雪の南アルプス転付峠
        











 まだ夜が明けやらぬ身延線波高島駅、冷気のなかでおのおの愛車を組上げ握り飯で腹ごしらえの後、いざ出発。
峠登山口でペダルを外しユラユラ揺れる吊り橋を渡り電源開発林道をトコトコ一時間ほど押し上げる。
 最初から急登の通称「胸つき八丁」と呼ばれるジグザグが始まる。途中、沢の崩壊で急斜面をよじ登る所業もあり、一時間強で真白に雪をかぶった稜線を望む八丁峠着。
一服ついた後、道は雪解けの水がトウトウと流れる沢に沿って進む。
案の定、北側の日陰の斜面には雪が残り踏み跡を慎重に進む。足跡を外せばブスリと雪の中、我々はなおも山中深く進みゆく。
空は薄雲こそかかっているが雨の心配はなさそう。汗ばんだ肌に渓谷に沿って吹き上げる風が心地よい。
冬の間なまった体はなかなか言うことを聞いてくれない。小休止を繰り返しつつ沢をとことんまで登り詰める頃には残雪は徐々に増え、ベタ雪のためキャラバンの中にジワジワと水がしみ込む。二俣沢から分かれ標高差五百mの最後のジグザグに挑む頃は完全な雪道となり前進を阻まれる。
 一歩一歩を進めるたび右肩の愛車がズシリズシリと肩に響く。
『峠までは頑張ろう!』と元気をつけ合いながらの行軍。
もはやキャラバンシューズの中は水でグショグショ。
転付峠を望む前稜線に出る頃は各人の疲労の色は隠せない。
 なんとしても峠を越え二軒小屋まではと歯をくいしばるが、大自然の障害の前には遅々として進まず時間のみが空しく過ぎ完全な雪中行軍となる。片足どころか腰まで雪の中に埋まり、もはや自転車は完全に邪魔物と化した。
疲労は極度に達し己の命には代えられず、なんとか峠まで辿り着き、峠に愛車を残し空身で二軒小屋まで下り、雪解けを待ち再度引き取りに来ようということまでなった。

 やがて踏み跡さえも無くなり道さえ定かでなく山の斜面をラッセルしている有様。
 時はすでに四時を廻り日没まで二時間、峠は目前に迫るが腰まで埋まっての一進一退の状態では、僅かの距離にどれほどの時を要するか見当もつかず、たとえ峠に辿り着いたとしても峠の西側は今以上に積雪があるし、小屋に辿り着く前に日没になれば“万一遭難”とサッ-と脳裏をよぎる。
  『引き返そう!』----
目前に迫る峠は悔しいが命あってのこと、二俣沢まで下れば炭焼き小屋があった。
『下ろう!』無念の涙をのみ我々の計画の甘かったことと、SACC 結成以来初めての不成功に歯を食いしばり残雪に悩まされて来た雪道を下る。
体が雪の中に潜り自転車のみが先行する。全員雪にまみれて無事無人の炭焼き小屋着『アァ、助かった!』
                              1975(S50).03

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青 春 の 轍

我が青春 Ⅲ

島本中学校同窓会

日本アルプスを自転車で!

白山 2,702M
吹田市に転居後、
白山へ この登山を最後に“恋人”に別れを!(-_-;)
                        1979(S54).08

 サイクリストに最大の魅力を与える“
”越えのサイクリングはツーリングの醍醐味を満喫させる。旅を愛するサイクリストにとって、峠は限りない魅力をかきたててくれる。
 一踏一踏 踏みしめるマシンの足ごたえ、または押し上げる足には未知に対する期待と一種の征服感が裏打ちされている。
 一つの峠を越えて向こう側に下る時、未知なもの、新鮮なものに対する期待に胸が弾む。

  
   『人生は旅であり旅は無限である峠というものがあって、そこに回顧があり
     低徊があり希望がありオアシスがあり中心があり要軸がある
     峠に立って人生の旅ははじめてその荒涼索慕から救はれる』  
                          大菩薩峠・介山荘
大山南麓  1,731m “体力の限界”愛車を輪行バックに入れて移動!
伯耆溝口駅
信仰の山 四国・石鎚山 1,981M

