место дуэли Пушкина

ああ、どこへ去って行ったのか、
わが春の黄金の日々よ。
あすの日は何を私に送るのか、
眼をこらして凝視しても、
深い霧に隠れて見えない。
いや、その必要もない、運命の掟は正しいのだから。
たとい私が一すじの矢に貫かれて倒れようとも、
あるいはその矢が身をかすめて飛び去ろうとも、
すべて良し、夢と眼ざめの時は、
定められた時に訪れるのだから。
迷いの日も祝福あれ、
闇の訪れにも祝福あれ!

あすもまた暁の初光がきらりと輝き、
朗々たる一日が戯れをはじめよう。
けれども私は、──おそらく
墓地の神秘な木陰へ下りて行き、
ゆるゆると流れ行く忘却の川(レーテ)が、
若い詩人の思い出を呑み尽そう。
私はこの世から忘れ去られる、
けれどもうるわしのおとめよ、
そなたひとりは私の墓を訪ねて、
時ならぬ私のむくろにさめざめと涙を流し、
『あの人はあたしを愛してくれた、
あらあらしい生命の悲しい曙を
ただひとりあたしに捧げてくれた』と思ってくれよう。……
心の友よ、願わしい友よ、
来れ、来れ、私はそなたの夫なのだ!……

『エヴゲーニイ・オネーギン』第六章

「──ぼくをあの要塞監獄に連れてゆくんじゃないのかい?」と、プーシキンは笑いながら言った。
「──違うよ、だけどチョールナヤ・レーチカに行くための一番の近道が、要塞のそばを通っているんだ」と、ダンザスは言った。

アンリ・トロワイヤ『プーシキン伝』

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 19世紀帝政ロシアから今日にいたるまで、ロシアで最も敬愛されている詩人といえば、アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンの名前が第一に挙がるだろう。詩人は露暦で1799年5月26日にモスクワで生まれ、1837年1月29日にサンクト・ペテルブルグの家(現在のプーシキンの家記念館)で息をひきとった。詩人は決闘による致命傷で亡くなったのである。
 プーシキンが決闘した相手はジョルジュ・ダンテスという名士だった。ダンテスとの決闘に挑んだ原因は、一応、詩人とその妻ナタリヤとの間に生じた不和に、ダンテスが強く関わったことにあるとされている。しかし、ものごとはそう単純ではなく、詩人とその妻に関する心無い誹謗・中傷の手紙の存在や、それを誰が何のために送りプーシキンを激怒させたのか、また決闘にいたるまでに起こった目まぐるしい出来事に対して、実際にプーシキンが抱いていた感情はいかなるようなものだったのか、分からないことが多すぎることは留意すべきだと思う。
 もちろん事件の骨格を示唆するような手掛りは残っている。しかし何よりも貴重な証拠はプーシキンの死後、彼の身内や仲間、決闘に関与した人物たちが、書簡や証言の多くを闇に葬ったことで現在に示されることはない。おかげで、現在でも詩人の単純な嫉妬説、皇帝ニコライ1世と秘密警察による陰謀説、プーシキンを嫌悪していた社交界の人物による陰謀説、皇帝と警察と社交界がグルになった説などなど、どれもまことしやかな説が乱立し、未だ決闘の手引きを行なった中心人物・機関・組織の決定的な証拠を示した定説は成り立っていない。そんなことから現在分かっているとされる詩人の決闘への経緯は、あまりにも不可思議で、神秘的ですらあるように感じてしまうのだ。

 プーシキンとダンテスの決闘は1837年1月27日、サンクト・ペテルブルグの郊外チョールナヤ・レーチカの司令官別荘(コメンダンツカヤ・ダーチャ)の雪原で行なわれた。プーシキンはダンテスの撃った弾を右腹部に受け、致命傷を負って倒れ、その二日後にこの世を去った。
 私はプーシキンの作品を読むうち、いつしか詩人の決闘の地を訪れてみたいと強く思うようになった。彼は決闘に赴くまでの間、何を思っていたのだろうか。私は、詩人はもう既に死を望んでいたのかもしれないと思っている…。

 プーシキンの決闘の地へのアクセス方法と、道のりの写真を載せます。(地下鉄駅から徒歩での所要時間約30分)

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赤信号など気にしない
 ミェトロ(地下鉄)2号線チョールナヤ・レーチカ駅の出口から左に見える交差点。ここから小さい川(そこがチョールナヤ・レーチカ川)を渡ったらマクドナルドがある。

 その正面に見えるマクドナルドを左折し、川沿いに歩いて二つ目の橋(コロミャジェスキー橋)が見えたらそこを右折する。

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 すると、幅の広い通りに出る。その通りがコロミャジェスキー・プロスペクト(Коломяжский Просп)。歩いていけば、このような踏切がある。
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 踏切から右を見ると、このような線路があるはず。
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 踏切から真っ直ぐどんどん歩いていけば、やがて右手にたくさんの木が生い茂った公園が見えてくる。その中に入っていくと…
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место дуэли А.С.Пушкина
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 「プーシキン決闘の記念碑」が迎えてくれる。ここには記念碑を囲むようにベンチがあって、一日の終わりをくつろぐ人たちがいた。
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__時がきた わが友よ 時が! 心はやすらぎを求め
__日は日についでとびすぎ 刻一刻が生活の一片を
__はぎとっていく。けれど おまえとわたしはふたりで
__生きることを考えている。それでもきっと じきに死を迎えることだろう。
__この世に仕合わせはなく あるのはやすらぎと自由のみ。
__久しい前から わたしは かくありたい運命を夢想している。
__すでに久しい前に 疲れ果てた奴隷のわたしは逃亡をくわだてた
__たゆみない仕事と汚れない憩いの遠いかくれがへ向けて。

_____________ 《Пора,мой друг,пора! покоя сердце проеит》(一八三四)  草鹿外吉訳

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 私は記念碑の傍のベンチに座って、上と同じ詩を岩波版(金子幸彦訳)でささやくような声で読んだ。休憩してから地下鉄の駅へ向かおうとすると、夜の10時30分を過ぎているのに若いロシア人の女性二人が記念碑を訪れる姿が目に入った。
(プーシキンの決闘の記念碑は、たぶん詩人の没後100年を記念してのことだろう。彫刻家М.Г.マニゼル、建築家А.И.ラピロフとЕ.И.カトニンの手によって制作され、1937年、この地に立てられた)
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