阪急・水無瀬駅

新幹線の工事と共に立体化 南側(国道側)にダイエー、商店街、ロータリーができバスの発着場。
楠公通りも商店が建ち並び島本で最も活気のある場所。

住民センター

小学校横にあった木造二階建て役場が桜井に移り「福祉・保健・文化」の活動拠点に

中学校裏門

水無瀬住宅側の通用門 今も同じ場所に二段の階段が設けられ出入りが出来る。正面は、体育館、住宅地は、以前に比べ戸数が少なくなり道路も狭く迷路の感がする。

すっかり変わった百山

東海道線の北側には、池と百山があった、今は、大手企業の研究所とグランド・テニスコート、団地が建ち並んでいる。

江川住宅

鉄筋の住宅に建て替えられ、淀川の河川敷は運動公園に整地され、休日は野球を始め各種スポーツ大会が開催されている。

体育時間の持久走コース

田畑道路の両際にマンション・商店が建ち並び道路が狭く感じる。 焼却炉・桜の木迄の往復持久走 辛かったです (;_;)


水無瀬川から山側の展望

両サイドは、道路が整備され町全体の眺望・雰囲気をつかむ場所に最適。相変わらず水量は少ない

岩谷の採石跡

毎年、冬の恒例行事 柳谷観音迄のマラソンの出発・ゴール点。採石場は緑に覆われていた。手前側には、第二幼稚園・小学校・中学校が建てられている。

グランド跡もマンションへ

日紡社宅上・グランドには高層マンションが建ち並び昔の面影は全く無くなってしまった。又、手前右側の池を埋立サントリー工場になっている。線路の下のトンネルは今も存在。

日紡社宅跡に
高層マンション


高層マンションが建ち並んだが交番は昔の場所に存在。郵便局・広場は駐車場になり、山崎で開発されたのは、この地域だけ。昔は、この広場でサーカス公演が行われた事もあった。

山崎三地区が消滅

踏切を渡ると山崎三(谷地区) そしてサントリーを過ぎ、水上隣保館・保育園へ 線路際までサントリー山崎工場が拡張され道の両際は、庭園風に手入れされ落ち着いた雰囲気。

水無瀬神宮外苑町営プール

昭和三十年に水無瀬神宮前に町営プールが建設され小学校・中学校の水泳の時間及び夏休みの楽しみの場所。現在も利用されている。

楠公公園の隣にJR島本駅

楠正成、正行父子の別れの場
駅が新設された為、多くの木々が伐採されこじんまりとした公園になった。
     (2008.03.15撮影)


JR島本駅オープン

楠公通り突き当りの公園内に『JR島本駅』オープン

        (2008.03.15撮影)



JR 山崎駅

昔のまま、変わったのは“国鉄”から“JR”へ 修学旅行は、ここから富士五湖・湘南・東京方面へ出発 。 山側の桜の木も伐採され住宅地になった。幼稚園の頃は、北側で馬が荷車を引っ張り道には糞が散らばっていた記憶があります。


島本町立歴史文化資料館
駅広場には、島本町立歴史文化資料館があり、西国街道を中心に後鳥羽天皇を祭る水無瀬神宮や史跡桜井駅跡など数々の文化財をパネルで紹介し縄文時代から近世にわたる遺跡の出土品を展示


 山崎駅から1〜2分歩いた曲がり角に小さな川がある。幅1Mもない澄んだ水が流れている。
その傍らに『これより東 山城国』の石碑が建っている。この小さな川が山城と摂津、つまり京都府と大阪府を分ける府境となったいる。
 西国街道は別名“山崎街道”とも呼ばれ、京都の東寺を起点に今の大山崎町、高槻市、茨木市、箕面市、伊丹市の宿場を通って西宮まで結ぶ64キロの街道だ。 又、京都府側には油の神様 離宮八幡宮が在り、ここで初めて荏ゴマを絞って油を製造したそうです。
 山崎駅の裏手には、標高270メートルの“天王山”があり 本能寺で織田信長を打った明智光秀と豊臣秀吉か天下分け目の戦いを繰り広げた所である。
 又、淀川対岸の男山〔京都府八幡市〕には発明王エジソンか電球のフィラメントの材料にこの辺りの竹を用いたのを記念した石碑がある。
 天王山と男山丘陵との間の狭隘部には琵琶湖から発するただ一つの河川 宇治川を本流とし、木津川、ついで桂川を合わせて“淀川”を作るのであるが、三川合流は温度差があり、川面から常に霧が発生する。
製作者個人の記事です

2002年9月22日撮影

現在の通学路風景

我が青春

その頃の島本史

ミニミニ同窓会
平成20年同窓会会場
平成14年同窓会会場

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