オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
272.「嘆息」  G.カスタニョーリ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ、ベース、(ハープ)、ティンパニ
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ

解 説  フィレンツェに近いプラート生まれの作曲家。オペラ作品には、A.L.の台本による"Kousouma"1899)、Guido Pasquettiの台本による"Fiore di loto「蓮の花」"(1906)、スケッチ"Gli italiani a Tripoli「トリポリのイタリア人」"191212月ボローニャで初演)、Giovanni Ruffiniの著書からValentino Soldaniの台本による三幕の" Il dottor Antonio「アントニオ博士」"19182月PratoMetastasio劇場で初演)がある。他にも、オーケストラ曲や声楽曲がある。マンドリン曲には"Suspirium"(嘆息)"のほか、"Jacovella""Notte di Luna, serenata"が知られている。

 193991日ドイツのポーランド侵攻にはじまる第二次世界大戦の最中、イタリアのシエナで19401941年にわたりマンドリンオーケストラのためのオリジナル作品作曲コンクールが行われた。1922年以来独裁政治を続けてきたムッソリーニ率いるファシスト党の最強となった頃で、主催もファシストの一国家機関ONDの名のもとにおこなわれた。二回とも大きな成果をあげ、多くの優れた作品が入選したが、枢軸国側の敗戦によってイタリアの斯楽界も大打撃を受けて戦後復興することができず、コンクール入賞曲も出販演奏されることなく眠ったままになっていた。

1974年春、音楽修業のため渡伊した岡村光玉氏は、これらの名曲を保持するシエナのアルベルト・ボッチ氏の譜庫でこれらの入選曲を発見、懇願してこれらのコピーを譲り受けることが出来、わが国マンドリン界にもたらしたのである。"Suspirium"は、1940年のコンクールに次点入賞した作品。コンクール応募曲には、作曲の動機や副題のようなモットー(Motto)といわれるものが記されているが、応募時のスコアに書かれている文字が不鮮明で判読できない。

273.「ヤコベッラ」牧歌的感傷   G.カスタニョーリ作曲

原編成  第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ、ベース、(ハープ)
スコア
原編成と同じ
パート譜
原編成と同じ
解 説
 フィレンツェに近いプラート生まれの作曲家。オペラ作品には、A.L.の台本による"Kousouma"1899)、Guido Pasquettiの台本による"Fiore di loto「蓮の花」"(1906)、スケッチ"Gli italiani a Tripoli「トリポリのイタリア人」"191212月ボローニャで初演)、Giovanni Ruffiniの著書からValentino Soldaniの台本による三幕の" Il dottor Antonio「アントニオ博士」"19182月PratoMetastasio劇場で初演)がある。他にも、オーケストラ曲や声楽曲がある。マンドリン曲には"Suspirium"(嘆息)"のほか、"Jacovella""Notte di Luna, serenata"が知られている。

フィレンツェに近いプラート生まれの作曲家。オペラ作品には、A.L.の台本による"Kousouma"1899)、Guido Pasquettiの台本による"Fiore di loto「蓮の花」"(1906)、スケッチ"Gli italiani a Tripoli「トリポリのイタリア人」"191212月ボローニャで初演)、Giovanni Ruffiniの著書からValentino Soldaniの台本による三幕の" Il dottor Antonio「アントニオ博士」"19182月PratoMetastasio劇場で初演)がある。他にも、オーケストラ曲や声楽曲がある。

 マンドリン曲には"Jacovella"のほか、"Notte di Luna, serenata"1940年シエナでおこなわれた作曲コンクールに入賞した"Suspirium"(嘆息)が知られている。

Jacovella15世紀に生きた早世の若い女性リュート奏者で、平和教会の背後にある美しい小さな家に住んでいたと言われている(Domenico Gnoli)。曲は、第一マンドリン、マンドロンチェロ、ギターの長いソロにはじまり、合奏に入ると6回のフェルマータの度に、短い沈黙を指示している。下に紹介する詩に続く一節「あなたの早すぎる死は、荒涼とした静寂の周りに散らばっている」に寄せたのだろうか。

各パートの声部が分割され、ハープを用いている(ハープが無い場合のギター譜も指示されている)。 

楽譜は手書スコアを印刷し自家出版されたようで、表紙には、1905年に出版されたG.オルシーニの名によるJacovellaの次のような詩の一節が紹介されている。

              ch'eri bella e infelice                         あなたは美しくて不幸だった

             che rapida fu la tua vita!      あなたの人生は速かった

              che solevi dolcemente                       あなたが甘く優しく

              cantaz su la viola                 ビオラで歌い

             da intenerir la gente                          人々は優しくなる

      (G. Orsini - jacovella)

