春の目覚めの後始末【後編】
ソ連軍の「ウィーン作戦」の発動以来ドイツ軍は後退を続け、ハンガリー・オーストリア国境地帯に建設された「帝国陣地」(Reichsschutzstellung)と呼ばれる防衛陣地帯を目指して後退していました。第6SS戦車軍と第6軍の間には約30kmの隙間が生じており、この隙間を埋めるべくドイツ軍はあらゆる部隊をかき集めて投入しました。
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10.オーストリア国境の帝国陣地
「帝国陣地」(Reichsschutzstellung)又は「南東の壁」(Südostwall)はチェコ東部~オーストリア東部の国境沿いに建設された陣地帯で、チェコとスロバキア国境のヤブルンカ峠(Jablunkapass)~スロバキアのシレイン(Sillein/現Žilina)要塞地帯~ヴァーフ(waag)川~トレンチーン(Trentschin)の南~小カルパチア山脈~プレスブルク(Pressburg/現 Bratislava)要塞地帯まで続きました。
この東部国境沿いの陣地帯は1939年8月のチェコ併合時点ですでに計画されていましたが、第二次世界大戦がはじまるとごく一部が建設されただけで計画は放置されました。
オーストリア領内はプレスブルク要塞地帯~ノイジードル(Neusiedler)湖西岸の山地帯~ショプロン(Sopron)南西の丘陵地帯~ギュッシング(Güssing)の丘陵地帯~ビンカ(Pink)渓谷~ラトカースブルク(Radkersburg /現Bad Radkersburg)東方~シュタイアーマルク(Steiermark)州南部境界(現スロベニア国境)~ドラヴァ川~ヴァラスド(Varasd /現クロアチアVaraždin)地区までの地域で強固な陣地帯が計画され、幻の「アルプス要塞」の前縁部とされていました。
「帝国陣地」の建設工事は東部戦線での敗勢を受けて1944年9月1日付けの総統命令により開始され、各地の大管区指導者が建設の責任となり、建設地域はI~VIの6ヶ所の地域に分割され、オーストリアの「ニーダードナウ大管区」は「VI地域」、その南の「シュタイアーマルク大管区」が「V地区」に該当しました。
「帝国陣地」には「A陣地帯」と「B陣地帯」が数キロの間隔で建設され、幅と深さがそれぞれ4mの対戦車壕、機関銃と迫撃砲陣地、地雷原、対戦車障害物などで構成されていました。しかし建設工事に必要なコンクリートの不足から陣地の補強には木材が多用され、それさえない場所では素掘りの壕は冬季の積雪や風雨ですぐに劣化してしまいました。
建設工事への熱意は大管区指導者ごとに様々で、シュタイアーマルク大管区では1944年12月23日に建設工事のために15個の国民突撃隊が動員されましたが、春の農作業に備えて3月9日に関係個所との事前調整なしに突然帰還命令が出され、陸軍最高司令部(OKH)でも「反逆か?」と大騒ぎになる事件も起こりました。
1945年3月にハンガリーでソ連軍の攻勢が始まると「スザンナ陣地」の防衛線が破られてソ連軍がオーストリアの国境地帯に迫ったため「帝国陣地」の工事は3月末の段階で未完成のまま中止されました。
「シュタイアーマルク大管区」では3月25日には14個の国民突撃隊が再動員され、翌26日にはハンガリーでの戦線後退を受けて最高警戒レベルIIIが発令されて国民突撃隊の総動員が発動されました。
1944年12月の時点ですでに完成していたアイゼンシュタット(Eisenstadt)地区の「帝国陣地」B陣地帯の対戦車壕のように一部では良好な陣地が完成している地域もありましたが大部分は対戦車壕が掘られている程度でした。それでもないよりはましで未完成の陣地には国民突撃隊が張り付け部隊として配備されましたが、どちらにしてもソ連軍を止めることはできませんでした。
建設工事には国民突撃隊、各国からの労働者、捕虜、強制労働の約38,000名のハンガリー系ユダヤ人、勤労奉仕のオーストリア人ヒトラーユーゲント、地元住民、兵役対象外の男女、徴兵前の年長の学童らが動員され約30万人が建設工事に関わりました。
