ЛИЦЕЙ

遠くからでも目立つ
勝利広場(建築はС.Б.スペランスキーとВ.А.カメンスキー)

 『罪と罰』の地について3ページも割いたので、もう半日分のことを書いているみたいだが、ここからが、一応ロシア旅行の現地での最終日である。
 最終日はペテルブルグから南に約25kmにあるプーシキン市に行った。プーシキン市のツァールスコエ・セロー(皇帝の村)には、名高いエカテリーナ宮殿があって、そこはシーズンであろうがなかろうが、観光客の行列が絶えない名所である。
 バスに乗り込む直前に、現地ガイドのサヴィーナさんに「リツェイ(ЛИЦЕЙ)」の前を通りますか?と訊ねた。彼女が、もちろん、と返事してくれたので、楽しみが一つ増えたわいと期待が膨らんだ。
 この日も朝から雨がぐずついていた。泣いても笑っても今日が最後ではあったが、もう後はツアーの皆さんに身を任すまま気楽に行こうと思った。

 バスはひたすらモスクワ大通りを南へ南へと走っていった。途中、追い越した隣のバスの中から可愛い子供たちが笑顔で手を振ってくれて、如何にも外国からの旅行者である我々の心を和ませてくれた。
 やがて進行方向左にモスクワ広場のレーニン像が、間もなくして上のような広場と巨大なオベリスクとそれを取り囲む彫刻や軍服を着た人々が見えた。第二次大戦のソ連の勝利を記念するというよりも、大戦のレニングラード攻防戦の英雄的シンボルという色合いが強い勝利広場(1975年完成)だった。勝利広場の彫刻は芸術広場のプーシキン像も手がけたМ.К.アニクーシンだそうである。この日は軍人の整列の仕方からして、何かの式典があったのだろうか。
 ツァールスコエ・セローに到着するその手前には、マリインスキー劇場の向かいにあるグリンカの像も手がけた彫刻:Р.Р.Бах,建築:А.Р.Бахによるプーシキンの像(1900)があった。いよいよリツェイと宮殿に近づいているんだなと感じた。

リツェイ(学習院)
 昨日のプーシキンの家博物館が詩人の最期の場所なら、このリツェイは詩人の少年期ゆかりの地である。日本で売っているプーシキン関係の本にある19世紀当時の版画や、旅行ガイドブックのリツェイの外観の写真を見ていたので、実物のリツェイが目の前に現われた途端、私は一気に興奮してしまった。ガイドのサヴィーナさんに「リツェイですね!」と改めて強く確認したほどである。

 プーシキンが少年の頃、つまり19世紀初頭のロシアでは、学問は名門貴族の仕事では決してなかった。貴族の子供は家庭教師から一応の教育を受けたのち、軍職あるいは行政職に就くのが常だった。だが時代の変化を感じつつあったアレクサンドル1世は、将来国務の主要な部署に就くはずの貴族子弟を教育する、一種のエリート教育機関をつくった。その教育機関がリツェイ(学習院)であり、それは皇帝一家の夏期離宮の一隅に設置された。リツェイの開校は1811年、プーシキン少年はその第一期生であった。
 プーシキン少年は詩では光彩を放ち、自尊心を傷つけない限りはとても快活で楽しい子供だったようだが、またエキセントリックで時に怒りっぽい人間だったようで、周囲から同情を買うことはできなかったらしい。リツェイでの成績は、ほとんどの教師から「不勉強」、「怠け者」、「軽薄」といったかんばしからぬ評価をもらっていた。それに学校生活のなかでも派手ないたずらや騒ぎを起こしたことも多く、よく灸を据えられたという。派手な事件の中には、自習室を抜け出して熱湯と砂糖と生卵とラム酒で、一種の卵酒をこしらえ、数人の生徒たちと一緒に飲み、その生徒の一人が酔っぱらって騒ぎ出したというものもある。
 ただ、リツェイ時代にプーシキンは己の生涯を決定付けたといっていい、輝かしい出来事も体験している。1815年1月、15歳のプーシキンは、生涯忘れられない栄光を得た。公開進級試験の席で、自作の詩『ツァルスコエ・セローの思い出』(1814)を朗読して、詩壇の長老格デルジャーヴィンから抱擁を求められたのである。この成功は、プーシキン少年が新時代の詩人としての道に大きな一歩を踏み出すのに大きく寄与したことだろう。プーシキンはこの日の成功がよほど嬉しかったとみえて、生涯に幾たびもそのことを思い出している。