フィレンツェのカルロ・ムニエルマンドリン合奏団指揮者 Julio Pratesi に献呈されている。

274.「チュニジアのイタリア人」  カルロ オテッロ・ラッタ作曲 
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ(A/B)、マンドロンチェロ、ギター、ベース
スコア 原編成と同じ
パート譜
原編成と同じ
解 説 193991日ドイツのポーランド侵攻にはじまる第二次世界大戦の最中、イタリアのシエナで19401941年にわたりマンドリンオーケストラのためのオリジナル作品作曲コンクールが行われた。当時は1922年以来独裁政治を続けてきたムッソリーニ率いるファシスト党の最強となった頃で、主催もファシストの一国家機関ONDの名のもとにおこなわれた。二回とも大きな成果をあげ、多くの優れた作品が入選したが、枢軸国側の敗戦によってイタリアの斯楽界も大打撃を受けて戦後復興することができず、コンクール入賞曲も出販演奏されることなく眠ったままになっていた。

 1974年春、音楽修業のため渡伊した岡村光玉氏は、これらの名曲を保持するシエナのアルベルト・ボッチ氏の譜庫でこれらの入選曲を発見、懇願してこれらのコピーを譲り受けることが出来、わが国マンドリン界にもたらしたのである。

 作曲者カルロ・オテッロ ラッタについて、石村隆行氏がイタリア留学時に調査したところによると、1888924日にフェルラーラに生まれ、19451030日同地に逝いた作曲家でピアニスト。作品には19351020日にコモ劇場で初演された一幕のオペラ"Marfisa"、二幕のオペレッタ"A Mosca Ciesa"等がある。

 「チュニジアのイタリア人」は1940年の第一回コンクールに二等(一等なし)を受賞した作品で、この作者は第二回コンクールにも「英雄葬送曲」が二等に入賞している。

 チュニジアは地中海を挟んでイタリアのシシリー島に近く、さらにシシリー島の南に位置するランペドウーザ島は古くから移民や難民の中継地でもあった。

 古代ローマ帝国の時代、フェニキア人のカルタゴ帝国と地中海の覇権を争い、近代にはフランスとその権益を競うなど、イタリアとチュニジアの関係は深かった。この第一回作曲コンクールの頃は、枢軸国としてイタリアがチュニジアに出兵し、エジプトやリビアで連合国軍と戦いの最中にあったが、この時期、砂漠の戦いはまだ長閑な一面もあったのだろうか。

275.「海の印象」交響詩  A.モンタナーリ作曲

原編成 クァルティーノ、第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース、ティンパニ、トライアングル
スコア  原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解 説 
1940年、シエナで行われたマンドリン作曲コンクールに三位入賞した作品。この時、第一位は該当者なしで、第二位はオテッロ・ラッタの「チュニジアのイタリア人」であった。

Carlo Schmidlの"Dizionario Universale dei Musicisti"(『音楽家辞典』、1937年刊)によると、作者アルベルト・モンタナリは1878年12月24日、トスカーナ州リボルノに生まれ、フィレンツェの第一音楽学校でチレア、グラッツィーニ、ランディーニに師事し、ピアノ、オルガン、対位法、フーガのディプロマを取得した。室内楽曲で様々なコンクールに入賞し、ピアノと声楽のための作品を多く書いた。また、1908年から9年にかけては、オペラの演出も行っていたが、後にフィレンツェに移りピアノと和声を教えている。モンタナーリは上記の作品の他に、ボローニャのDuse劇場で上演され(1912年)イタリア国内外の多くの劇場で再演されたオペレッタ「Il Birichino di Parigi(パリの悪戯っ子)」(台本:カルロ・ヴィゾット)、フランチが台本を書いた「Le ragazze di magazzino(倉庫の女の子)」(1918年11月、ローマ、Elieo劇場)、パオリエールの台本による「Il marito in campagna(田舎の夫)」(1918年11月、ローマ、Elieo劇場)などのオペレッタがある。

1939年ドイツのポーランド侵攻から始まったヨーロッパの戦禍のなかにあって、1940年、1941年に2回のマンドリン作曲コンクールがシエナでおこなわれた。岡村光玉さんがイタリア留学中、懇意にしていたシエナのマンドリン指導者アルベルト・ボッチ氏の譜庫から、この2回のコンクール入賞曲の楽譜群を見い出し、ボッチ氏に懇願して楽譜を複写、1975年、日本の斯界にもたらした。

