No13
 〜愛の旅人
シューベルトとテレーゼ・グロープ
    

〜朝日新聞 be on saturday
            2007年08月25日より〜

 シューベルトの話を書き込んだ次週、土曜版に
上記の記事が掲載され、また別のシューベルト像を
確認!こんな記事でした・・・。
 「悲しみという愛を歌う」という大きな見出し。
オーストリアのウイーン、宮廷礼拝堂で歌うウイーン少年合唱団。
シューベルトはこの合唱団の「先輩」、11歳で合格、16歳で退学。音楽家になることに反対の父の希望で師範学校に通い、17歳で教員に。この頃彼は恋をしていた。相手は美しいソプラノの幼馴染テレーゼ・グロープ、初恋のひとだった。

 「孤独と絶望 静かに肯定」
では、相思相愛だった幼なじみ同士の愛を何が阻んだのか。 「楽長などの職は別として、単なる作曲家は定職として認められなかった。テレーゼの親も、娘を嫁がせるわけにはいかなかったのでしょう」。娘にとって親の意思は絶対だった。

 しかも当時のオーストリアは厳格な警察・官僚国家で、教育や国家への忠誠心のない男女、家庭を守れる財産のない男女の結婚は許されなかった。

 シューベルトは父に従い教職に就いたが耐えきれず、3年後の1816年、家を出て作曲家として歩み始めた。音楽関係の職に就こうとしたが実らず、4年後、テレーゼはパン屋の親方ヨハン・ベルクマンに嫁いだ。

「何人もの女性を好きになり、何回も結婚しようと思った。しかし、娘の父親は、貧乏作曲家などだめだと言い、愛は終わった。私は悲しかった。しかし私は、音楽のためには戦う力を持っていても、自分のことのために戦う力は持っていなかった」

 シューベルトが敬愛したベートーベンの高弟カール・ツェルニーの残したこの文をビーバさんが教えてくれた。「このときのシューベルトもまた、そうだったのではないでしょうか?

孤独を愛しながら寂しがりやで人なつこい、典型的なウィーン人気質をもつシューベルトは、作曲以外のほとんどの時間を友の間で過ごした。しかし、音楽の世界に奥深く分け入るにつれ、孤独は深まり、25歳で当時は不治の病だった梅毒とみられる病気にかかると、絶望に襲われた。

 その中で、美しく、影に満ちた連作歌曲「美しい水車小屋の娘」「冬の旅」や交響曲「未完成」を、何かにつかれたように書いた。
腸チフスのため31歳で亡くなるまでに、優れた交響曲や室内楽曲、ピアノ曲などを残したが、約600曲に及ぶ芸術歌曲は他の追随を許さず、「歌曲王」と称される。映画「未完成交響楽」などでは貴族令嬢との悲恋が描かれたが、現在では根拠に乏しいとされているようだ。

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