 その昔、私が学習院(リツェイ)の庭で、心おきなく青春のときをたのしみ、キケロをよそにアプレイユスを愛読していたころ、また神秘的な谷間の静けさのなかに輝く池のほとりで白鳥の群れが鳴きかわすころ、詩の女神(ミューズ)が私のまえに姿をみせたのだ。と、寄宿舎の私の部屋は、急に明るく輝いて、詩の女神(ミューズ)はそこに若々しい宴(うたげ)を開き、子供らしいたのしみや、古代ロシアの栄光や、おののく心の夢を、歌いあげたのだった。
 世間も私の歌ごえを微笑をもって迎えてくれ、その最初の成功が私を鼓舞した。老デルジャーヴィンは私の才能を認め、臨終の床で私を祝福してくれた…………………………………
 そして、私はひとり情熱の気まぐれだけを自分の掟と考えて、多くの人々と胸の思いを分かちあいながら、真夜中の巡視の耳をそばだてる騒々しい酒宴や口論の席へ、そのいたずら好きな詩の女神(ミューズ)を誘ったのだ。すると詩の女神(ミューズ)は狂おしい酒宴の席へ、贈り物を携えてやってくると、バッカスの巫女のようにはしゃいで、客たちのために酒杯をかざして歌うのだった。過ぎし日の若者たちは詩の女神(ミューズ)のあとをがむしゃらに追いまわしたが、私もこれらの友だちのなかにあって、この軽薄な女友だちを誇りにしていたものである。

『エヴゲーニイ・オネーギン』第8章(木村浩訳)

リツェイだったことを示すプレート
プレートには「1811年から1843年まで、高等貴族学校リツェイの建物であった」とある。
 今のリツェイの建物は、プーシキン博物館となっていて、興味をそそられたのであるが、今回は遠慮せざるを得なかった。また、リツェイから北北東に1kmぐらいのところのプーシキンスカヤ通り2番地には、1831年、プーシキン夫妻が新婚ほやほやで仲睦まじかったころに住んだダーチャ(別荘)がある。ちなみにそこでプーシキンはゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』を激賞した。まもなく彼らは親しくなり、詩人は新人作家の才能を認め、彼を励まし、欠点を正し、彼にロシア語のさまざまな表現方法を教え、『死せる魂』と『検察官』の題材を譲りさえした。ダーチャは現在、プーシキン記念館となっている。
 建築家フランチェスコ・バルトロメオ・ラストレッリ(1700−1771)は、ロシアで活躍した数多い卓越した建築家のなかでも、最も尊敬されている建築家だろう。
 以前にも触れたように、彼はスモーリヌイ修道院や冬宮、ペテルゴフのピョートルの夏の宮殿、さらにエカテリーナ宮殿などの建築に関わった建築家である。そんな彼の像が、エカテリーナ宮殿の入口の傍に立っていた。彫像になる人物は、一般に芸術家や政治家や教育者が多いようであるが、建築家は芸術家であるとはいえ、他人の手によって彫像になっている人は少ないのではないだろうか。私が買ったペテルブルグの詳細地図でも、ラストレッリ以外で彫像になっている建築家は載っていない。
 ラストレッリの像は、没後220年を記念する意味があるのだろうか、彫刻:М.Т.リトフチェンコ、建築:В.Л.スピリドノフの手によって1991年に立てられた。(建築担当のスピリドフは、ドストエフスカヤのドストエフスキー像も手がけているかもしれない。)
吾輩がラストレッリである
F・B・ラストレッリの像(1991)
 いよいよ、リツェイ脇の入口からエカテリーナ宮殿の庭に入った。宮殿の立派なファザードの画像は次のページにまわすこととして、宮殿内入場までにあったことを書きたい。
 宮殿入口までには、ツアー参加者のХさんがカメラを落としてレンズの蓋が開かなくなり、私の一円玉で蓋を外したことまで憶えているのだが、何よりも思い出深いのは、ロシア人の見学者たちと知り合えたことだった。
宮殿を訪れていた子供たち
 私は写真を撮るために行列から外れてファインダーを覗いていた。行列に戻ると我々のツアー行列のあたりがざわついていて、ロシア人団体の一人の女の子が可愛い声で、ツアー客のСさんに話し掛けていた。その子たちは、宮殿に来る途中に我々が追い越した、隣のバスの中から手を振ってくれた子供たちだったのだ。ほんのわずかなきっかけで、一気に親しみを覚えるものである!
 話し掛けてくれたのは、下の写真の一番右に写っている笑顔の女の子だった。旅行中、ロシア人の大人の女性や男性の声ならよく聞いたが、ロシア人の子供たちの声を聞いたのは、初めてだった。子供たちの生き生きとした声や満面の笑顔に、私は心が澄んでいくような感覚を覚えた。なんという貴重な体験だろう。
 今でも、私はあの時気持ちが高まり、カメラを見せつつ「写真を撮らせてもらってもいいですか?」を「そこを通してください」と言い間違え、子供たちからツッコミが入り、照れながら急いで言い直したことを思い出す。ほんの10分余りの会話だったのだが、この体験は何ものにも代えることは出来ない。
Я провёд приятное время!
 Сさんが、子供たちの学校の連絡先を訊いてくれた。Сさんと私が撮った皆さんの写真は、後日、学校の方に届いた。

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