当時日本のマンドリン界では、第二次世界大戦中、実際にこのような大規模なコンクールがあったことを全く知らなかったし、その作品も知られていなかった。日本マンドリン連盟会長でマンドリン研究誌「フレット」を発行していた伊東尚生氏は、その内容の豊かさに驚き、同年のフレット誌第74号、日本マンドリン連盟機関紙第14号に、岡村さんがこれら楽譜群を見い出し、ボッチ氏の了承のもと複写して日本のマンドリン指導者に頒布することを紹介したのであった。岡村さんは全国のマンドリン指導者や合奏団に案内を送ったが、果たしてどれ程の方がそれに応じたのか、岡村さんは2017年10月8日に亡くなるまで黙して語らなかったが、現在の斯界の状況から察してその数はごく僅かだったと思われる。

 原譜スコアの曲名の上に”Un angoscioso pensiero tormenta la madre”(母親の苦悩)と記載され、コンクールに応募の際に記されたモットーとして“La melodia non muore”(メロディは死せず)と記されている。

276.「降誕祭序曲」    Th.リッター作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギターベース
パート譜 原編成と同じ
スコア 
第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
解 説 
作者は1883年1月ドルトムンドニ生まれ、1950年1月に逝いたドイツマンドリン界の重鎮。第一次大戦後、ドイツマンドリン・ギター勃興期の開拓者として、コルマネック、ヘンツェ父子、シュッペとともに名声を分かち合った。

 早くからマンドリン・ギターと音楽理論を学び、作曲家・指揮者として活躍。1930年頃ドルトムンドのマンドリーネン・コンチェルト・ゲデルシャフト(Ma・Ko・Ge)の指揮者として斯界を牽引した。

マンドリン系楽器の教則本をはじめ、多くのマンドリン合奏曲を作曲。作品は非常に明快で親しみやすく、昭和初期、我が国でも愛奏されていた。

代表作には「田舎の結婚」組曲、「お伽の国」組曲、「夕に寄せる楽の音」4楽章セレナータ、「憧れ」、「ボレロ幻想曲」等がある。

「降誕祭序曲」はフランクフルトのホフマイスター社から出版された。讃美歌「きよしこの夜」を配しクリスマスの歓びを壮大にうたっている。

この曲にスコアは発売されていない。指揮者用としてギター譜が2段書きされ、上段にガイドとしてメロディ等が記されている。

277.「チャルダス」  V.チェルライ作曲  

原編成 クァルティーノ、第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ、ベース、ハープ、ティンパニ、打楽器
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ

解 説 チェルライの作品は1925年1926年にかけてマンドリニズモ誌から出版された”Mazurka”、”Valzer Brillante”、”Serenata”、”Ouverture”、“Quasi Munuetto”など数曲しか知られていなかったが、第二次世界大戦中1940,1941年にシエナで開かれた二度のマンドリン作曲コンクール入賞曲を岡村光玉氏がわが国マンドリン界にもたらしたことから、チェルライが注目されはじめた。その後、中野二郎氏指導のSMDが1979年に「シエナ組曲」を初演したが、作者チェルライの経歴などは不明であった。

 1986年に渡伊し、パドヴァ(Padova)のCesare Pollini音楽院に留学していた石村隆行氏は、イタリア各地に赴きマンドリン曲の発掘、マンドリン史実の探索につとめて多大の成果を我が国マンドリン界にもたらしたが、チェルライの経歴も調査、その作品を我が国にもたらされたのである。

それによると、 チェルライは1884年8月31日、トスカーナ州テルリッチォ-ラに生まれ、長年ボローニアに定住、作曲家、吹奏楽指揮者として活躍。戦時中は空襲により度々シエナに疎開、戦後同地に移住し、1948年1月2日フィレンツェで亡くなったとのことである。作品には、管弦楽曲「古典組曲」「ボッカチオ風組曲」「抒情的間奏曲」「神秘的間奏曲」、オペレッタ「ヤンキー」等がある。

 「チャルダス」は1940年、シエナで開かれた作曲コンクールに4等入選したもので、この時の第二等入賞(一等はなし)は、カルロ・オテツロ・ラッタの「チュニジアのイタリア人」であった。

岡村光玉氏がイタリア留学中、旧知のシエナ在住マンドリン指導者アルベルト・ボッチ氏の書庫を見てシエナで行われたコンクール入賞曲の存在を知り、同氏に懇請し、1940年・1941年のシエナでの作曲コンクール入賞曲のほとんどを譲り受け、我が国にもたらしたものである。

