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JR海南駅,駅前商店街、黒江川端通りの町並で 3月3日まで ひな祭りが行われていました。 |
我が家の主屋、座敷、蔵2件計4件は
文化財保護法第56条の2第1項により 文化財登録原簿に登録されています。
私の家の ルーツは ここ海南市の大野村にある 春日大明神を 奈良の春日の地より勧進した、大野十番頭の一員と伝えられています。 大野十番頭とは、海南市大野に鎮座する「春日神社」の由来によれば 731年聖武天皇御宇天平3辛未勅定に依り10ケ国より10人の者し選出し 春日神社を南都大和春日の地より当国大野の地に勧請この時供奉人としてまかり越し、 以後神職仕り候。とあります。古い文書によると、 大野郷(おのごう)尾ア氏(おさきし)の始祖に付いて小野氏信覚(のぶかく)末流にて、 天慶時代改(あらため)尾ア(おさき)国久小野郷令領智仕(領地つかまつらしめて)。 乱世の節は武勇これ有り、紀州名草郡三上庄十ケ村十人の番頭職にて仰せ聞き御座候、となっています。 尾崎家は、中世大野郷では他の九家と共に神職として、春日神社の管理の他に十番頭として庄内惣村管理(現地支配)を行っていたが、(海南市史、和歌山県史)、 これら大野十番頭は輪番制で 春日神社の神職を勤め、同時に 宮座を形成して三上庄十ケ村を治め 中臈沙汰人(名主)54家の内から,毎年四家が輪番で当番として出て此を補佐し、これは中世から、近世末まで、行はれていた様です、 その形態は、養子を認めず、惣領一人のみその株の相続が認められると云う制度を長年守って来た為、その血脈の者が段々少なくなり、支配への影響と、宮座の衰微が問題となり、近世初期、寛永13年(1636)には血脈が絶えた家に付いては養子相続を認める旨の申し合わせがなされ、定書が作成されています、その後、 享保2年(1717)にも同様の定書が中臈沙汰人29人の連盟でなされた古文書もあります。文亀3年6月座配の事として、厳しく古来のしきたり通り、席の座る順序を決め此を堅く守る為文書化したもので、その内容は、欠席の時はその席は、空席とするとまで、取り決めています。下記は十番頭座配の取決め書 |
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やがて室町中期以降、地士として武士かしてゆく。 元亨2年(1323年)南北朝の頃、後醍醐天皇の第一皇子、大塔宮護良親王(おうとうのみや、もりながしんのう) 熊野落ちの節、十番頭が御味方した事により、十家はそれぞれ受領国名を与えられ、 尾ア家は尾張守の号を受領し 御自筆の御書、旗指物、黄門定家郷(こうもん、さだいえきょう) 色紙、打物(刀)を頂戴し代々家に相伝え、且つ 家の紋所として「左巴」の紋を下置(くだしおき)、とあり。 その後、代々尾張守を名乗る事となります。しかし、南朝がその後天下を取る事が出来なかったので、領地を授かる事無く、只 名前だけになってしまったとの事です。しかし中世末迄、尾崎尾張守を名乗る事になりました。 大野十番頭も南朝方から、領主守護は宮方から、次第に武家方が台頭して、細川氏(1364)、山名氏(1384)、大内氏(1390)、と比較的短い期間で交代し、秀吉の紀州攻めの天正13年(1585)の頃までは長く、畠山氏(1394)が守護となって続いています。(和歌山県立文書館) 中世後期から末期に掛けては、武家として畠山氏や湯浅氏の被官となり様々な戦いに参戦し、武功を上げている様子も複数の文書から伺えます。たとえば、室町時代、江州六角高瀬との戦いや、永禄5年の久米田の合戦では、その働きが立派であった様子が書かれた文書も数通あり、織田信長の3男、信孝の上洛を促す書状もあります。又 天正5年の井松原の合戦では、織田信長方で参戦しています。 |
