派手しく降りたって、一時期は下火になったものの再び力強く沸き上がり、東洋風のキュビズムとなって京の都の町人であった蕭白の人生を穿った。

そして、京よりも地方で愛された蕭白の画は、明治に至って偽物が出回るほど人気を博したが、大正、昭和と下るうちにあるいは戦火に焼け、あるいは捨て去られ、その存在すら忘れ去られていった。

第二次大戦後。風は蘇る。ついに風は太平洋を越え、アメリカのボストンで西洋人を魅了することになる。

浮世絵が大陸を越えてゴッホの元に届いたように、宋で生まれた画法は、半島から島へ、そしてはるか西の大陸へと、千年の時を経て旅をした。

誰が最初に起こしたのか分からなくなるほどに、自在にその色や香りを変えながら、風は、西へ東へ。

そう考えてみると、明大祖というのも、そんなに大げさでなく思えてくるのだ。

筆・松村呉春

宝暦二年、西暦なら1752年。江戸時代も中期にさしかかる頃である。

その年、松村呉春は京都に生まれた。金座の年寄役の家であるから、武家である。しかも、6人兄弟の長男。

今で言えば日本銀行京都支店次長の長男に生まれたようなものである。生まれながらにしてつくべき職業は決まっているから、がつがつしたところはない。もちろん学歴は高く、留学の経験もあったりする。スポーツも得意で、テニスが趣味だったりする。

つけるべき教養はそつなく身につけ、遊びの心も知っている。けれども仕事に対しては厳しく、高い理想を持っている。

そんな現代のエリートの姿を、そのまま呉春に重ねてもさしつかえないだろう。

呉春は、与謝蕪村の弟子でもあり、円山応挙の高弟でもあった。当時の日本で最高の俳人と画人に学んだのである。さらには笛の名手でもあり、美食家でもあった。妻は花魁級の美女、しかも二番目の妻のうめは蕪村の弟子でもあったというから、俳諧の腕にも覚えのある才女。

現代の最高の俳人や画人が誰なのかは、もっと未来の人々が決めることなので分からないが、私はなんとなく坂本龍一のそれに近いように思う。

彼は東京芸術大学卒だから、学歴には申し分ない。Y.M.Oが日本の音楽界に与えた影響は、呉春を中心とした四条派の隆盛にも似ている、と勝手に決める。彼の周囲を音楽のみならず映画や文学の英才秀才奇才達が取り巻き、時には彗星のように若手お笑い芸人が遊びに来る。

さて坂本氏は、占いはどうだろう。信じるのだろうか。

呉春の性格のある一面について、池田人物誌は次のような逸話を載せている。

・・ある時の事、通りすがりの大道の人相家の前に立ち寄つて、銘々の墨色によつて其の運命を占はした。

やがて呉春の番が來た。

彼も他の者がした様に太く一文字を引いた卜者は其紙を手に取つて、墨色をあらためながら熟々と立派な呉春の風采容貌に見入つて、不審に堪へない様な面持ちをして、頻りに小首を傾げた揚句が、

『どうもあなたに限つて合ひません』

といふ意外な返答であつた。

呉春は鷹揚に『なあに、合ふあはぬは此方の言ふ事だ、まあまあ言つて見なさい』といつたが、卜者どうして中々言はうとしない。

段々と皆から迫られるにつれて、それではと卜者もきまり悪るげに

『どうもこの墨色から見ると、あなたは家がないといふ事になります』といつてジッと呉春の顔を窺つた。

『いや全くその通りだ實際わしは今居候の身分なのだ』と無雜作にいつた呉春の答に、卜者今や我意を得たりと

『それでは一體あなたは何を御商賣にしてお出でになる方ですか』

呉春『繪かきだ』

卜者『何でも同じ様なものの、あなたの墨色から推せば取り分け御武家様ででもあれは、キツと後の世に名の殘る珍しい墨色の方であるに、惜しいことだ』といつたそうだ。

呉春はこの事を非常に喜んで、以後友人と大阪に行く時には何時でも『どうだ、また墨色を見せ様ではないか』といつてからかひ、呉春の自慢話の一つになって居たといふ。

占いを信じる武家の長男。

京都の武士であるから、江戸の武士ほど固くはないのかも知れない。

そうだとしても、ちっとも武士らしくない。少なくとも、私たちが抱く「武士」というものからは、ほど遠い。

2001年末から2002年にかけての時代もののドラマでは、「生きる」という台詞が頻発されていた。

こんな時代。よく聞かれる言葉だ。どうして流行語大賞にノミネートされなかったんだろう。

こんな時代だから、命の大切さを教えていかなければならないから、討ち入りした田舎武士や戦国時代の棟梁の倅も、平和を願い人の命を尊ぶ、という設定にしなければならないのかも知れない。

武士がどんなものであるのか、どんなものでなければならないのか。私たちはもう、想像することさえできない。侍魂はコンピューターの中に閉じこめられ、戦いはスポーツの試合のようにテレビ中継される。

それはすでに、江戸時代に始まっていたことかも知れない。三百年近く戦争のなかった国の武士は、もう武士ではあり得なくなる。

勝つことも負けることも知らない武士は、どこで戦うのだろう。

全ての武士が、呉春のように器用に立ち回れるわけではない。蕪村に学ぶうちには俳画を、応挙に学び始めれば写生画を、見事なまでに描き分けた彼のように、全てのかつての武士が、全てのサラリーマンが、時代の流れに乗れるわけではない。

時代は、その流れに乗るものではなく、自らが作り上げるものだよ。

そう。戦いたいなら、自分で土俵を作ればいい。リングでもいい。自分でパンフレットを作って宣伝活動をすればいい。自分で作り上げた戦いは、全て自分の血となり肉となる。死にかけるほど血を流し、引退してから高校を出て、大学にも通って、そこから参議院選に打って出るという手もある。

そう。やってできないことはない。

けれども、誰もがそれをできるわけではない。武士になれるわけではない。

もう誰も、武士として生まれることはできない。武士に、ならなければならない。自分の力で武士足り得なくてはならない。何もないまっさらな最初から、武士としての自分を構築しなければならない。それが、民主主義だから。

その意味では、江戸時代より現代の方が、はるかに厳しい時代では、ある。

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