  この曲のコンクール応募時のモットー(仮の題名)は、”Sulle ali della speranza”(「希望の翼の上で」)と題されている。空襲と疎開に明け暮れた戦時中の状況から、平和を希求したものなのかもしれない。

519-522  「無伴奏 マンドリン独奏のための
独創的幻想曲集曲」Ⅰ~Ⅳ    C.ベルトッチ作曲

解 説 コスタンティーノ・ベルトゥッチは1841年3月12日ローマで生まれ、1931年4月30日にローマで亡くなった著名なマンドリン奏者で作曲家。庭園師である彼の父はマンドリンと現代リュートの熟練した奏者で、息子が5歳のときから教え始め、3年後には公の場で、父子でマンドリン二重奏を演奏していた。12歳のとき、コスタンティーノはマンドリンソリストとしてデビューした。この時期、ベルトゥッチはFinestauri(ファインスタウリ)から理論的および実践的なより高度な指導を受けていた(ファインスタウリは教皇教会の楽長であるCesare Galantiから芸術を学んだ)。

ベルトゥッチはギターも学び、1860年からイタリアと外国で数多くのコンサートに出演。弟子のLa Marquise Gavaggi(ラ・マーキス・ガヴァッギ) といくつかの王室の好意を受け、王宮での演奏を推挙された。

ベルトゥッチはマンドリンオーケストラを組織し、1878年にパリのトロガデロ開かれた万国博覧会で演奏した。これは非常に成功し、フランスでのマンドリン流行の始まりとなった。この時、ベルトゥッチと彼のマンドリンオーケストラ演奏は、トロガデロからヴェルサイユに中継されたが、器楽の電話での転送は最初のものだったという。

帰国後間もなく、マルゲリータ王女から、モンツァの宮廷に彼のオーケストラが招かれ、1885年にはトマソ王子の結婚式の際に王立庭園で彼のマンドリンオーケストラを指揮した。

彼は3冊の「マンドリン教則本」を編み(1885年にミラノのリコルディから出版)、当時まだ娯楽的要素を主にする傾向のなかで、彼の教則本は、合理的・実際的な技術向上に資する進歩的なものであった。

そして特筆すべきは、彼がマンドリンの無伴奏独奏曲を創始(*)したことである

Op.19「椿姫幻想曲」、Op.20「トロヴァトーレ幻想曲」は 1886年にイタリアで出版されたが、その作曲スタイルは、それまで誰も試みなかったもので、マンドリン界の革新だった。

マルゲリータ公女(後の女王)に捧げられた「マンドリンのための18の練習曲」を出版(1902年リコルディ)。24の無伴奏曲を四つのアルバムに分けてリコルディとフォルリヴェジから出版。その他、ピアノ伴奏マンドリン曲、ギター独奏曲などを多数作曲。
*このことはジュゼッペ・ペッティーネの研究論文「マンドリンデュオの起源、発達及現状」でも論証されている。
「マンドリンとギター」第4年(1920)11月~第5年3月号)に掲載

第一アルバム 

          1. Marcia funebre di Pulcinella  (道化師の葬送行進曲)

2. Preghiera nell’inferno     (地獄の祈り)

3. Nella Foresta,Melodia     (森で)

4 .Falso Amore,romanza    (偽りの愛)

5. Misteri della Vita,elegia   (生命の神秘)

6. Danza del Diavolo,tarantella (悪魔の踊り) 
第二二アルバム  
         1. Romanza                   (ロマンツァ)
       2 .Minuetto                   (ミヌエット)
       3. La Bergere           (羊飼い)
       4. Danza caratteristica(Forlivesi版)(特徴的舞曲)
       5. Souvenir de Maschar     ( Mascarのお土産)
       6. Tutti in Festa         (すべてを祝って)

第三アルバム

1. Al Chiarore di Luna,serenata (月明りの下で)      
      2. Notturno   (夜曲)

3. Vorrei Amarti!,romanza     (君を愛す)

4. Vita Spensierata,bolero    (のんきな生活)

5. Mesto pensiero,melodia    (悲しき思い)

6. Barcarola              (舟歌)

第四アルバム

1. Arlecchino nella Bara,marcia (棺の中の道化役者)

2. L'Abbandono,melodia      (絶望)

3. A Mezzanotte,seremata     (真夜中に)

4. Danza caratteristica(Ricordi版) (特徴的舞曲)

5. Ballata             (バラード)
      6. Al Mare! Al Mare!,barcarola  (海へ! 海へ!)