11月2日金曜日。晴れ。
  午後、大阪の天王寺駅。JR大阪環状線外回りに乗り込むわたしの姿がありました。目的
地は弁天町駅。そうです、交通科学博物館がそこにあるのです。

←駅名が見えない(笑)  

  この博物館は駅の真下にあるので、大変に便利な立地条件です。館内には古い機関車
や、その他鉄道に限らず、多くの交通関係の資料が展示され、又、その動力原理なども学ぶ
ことができるよう工夫されています。


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  早速、学芸員さんに相談します。

  「この型なんですけど」
  「う〜ん、これは山陰線ですねえ」
  「はいそうです」
  「山陰線はねえ、資料があんまり残っていないですよ」
  「えっ、そうなんですか」
  「うん。山陽線や東海道線ならよく資料が残されているんだけどねえ」
  「はあ」
  「わかるかなあ。ま、とにかく...」

  と、鍵を取り出して図書室へ。土日は解放されてるようですが、平日は勉強目的だけに使
用が許可されてるようでした。
  一緒に中に入りますと、学芸員さんは奥でなにやらゴソゴソと。ほどなくひとかかえの書籍を
テーブルに出してくださり、「ここらへんかなあ」と。
  と、そこへもう一人の学芸員さんが来て、ルーペで絵はがきを丹念に見始めると、「う〜ん、
車輪のバランスからC型かなあ。タンク型だねえ。それと、煙突の位置がかなり前にあるねえ」
 「でも1B1ってことはないでしょうか。この頃のは大きいですから」と、わたし。 「うん、でもこ
れはやはり3つのようだねえ、それにBにすると、どう考えてもバランスがねえ」 「なるほど」
  実は、わたしなりにひとつの候補を絞っていたのでした。それは1800型。梅小路でも候補
に挙がりました。名機と言われ、輸入台数も多い機関車です。C型でシルエットも似ている…。
少し、自信が深まります。
  学芸員さんは、いろいろとヒントをくださり、適当なページを開いて部屋を出て行かれまし
た。とても親切でした。ありがとうございました。

  程なく、わたしは山陰線の歴史記録の中で、重要な記述を発見したのでした。

  『明治45年3月当時(山陰西線開通当時)の所有機関車。』
  これこそわたしの探し求めていた記録でした。

  そこに記録されていた機関車は、230型、500型、1850型、2120型。この4形式です。
このうち230と500はB型です。よって除外。2120は背中のコブが2コ。これも除外。残るは
1850型です。これは1800型の流れを汲む輸入機関車です。ところがこれは煙突の位置が
やや後ろ。「ありゃりゃ」と、一瞬思ったのですが、この1850型の記録を読み進めると、時期
によって改造を加えられたタイプがあるとのことです。
  そして!
  その中の第4タイプに分類されるものが、1800型と同じ形なのです。
  「見つけた!」
  もちろん、大正に入ってから導入された機関車もあります。しかし、それらはいずれもテン
ダー型なのです。タンク型はありません。ここで断定しましょう。この余部鉄橋を走る機関車は
「1850型」であると。
「1850型」
  明治18年(1885)より35両の輸入機関車。
  イギリス製。

  これがわたしなりに出した調査結果の答えでした。
  う〜ん、やりゃあ、なんとかなるもんだ♪

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  ところでここ、交通科学博物館には、なんと1800型が展示されているのです。1850型そ
のものではありませんが同型機です。

  
  屋内展示のため見づらいのですが、こういう機関車が走っていたんですね。

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  せっかくですから、当時の山陰線の様子と、余部鉄橋についても調べてみました。
 
  その歴史は、明治32年に京都鉄道(民営)によって京都−園部間が開通したことに始まります。京都鉄道は二条駅に本社を置きました。これが梅小路蒸気機関車館で保存されている駅舎そのものです。  

  しかし、程なく国によって買収(京都鉄道が鉄道運営にお手上げしたらしいです)。以後、国
によって工事が進められ、園部−福知山間の舞鶴線。福知山−香住間の山陰東線。そして明
治45年開通の、香住−出雲市間の山陰西線と建設が進み、ここに一応の完成を見たのでし
た。

  ちなみに明治45年6月の時刻表によれば、京都駅を7:47に出発した列車が出雲市に到
着するのは20:34。実に13時間弱が必要でした。今でしたら、寝台特急「出雲」で7時間で
す。進歩しました。


  余部鉄橋については、次のような記述がありました。

  「余部橋梁は高さ41.5メートルにおよび、築堤とすれば橋梁の2倍の経費を要するので、
橋脚11基の鉄製トレッスルを採用した。頂部は2.1×9.1メートル。基礎上の高さはbQ〜1
0で、33.7メートルにおよび、間隔は18.3メートルとした。最初、12.2メートル間隔とし、米
国の技師ウルフエルに指導を仰いだ結果、18.3メートルに変更して、米国橋梁会社ペンコイ
ド工場には(橋脚を)発注した。」

  その他抜粋しますと、

  明治42年(1909)12月着工、44年(1911)12月完成。足場として丸太2万本を組み、2
人の死者と83人の負傷者が発生したそうです。又、工事に従事した労働者の中には韓国人
労働者も多く、丁度、日韓併合が行われた時期でもあり、いろいろとむつかしい問題も生じた
ようです。

  不幸な歴史が絵はがきの背景にも存在していました。

  とまれ、堂々たる鉄橋が完成しました。
  高さ41.5メートル。橋桁の幅2.1メートル。
  最初は機関手も怖がって通りたがらなかったというのも、うなずける話です。

  参考図書
   「新日本鉄道史(下)」川上幸義著 鉄道図書刊行会 昭和43年刊。
   「形式別 国鉄の蒸気機関車」機関車史研究会 昭和60年刊。
   「交通博物館所蔵 明治の機関車コレクション」交通博物館 昭和43年刊。
   「100年の国鉄車両(愛蔵本)」日本国有鉄道 昭和49年刊。

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 準備は整いました。いよいよ現地へ出発です。