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門長屋 江戸時代は 和歌山城へ勤めの 馬小屋だったとの事 軒下に 高さ二尺程度の高さの石が 数本立って有り、 馬の手綱を結えたと 聞いています。 車社会になり道幅が狭いので昭和35年頃取り除いて、 現在は有りません。 |
この門は 何か行事でないと めったに開けた事がないので、 近所の方々は 昔から この門を しめた門と呼び 、 物事が 思い通りに運んだ時 「しめた」を 掛けて 「尾アの門」 と 言われています。 以前左側に [くぐり門]がありましたが、 車の出入りが 出来ないので 取り外された。 |
角川書店、姓氏家系大辞典によれば、紀伊の尾ア氏は名草郡の名族にして、尾ア尾張守として神田浦に住し、大野荘十番頭の一也。 紀伊続風土記によれば(きいしょくふうどきと読みます、初代藩主徳川頼宣公が紀州に入国後国内を調査して書かれた書物)、名草郡五箇荘、黒江村旧家六十人地士の一人、其の祖は大野荘十番頭の内尾ア尾張守と云ふ、元弘の頃、大塔の宮熊野御参詣の時靡下に属し、先例に任せて尾張守に補せらるといふ。文亀3年、長享3年、文明5年、天文8年、十番頭連判の文書蔵む。その後尾ア弥助と申すもの湯川春定に属し、 白樫左衛門佐と戦い功あり。 |
当時の文書として、秀吉からの禁制、及び、お酒や鮒すしを贈った礼状、 秀吉より滋賀県蒲生郡日懸村での150石の領地を授かった「安堵状」、等あります。 |
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私の家に伝わる、 太閤秀吉よりl拝領の禁制 読み下し。 軍勢をもって甲乙人等が乱暴狼藉や、放火等、したり、 地下人百姓や非分の者に懸わり事をすれば、厳罰に処する。 天正18年8月 秀吉印 (現在の権利書の様なもの) |
太閤秀吉より拝領の領地安堵状 尾ア十郎左衛門、慶長4年秀吉より近江国蒲生郡日野懸村にて150石の 領地賜う |
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豊臣秀吉からの礼状 |
尾ア尾張の守 家系図抜粋。
(秀行 尾張守五代孫)
秀国 尾張守 応永年間
国久 尾張守 宝徳年間
宗次 尾張守 明応年間
重家 尾張守 秀家
尾ア七郎左衛門 天文年間
秀吉 尾ア甚之丞 永禄年間
大阪門跡方一味 名高日方の境 井松原合戦で 討死
元和5年(1619年)初代紀州藩主南龍院徳川頼宣公、紀州入国して、元和7年には今の和歌山県、三重県の一部だった、紀州藩領地の中から有力「地士」の者、61人を召し抱えられたとの事です。 これを紀州藩では後々、「60人者」と称されています。 尾崎家は紀州藩久野三郎左衛門組に入り、日の丸紺地指物、と馬持ち鉄砲役同心を5人付けられ、米60石(後50石)を下し置かれたとあります。召し抱えられた後、 南紀徳川史、や文書に依ると、 宮崎、大崎の番所勤めをしていたが、 寛永5年(1638年)島原の乱が起き、紀州徳川藩からも出兵の命が下り、一旦は出兵したが、姫路あたりまで行った時、大体収まった様だから、帰って来いと言った文書もあります。 承応3年(1650年)には、紀州藩は財政難等につき、御倹約のため、「60人者」は米一統召し上げとなってしまったそうです、しかし、その備え役柄はそのまま仰せ付けられた。 明歴元年(1655)有田川普請奉行となり、5年間勤めた後、 万治2年(1659)勢州大杉山の奉行に役替えとなったが、 万治3年の有田川大洪水で再度同普請奉行に仰せ付けられ、その後、8年間勤めて居ります。 寛文7年(1667)海士代官に役替え(納米百石に付口米2石宛下し置かれ)となり、 延宝2年(1674)迄8年間勤めています。 その後は特定の役職にはなかった様ですが。「60人者」地士としての勤めは幕末まで続き。 