1977(S52).05

伯耆大山 .四国・石鎚山

  初冬の八ヶ岳縦走


権現岳 2,715M




権現岳下りは階段が付けられ
垂直であり緊張で足がすくむ。




赤岳キレットに挑む



左手だけを使ってよじ登る赤岳キレット



赤岳キレット
眼下には雲海が広がる


赤岳山頂 2,899m

 23時21分急行「かいじ6号」は八ヶ岳下ろしの北風が吹き抜ける小淵沢駅に僅かばかりの登山者を降ろし、静かに車庫へ消えてゆく。こうこうと照る寒月夜にこれよりアタックする八ヶ岳の雄姿が黒々と眼前に迫る。すでに駅舎待合室は登山者に占領されてしまっている。
 午前零時、最初からペダルを外して出発。
月明かりの中を三つの影は山麓を目指して落葉した樹林帯の中を行く。高度は徐々に増し甲信の街の灯りが眼下に見えだす。
 北風も加わり気温は増々下がり氷点下に達し空腹に疲労が重なり強度の睡魔が襲う。もはや強行軍は不可能と判断、仮眠すべき小屋を求めつつただひたすらに愛車を押し続ける。時計の針が午前2時半を回った頃 車道終点"観音平"に売店の小屋を発見。九死に一生を得 "救われた!" の感がした。すでに先客のパーティが仮眠中であったが快く場所を提供してくれた。輪行袋を下に敷き持参の衣類を全て着込み、シュラフに潜り込む。隙間風が吹き込み寒さに震えながら何度も目を覚ましトロトロと仮眠。
 暖かいコーヒーと握り飯で腹ごしらえの後、一路編笠山を目指し出発。4?5CMに達する霜柱を踏みしめ愛車を担ぎあげる。標高1,800M雲海展望台からの甲府盆地の彼方"富士"の姿が実に雄大である。
 勾配も増し足場も悪く樹木に自由を奪われ、苦しい登坂となる。3時間に達しようとする頃、パット視界が開ける。2,524m 編笠山山頂である。実に素晴らしい展望、富士山をはじめ南アルプス、中央アルプス、御岳、乗鞍岳と続き、目を転じればこれより挑む赤岳を主峰とする八ヶ岳連峰がそびえたつ。
 360度の展望を楽しんだ後、一路権現岳を目指して下山。------
何時しかルートは樹林帯からガレ場と変わり急勾配のクサリ場に挑戦。緊張に息は乱れて思わず全身に力が入る。
 権現岳 2,718mの頂上より第一の難関 "権現の下り" である。緊張で思わず足がすくむ、60余段に及ぶ階段に至っては、ただただ必死でハシゴにしがみ付き、その格好は他人から見れば全く滑稽の一語に尽きよう。

 下界をびっしり覆い尽くした見事なまでの雲海の彼方、奥秩父連峰より陽が昇る。 富士もまた赤く浮き上がる。
ボトルの水はカチカチに凍りつき、室内においたポリタンさえも凍る程の冷え込みようだ。
イザ大キレットに挑戦!”足場を一歩一歩着実に確かめつつ登る。すれ違う登山者は我々の形振りを見て口々に「とても自転車は不可能です!」とのたまう。どっこい不可能を可能とし、やってのけるのが"SACC"なのだ。
 登山者が両手両足を使って登るのを下から眺めつつ、我々は背中に大きなザックを背負い右肩に10キロのドテカイ自転車を担いで左手だけ使ってよじ登る困難さは想像頂けるであろう。
 あまりの緊張の連続に汗をかくのも忘れる始末、だが確実に高度を増す。やがて2時間に達しようとする頃最後のピークを超えると『アッ赤岳だ!』澄み切った秋空に浮き立ち目前にそびえる。 8時25分拍手とカメラに迎えられ我々は八ヶ岳連峰主峰 赤岳 2,899m に立った。
 360度の大パノラマを満喫し、多くの登山者に見送られ滑りやすい斜面を赤岳石室小屋へ下る。
 小屋の脇で成功を祝い、暖かいコーヒーで乾杯。一息入れた後、最後の難所 横岳 2,835mのクサリ場を乗り切れば後は硫黄岳まで広々としたなだらかな稜線が続く。愛車を転がして行ける唯一の行程であるが稜線に向かって吹き上げる肌を刺すよう寒風がそれを阻む。
だだっ広い硫黄岳 2,742m頂上の大きなケルンが異を放つ。時折鼻をつく硫黄の臭いをかぎ急斜面をかけ下り、夏沢峠 2,392m着。
 夏沢峠から北はうって変わり樹林帯の展望のきかない足場の悪いルートとなり、精神的に参るコースである。
東天狗岳で北八ヶ岳最後の展望を堪能の後、一路黒百合小屋を目指しての下山。キレットで体力を使い尽くしたのか足取りは重く、天狗の奥庭なる岩だらけの道は各人足首の痛みをこらえ、愛車が右肩にズシリと重くのしかかる。黒百合小屋に着いたのは日没も間近い四時半過ぎ、戸外の寒暖計は既に零度を指していた。暖かいコーヒーとたらふく胃袋に詰め込んだカレーライスが疲れて冷えた体を生き返らせてくれる。

