谷英冶・北籔和(Waa)ジョイント展
□△○を考える
同じ鉛筆であり、作風も近い二人がジョイント展に選んだテーマがこれ。
二人の絵画の世界を□△○を通して眺めてみました。
□
□はかさばらない
積み重ねることができる。
よって構造的である。
構造的であり、整頓しやすく、分類しやすく、空間をつくるベースとして最も効率的であるが故に社会の中に多く流通している形である。□□□....
写真や絵画の多くが□の形をしているが、それは構造的に安定している立方体の家の中、方形の間取りの□の壁面に掛ける絵画や写真として□が構図としてははまりやすいことに通じる。
社会は□で形成されている。
作品『ドライブスルー』は社会を見つめる私の目である。
そもそもこのモニター画面の最小単位であるピクセルのひとつひとつの形が□であり、
北藪さんの「原始を感じる」という言葉に共感。
その方形の「ゆったりとした広さ」は無限に広がっていく可能性を秘めている。
○△と比べて場(site)、空間(space)を示す。
谷 英j治
北籔 和
□は立方体に通じる。
積み重ねることが出来る。
□は積み重ねることで、様々なものを生み
出す。まるで積み木のように、ものの姿を
組み立てる。
それは原子であり、世界が生まれた最初の
形ということが出来る。
すべてはそこから始まる。キャンバスが四
角なのもそこに由来するのではないか。
家の間取り、ノート、紙幣。
なぜか、円や△に比べると、方形はゆったり
とした広さを感じる。
それは無意識のうちに、□に原始を感じる
からだろう。
立方体は縦横斜めという3つの線で成り立っている。その最も単純な形でもある。
原始の形から生まれる絵画、それは存在そのもの、宇宙そのもの、人間の心のベースだ。
□は、すべてのものの始まりである。
△
北籔 和
谷 英治
ドライブスルー
のしてんてん原始
沈黙の橋
三角形は解脱に向う。
△は、人間の人生の過程そのものであり、成長していく心の形を現わしている。
私のデッサン論では、蟻が三角のふもとから頂上に向かって這い上がるイメージを展開したが、その頂上は心の本質だけが立つことの出来る場所なのである。
谷さんの「点に向う」とらえ方が、時間的、空間的であるのに対して、私は精神性を重視する。
のしてんてん(Zen)は、今、このときに根ざして生きている人間の姿を現わしている。ここに生まれた人間は、ここ以外にいくことは出来ない。ただひたすら頂上を目指すのである。
沈黙の橋は水平に広がり、その点は未来に向っていくのに対して私は、垂直方向に向かう。その頂点は悟りの境地である。この両者の水平と垂直の対比が面白い。
のしてんてん(Zen)
○
ずいどう(部分)
のしてんてん系宇宙(部分)
円は宇宙の全体像である。
宇宙の中心に私という心があって、放射状に世界を見ている。無限の彼方に沈む球体の輪郭線を人間はどこかで記憶に残している。
生まれて始めて見る光、それこそが無垢のままの真実の宇宙なのだ。
そして死が、人をその光の中に返す。
人はそのわずかな間の、夢の世界を生きる。それが△の時代なのだ。
○は完全を意味する。完全とは、不要なものは何一つないということであり、分割されないもののことである。
それは全てが一つの存在であることを示している。
△の時代、人は個々に分離された肉体と精神を持つて生きていく。そこでは自分と世界は互いに関わり知らぬ世界だという認識が絶対的な常識となるのである。孤独感はそこから生まれてくる。
のしてんてん系宇宙は、△の時代の孤独から解放するために必要な、宇宙の真実の姿をイメージするために描いた世界である。
□から人として目覚めた△。やがて△の夢に気付いてその真実にいたる○の世界。
人は○のなかで、永遠の至福を得るのだ。
〇とは、人が生きている真実の世界そのものなのである。それは悟りの世界に他ならない。
谷 英治
北籔 和
□
△
○
谷 英j治
北籔 和
koこのページは鉛筆という同じ技法を持つ作家二人が、同じギャラリで同時に個展を開くという奇遇から始まった、ネット上のジョイント展制作会場です。 まるで同一人物かと思われる作品の類似性から脱却するために、それぞれの思いと技術を主張し合い、対決することで、互いの独自性を深めようと試みる新たなジョイント展を公開することになりました。 制作過程をそのまま公開して行きますので、この対決の行方を見守っていただければ幸いです。 |
仙崖の○△□をひとつの画面に。 真面目に直球で考えると難しいテーマだ。 ここ数ヶ月、11月のデッサン展をきっかけに、鉛筆画の下地の実験を試していた。また、同じ頃から○△□について考えながら、作品のもとになる風景を今までとは違った視点で撮影しはじめていた。 今回、そのテーマでやりましょうとなった時、たまたま今、作っている作品にそれがあてはまるような気がした。 ○、△、□を意識して作品のモチーフを探すと、必ず意識しすぎるような苦しい予感がしたので、「既にそこにあった」ものをとらえ直すという感覚である。 北藪さんとの出会い、デッサン展、ジョイント展を経て、奇遇はもはや必然ではなかろうか。このテーマも前から分かっていたように導かれているような気がしている。ただ、そんな気がしているだけなので、公開しながら距離を置いて考えたい。 これから、新たな下地と鉛筆の触感と戯れながら、描きすすめたいと思っている。 私は、そこに制作しながら考えたことを 日記のようにつらつら述べていこうと思います。 |
谷さんとの出会いは、実は私の方が早い。 偶然一緒になった個展よりも前に、私は谷さんのDMを見ている。闇夜に立つ街灯を描いた鉛筆画を見たとき、私は作者よりその作品に目を奪われた。 鉛筆を埋め尽くした背景の中に、深遠な光の表現を見たとき私は、無人の荒野を旅している旅人が突然灯りのともった民家を発見したときのような感情を覚えた。 私の歩む道に、突然現れた道ずれ、DMを大切にとっておきながら、その個展に足を運ぶ機会がなかった。 それが、たまたまうった個展のとなりに、谷さんの作品が並んだのだ。それは偶然を通り越した、何かの必然があったに違いない。 谷さんのホームページに、「闇を描き込むのは修行のようなもの」という意味の記述を見つけたとき、私は彼こそ本物だと確信した。 あえて同じテーマに挑戦して、互いにどんな答えを引き出すか、それを見れば、これが必然であったのだと思えるものが生み出されるのではないだろうか。 この競作に際し、私はまずデッサン論を提示します。 偶然 |
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2012年新春対決の公開が始まりました。入り口はこのページの下です