元禄5年(1692)高野山騒動の時は橋本へ詰めて、御用勤銀を2枚頂戴したとあります。 宝永2年(1705)4代紀州藩主頼職(よりもと)逝去時には国囲いのため山口往還へ33日間詰めの、御用を勤めています。 その他、代々藩主御継ぎ目(代替わり)の御目見え(おめみえ)にも参上しています。 (南紀徳川史) 昔は、交通手段として、歩くか、船に乗るかしかなかったので、歩くとすれば、和歌山から、紀南方面へ行くには、ここ、海南を通る事になり、和歌山を朝出発すれば、丁度ここら辺で、お昼頃になったのでしょう、歴代藩主が藤白や下津、有田方面に行かれる途中「休憩の為立ち寄るから」とか 明日天気なら其処もとへ立ち寄るから、「食事の用意をせよ」とか又「その道筋に差し障り無きよう」庄屋等へ申し聞かせよとか、又、八代将軍吉宗が紀州に居られた幼少の頃、其処もとへ行くからと言う古文書もあります 。 |
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四代紀州藩主頼職公、幼名長七様我が家にお越しの知らせ。 尾崎治左衛門殿 久世三衛門より 明日長七様藤代(地名)へならせられ其方所へ起こし懸け られ、お膳、召上られとの御事候、其為かくの如く候、 以上 五月一日 |
八代将軍徳川吉宗、幼名新之助様、我が家にお起しの知らせ。 尾崎治左衛門様 木村彦左衛門、田中清衛門より 新之助様明日天気次第其元へ成らせらるべくとの御事に候、 左様御心得なされ候、以上 八月二十九日 尚々其処もとの村中にはやり煩い、其外差し障り等之なき哉、 御報に御申し聞かせ成さるべき候。 以上 |
槍の間 |
鶴龜の庭園 |
池に掛かる石の橋 |
赤い鳥居は、正一位稲荷大明神で 商売の神様 毎年初午に幟を立てお祭りします |
400年昔から伝わって来た。 尾崎家一族の寺院、曹洞宗至聖山菩提寺 |
代々家に伝わる武具と古文書の一部
![]() ![]() 家伝の兜と鎧 |
![]() ![]() 家伝の兜と鎧 |
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外国船黒船が くるようになり 大崎の端を警固する、 黒船とオロシヤ人の当時 書かれたスケッチ |
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昔は家の裏迄船が入って来ました、 現在黒江郵便局より付近からの風景 左の松は我が家の庭の松 今はその様な面影は皆無です。 |
その後 明治に入り 廃藩置県となり 武士を廃業し。 地場産業の 漆器業を営む。 最初から 漆器問屋が 出来た訳でなく、始めは椀の製造をしたらしい、 笑い話に「◯◯の椀は 猫の餌入れにしか使えない 猫椀、尾崎の椀は、猫も顔を背ける猫食わず椀」と云われたらしい。 その後伊予問屋を経て 現在の 漆器問屋に変遷した様である。 伊予問屋とは、 宝暦明和の頃からと推察されるが 伊予には海賊出身者で船の操縦に長じた者が多く之等は性格も積極的で 瀬戸内海で盛んに活躍していた。 当時伊予方面から椀の荒木が入っていたが之を積んで来た船が漆器を積み 返り又九州から陶器を仕入れて瀬戸内海を行商した伊予舟がたまたま黒江へ寄港して、 漆器に着目之を仕入れて行商したところ、 御三家の紀州の産物で有ると好評を得たので引き続き取引を始めたと云われている。 その後 各地にそれらの伊予商人が定住し、紀州の漆器を仕入れに来られた時、色々と世話をして、例へば、旅館の役目もして、 帰国後も、製造家より商品が出てくれば、其の代金支払い、荷作り梱包出荷、等を請負い2%程の手数料を頂戴する仕事をさして言われた。 我が家はその様にして、漆器業を習得していったとの事です。 写真は 尾ア漆器店の 現在の漆器 陳列場 。 |
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