 明けて三日目、残り麦草まで僅か。ラジオ体操で足取りも軽く出発。今日の行程は中山と高見岩以外は全く展望は望めない始末。途中全員そろって自転車を放り出し大自然の中に飛び込み脱糞。アーァ気分爽快。白駒池で最後の休憩。陽当たりのいいベンチでノンビリと池の水でラーメンをこしらえ残りの食糧を胃に詰め込む。ハイヒール、皮靴の男女も散策に訪れ文明の波が近い。
麦草峠から茅野駅まではいよいよ愛車の御厄介になる番である。ペダルを付けダウンヒル開始。


小淵沢~編笠山~権現岳~“キレット”~赤岳~横岳~硫黄岳~夏沢峠~黒百合ヒュッテ~
中山~白駒池 ~麦草峠~茅野


                               1974(S49).11

夏沢峠

白駒池より一般道へこれより
ペダルを付けてダウンヒル開始

我が青春Ⅱ

雲取山(2,017M)・  
十文字峠(2,030M)   




首都・東京都の最高峰
雲取山山頂2,017m




雲取山荘



雲取山からの下山道



三里観音



 深夜一時、一路奥多摩湖に向け出発。ダラダラ坂を30分程でダムの堤防が照明で不気味に浮き上がる奥多摩湖畔を左手に見ながらヘッドライトは青梅街道を進む、小一時間程で山梨県境鴨沢着。死んだように眠る部落を抜け数多く輝く星空を眺めながら愛車と進む。一点を凝視したままの暗闇の押しに突如として睡魔が襲う。
 四時前、東の空が白み始める。深い樹林帯を抜け尾根に出たとたん目の前に奥秩父連山の彼方、残雪を抱く富士が飛び込んできた。
快晴の空の下、やがて我々は誰一人会うことも無く六時半、東京都の最高峰“雲取山2,017m”に到着。 予想外に楽な征服にさほどの感激も無く記念撮影をして握り飯を喰らい込む。
 休息後、一路三峰神社目指して下山開始。一転して岩場の下りに極度の緊張の連続、雲取山荘の親爺の励ましを受け尾根沿いに登り降りを繰り返しながら下山。疲労は極度に達しただ黙々と歩を運ぶのみ。 徐々に増えた登山者の驚異の視線と激励にも返答が重くなる。-------
休憩の回数も増し眼下に奥秩父湖を見る前白岩山からの急坂には各人顔面ヒキツケを起こしそうな形相で足を運ぶ。
 三峰神社を目前にした霧藻ケ峰に立ち、ボトルの水が胃袋目掛けてグビグビと流れ込む。そして最後の孤軍奮闘の後、午後 2時我々は三峰神社に立ったのである。延々12 時間を要しての雲取山克服であった。

 明けて四時起床。昨日の満足感と疲労感が右肩にズシリと応える。午前四時半出発“いざ越えん十文字峠!”昔ながらの面影を残しうっそうと茂る杉木立の中をぬうようにして通る十文字峠越えは、かって秩父の金鉱山へ、信州から米・味噌を運ぶ輸送ルートとして戦国時代から用いられ、また火伏せ・厄除けの神として名高い三峰神社への参拝客が越えた十文字峠は栃本に関所が設けられた程であったが、今や九時間を要する健脚向きのハイキングコースとして利用されるに過ぎない。
 かって牛馬が通った程の峠道、担ぎも強要されず夜露を踏み分け蜘蛛の巣に悩まされつつグングン高度を増す。
 いつしか霧も晴れ初夏の日射しが雲間から漏れる。目を転ずれば雲海の上、昨日超えた雲取山を始め奥秩父の山々が連なる。 この十文字峠越えには明治時代の豪農が寄進した一里ごとに道のりを記した観音石仏が建ち、かって道標として旅人から大変愛されたのである。
 一里観音、二里観音も過ぎ尾根沿いに昇り降りが続く。初夏の日射しに汗が吹き出してくる。すれ違うひと一人とて無い峠越え、ノドの渇きを旧十文字小屋脇の冷たい清水で潤おし四里観音を過ぎればヤセ尾根の道となり峠は目前。
約7時間後"SACC"は奥秩父十文字峠2,030mに到着。原生林の中、サッパリ見通しのきかない所に埼玉国体のため新設された峠小屋がある。
 一服後、峠よりの下りは蛇行する急坂の八丁坂である。未だ溶けるのを忘れた雪渓も一歩間違えればそのまま転がり落ちそうな傾斜である。
かなり下り続け、尾根を外れ千曲川の本谷を渡れば林道である。広々とした牧場、美しい白樺林の中を走り梓山で三国スカイラインと合流。
千曲川に沿って大弛・馬越・信州のそれぞれの峠道を振り返り、かっての各峠越えの思い出を懐しみつつ信濃川上へと下って行った。


 青梅線・奥多摩~奥多摩湖~鴨沢~雲取山~栃本(泊)~十文字峠~小海線・信濃川上
                                  1974(S49.05)

峠よりの下りは転がり落ちそうな急坂

信濃川上駅