РЕКВИЕМ

オーケストラのみなさん
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 私はロシア人のノスタルジアについて映画を撮りたいと思っていた。祖国を遠く離れているロシア人に起こる、われわれの民族に特有の、固有のあの精神状態について、映画を撮りたいと思ったのである。私はこの仕事のなかに、私が感じ、理解している意味において、ほとんど愛国的な義務とでも言っていいようなものを見ていた。私はこの映画を、ロシア人の民族ルーツ、過去、文化、故郷、家族と友人にたいする宿命的な愛着に関する映画にしたいと思った。宿命がどこに追いやろうと、彼らはこうした愛着を生涯持ちつづけるのだ。ロシア人は、新しい生活態度に容易に適応することも、受け容れることもほとんどできない。ロシア人亡命者の歴史全体が、「ロシア人は亡命者として最低である」という西欧人の見解を実証している。彼らには悲劇的なまでに同化能力が欠如しており、外国の生活様式を受け入れようとする彼らの努力はぶざまな愚行に終わることを、だれもが知っている。『ノスタルジア』を作っていたとき、この映画のスクリーンをみたす息をつまらせるような望郷の念が、私の残された生涯の宿命になるとどうして想像することが出来ただろうか? 痛みをともなうこの病いを私自身の内にかかえることになると、どうして想像することができただろうか。
タルコフスキー『映像のポエジア』
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 アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『ノスタルジア』(1983)で用いられている音楽の一つに、ジュゼッペ・ヴェルディ『レクイエム』(ロシア語ではРЕКВИЕМがある。映画の最初に、ロシア民謡から移行するように流れてくるチェロで始まる曲だ。
 私は『ノスタルジア』で映しだされる美に惹かれつつ、また何度も映画をみていつの間にやら『レクイエム』第1曲が気に入り、あの曲を聴くたびノスタルジーのイメージに心を打たれるようになってしまった。
 また旅行前に何の因果か、日本出国の数日前、1997年のダイアナ元皇太子妃の死の追悼のために、指揮者ゲオルグ・ショルティ(1912.10.21〜1997.9.5)が故元皇太子妃に捧げようとしていた曲もヴェルディの『レクイエム』であり、彼がその願いを果たせなかったまま世を去ったことを知った。よって『レクイエム』に対する特別な思いは膨れ上がっていたのである。
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劇場のバルコニー席

 私はジーンズの上にデニムのジャケットという格好をして劇場に入ったが、別に何ら問題はなかった。たしかに周囲の正装には及びもしなかったが(笑) 添乗員さん含め他のツアー参加者はバッチリきめていた。
 10ルーブルのプログラムを急いで買って、一階椅子席の最前列に座った。プログラムにあるロシア語はほとんど分からなかったが、挿んであった広告には午前に見かけたКабукиТикамацу−дза(歌舞伎「近松座」)の写真も大きく載っていて、本当にペテルブルグに来ているんだなと思った。そして周囲を見ているうちに劇場っておもしろいなと思いはじめた。
 まず、私が自分の席につく前、私の席にロシア人の女性が何食わぬ顔をして座っていたことがあった。もちろん退いてもらったが、もし私の席に誰も座らないようだったら、終わりまで居座ろうとヤマをはっていたとのことであった。いわゆる鑑賞のコツというやつかもしれない。とはいえ、せめて第1幕の終了を待って、空いている席に移ってほしいものだ。
 オーケストラ・ボックスに目を移すと、開演前に楽器の調整をしている奏者のなかに『レクイエム』の旋律を奏でず、ラッパでベートーベンの「ロマンス第二番」を奏でるお調子者がいたりするのもおもしろい。それはリラックスしているということの証しなのか?

 さて、若い風貌の指揮者が登場し、会場から拍手が起こった。いよいよ始まりだが、私個人は『レクイエム』の内容を、曲のタイトルくらいしか知らなかった。よって、なんとなくの理解しかできないのは覚悟の上だった。

 『レクイエム』の「入祭文」の第一曲のチェロの旋律を聴いた途端、私の身体はブルブル震えだした。第一曲の永遠の安息を与え給え∞主よ、あわれみ給え≠ヘ大体9分以上あるものだが、私は最初の1分までに周囲に臆すること無くボロボロ泣いてしまった! オペラチック・ヴァリアントの『レクイエム』の演出・監督のС.Л.ガウダシンスキーや美術のВ.А.オクーネフには申し訳ないが、オーケストラの奏でる旋律と合唱だけで胸がいっぱいになってしまったのだ。
 第一曲の演奏中はオペラのことでなく、タルコフスキーが映画撮影のためイタリアに出国したあと、どのような思いで映画の冒頭に主人公ゴルチャコフの運命を暗示するような『レクイエム』を持ってきたのかといった思い、イタリアで制作された映画のテーマ曲を現在のロシアの地にて生演奏で聴くことの複雑な思い、そして映画の映像(イメージ)、そういったことを漠然とではあるが頭に思い描いていたように記憶している。いささか極端だが、私はこのときの第一曲を聴けただけでも、ロシア旅行の意義は充分にあったような気がしている。

 第二曲の「ディエス・イレ(怒りの日)」から『レクイエム』は激しさを増すので、赤い松明をもった修道僧たちが舞台を所狭しと行き来したり、その他天井から声(歌)が聞こえるような場面があったり、鎮魂歌に静かなアクションを盛り込み、ビジュアル的にも訴えかけようとする趣向を凝らしていることはよくわかった。

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 第一幕が終わり、休憩の時間になった。私は劇場とかにあまり慣れていないので、休憩時間をどう過ごしていいか分からなかった。でも添乗員さんから、休憩のときにこそ劇場のカフェや展示品などを見に行く、ようするに散歩するのがいいと教えてもらったのであった。
 日本では普段劇場とは疎遠なので、左の写真のように劇場内にカフェがあって、観客たちがジュースやお酒でくつろぎ、お喋りする光景を見るのも、私にとってはたのしい体験だった。細かいことだが、飲み物は使い捨てコップ一杯のオレンジ・ジュースが10ルーブル、グラス一杯のシャンパンは50ルーブルくらいだった。
 また右の写真のように、過去に劇場にて演じられた演目や俳優の写真、その時の衣裳なども飾られていたりする。ここはムソルグスキーオペラ・バレエ劇場なので、当然ムソルグスキーの銅像も置いてあったりする。
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 第二幕は「奉献文」から始まったが、演じる側としてはのっけからハプニングに見舞われたと思ったことだろう。きれいに上がる筈の幕が、途中で何かに引っかかり一度止まってから力わざでどうにか上がったのだ。客席からは「何?何?」という声も聞こえた。
 曲が「聖なるかな」に入った頃、客席が少しざわつき始めた。どうしたのだ?と目を凝らすと、信じられないことに薄暗い舞台の上を、一匹のネコがトコトコ行き来している! 後ろから添乗員さんが『レクイエム』にネコが関係あるの?などと訊いてきて、もちろんハプニングですと笑いを堪えて答えるほかなかった。ネコは5分くらいだろうか?結構長い間舞台に居座って、あげく舞台の目立つところで毛繕いまで披露するふてぶてさを発揮した。それからネコはトコトコ舞台の袖に消えていった。客席のざわつきからして、指揮者や一部の出演者たちは何が起こっていたか恐らく気づいていたことだろう。そしてこのように恨めしく思ったのでは?「楽屋で飼っているネコを放したやつは誰だ!?」と。
 なんだか気が抜けていろんなところに目が行くようになった私は、出演者の中でも出番が少ない人は舞台の奥の方で、もたれようと楽な姿勢をとっていたり、それはオーケストラ・ボックスの奏者(この舞台においては特に打楽器担当)でも同じであることに気づいたりした。ある意味、感動と舞台の死角の様子のおもしろさを両方味わえたオペラ鑑賞となった。
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カーテンコールの模様
 二、三のハプニングこそあったが、全体的にまとまったオペラ版『レクイエム』を観れてよかった。モーツァルトやフォーレとはまた異なり、ヴェルディの『レクイエム』はオペラでも演じても遜色ないことを示しているような公演だった。もともとヴェルディがオペラ作曲家であり曲の感じからして当然という意見も聞こえてきそうだが、実際に演出を凝らそうとするといろんな可能性が見つかるように思う。
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_プログラムの出演者欄に、
_国際コンクールで受賞・ロシア功労芸術家 Т.Г.チェルカコヴァ(ソプラノ)
_全ロシアと国際コンクールで受賞 Н.В.ビリュコヴァ(メゾ・ソプラノ)
_А.Н.クリーギン(テノール)
_М.Д.カザンツォフ(バス)
_ロシア功労芸術家 А.А.アニハホフ(指揮者)
とあった。ほか舞台に関わった人の肩書を見る限りでは、ロシアでけっこう有名な人がスタッフとして参加していたようだ。
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指揮者の楽譜
 記念に指揮者用の楽譜を撮っておいた。見てのとおり楽譜はロシア語のものではなかった。
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 劇場を出たあとは、ミハイロフスカヤ通りを歩き、カフェに向かった。途中、オペラのあらゆる曲を奏でているミュージシャンのトランペットの音色が聞こえてきて、ギャラリーが拍手を送っている場面に出くわした。お酒の入った身内だけで盛り上がっている感じだったが、とても楽しそうで、こちらまで歓声をあげたくなってしまうのであった。
 それから鑑賞にきたツアー参加者とお茶を飲みおしゃべりに興じたが、会計の際、安いと思ってルーブルで支払ったあと、ウェイターが追いかけてきて、ドル支払いだといわれ慌てて支払い直すオチがつくようなお茶であった。
 ミハイロフスカヤ通りを曲りネフスキー大通りを歩いていると、卒業のお祝いで騒いでいる学生たちが、馬車の上から酒ビンを片手に奇声をあげてこちらに手を振り、通り過ぎる光景に出会った。私も騒ぎたい気持ちになって彼・彼女らに手を振ると、あちらも嬉しくなるのか、さらに奇声が大きくなるのだった。

 午後9時半を回り疲れはあったが、私は添乗員さんらと別れ、チョールナヤ・レーチカという場所に行くことにした。チョールナヤ・レーチカは、若きドストエフスキーが上京(当時はサンクト・ペテルブルグが首都)したころ、兄ミハイルと共に訪れた場所でもある。そこはプーシキンが決闘を行なった場所なのだ。


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