非人道的な労働環境、事故、悪天候、不充分な食糧のため東部からの労働者や強制労働のユダヤ人のうち約33,000名が死亡し、工事中止後は行軍できないユダヤ人はその場で射殺され、残りは「死の行進」によりマウントハウゼン強制収容所に送られました。
強制労働者への暴力行為は監視にあたる担当者により左右され、SSの警備兵、ナチ党幹部、中でも狂信的なヒトラーユーゲントの時は銃撃や暴行が頻発しましたが、敗勢を感じ取っていた国民突撃隊員の時は概して穏やかだったと言われています。
11.オーバープレンドルフ地区の防衛戦/第6SS戦車軍戦区
3月末の時点で第6軍は北の第6SS戦車軍と南の第2戦車軍との連絡を失い、さらにバラトン湖北岸を西に向かって後退を続けた第3戦車軍団、第4SS戦車軍団、第1騎兵軍団相互の連絡も途絶えがちで、各軍団はそれぞれの判断で遅滞戦闘を展開しながらオーストリア国境地帯の「帝国陣地」を目指して後退していました。
第6軍(1945年3月下旬)
第3戦車軍団司令部
第4SS戦車軍団
・第1戦車師団戦闘団
・第3戦車師団戦闘団
・第5SS戦車師団Wiking師団戦闘団
・第9SS戦車師団Hohenstaufen
第1騎兵軍団
・第3騎兵師団
・第23戦車師団
・ハンガリー第2軍団司令部
・ハンガリー軍セント・ラースロー師団→4月5日付けで第22山岳軍団に転属
・ハンガリー軍第20歩兵師団→1945年4月に解隊され残余はセント・ラースロー師団に編入
3月29日までに第6軍と第6SS戦車軍の間にできた防衛線の隙間はソンバトヘイ(Szombathely)北方のゲシュリーベンシュタイン(Geschriebenstein)~ノイジードラー湖南端の間で約30kmにまで拡大していました。この隙間を埋めるため国防軍最高司令部(OKW)は警戒部隊、警察の分遣隊、回復期の兵士や落伍兵からの臨時編成部隊などあらゆる兵力をかき集めて送り込みました。
3月29日、ソ連軍の第3ウクライナ戦線/第6親衛戦車軍の先鋒部隊はソンバトヘイ地区北方約20kmのクロスターマリーエンベルク(Klostermarienberg)地区の第6SS戦車軍~第6軍の戦区境界部で初めてオーストリア国境を突破し、オーバープレンドルフ(Oberpullendorf)地区へと前進しました。
その北方約7kmのルッツマンスブルク(Lutzmannsburg)地区に配備されたリリエンフェルト(Lilienfeld)の国民突撃隊は非武装で到着したため帰還が命じられる体たらくで、もともと脆弱だった防衛線は南北から迂回されて簡単に無力化されました。
3月30日にもソ連軍第6親衛戦車軍はオーバープレンドルフ~マッテルスブルク(Mattersburg)街道沿いに攻撃を続け、夕方までに約20km前進して早くもジークグラーベン(Sieggraben)地区に達しました。
ウンタープレンドルフ(Unterpullendorf)地区からは北東のホーリチョン(Horitschon)地区に向けても攻撃が開始され、途中クラインヴァラスドルフ(Kleinwarasdorf)近郊では3個高射砲中隊によって増強されたドイツ軍部隊が激しく抵抗しましたが、それでもソ連軍は1800時までにホーリチョン地区に到達し、この地区に配備されたウィーナー・ノイシュタット(Wiener Neustadt)の国民突撃隊は壊滅的な損害を被りドイツ軍守備隊はオーデンブルク(Ödenburger)山地へと撤退しました。
クロスターマリーエンベルク地区西方のブークリゲ・ヴェルト(Bucklige Welt)の丘陵地帯ではソ連軍はロッケンハウス(Lockenhaus)を経由してツェーベルンバッハ渓谷へと進撃してピルガースドルフ(Pilgersdorf)地区に達し、その後はラプニッツ渓谷を通過してキルヒシュラーク(Kirchschlag in der Buckligen Welt)~バート・シェーナウ(Bad Schönau)地区を占領しました。
3月28日にはウィーナー・ノイシュタットの士官学校にも警戒態勢が発令されて出動準備が下令されました。ウィーナー・ノイシュタット士官学校では教員と士官候補生から「第1教導集団」(Widmer大隊)と「第2教導集団」(Holzapfel大隊)が編成され、この部隊は戦術的には第1SS戦車軍団に配属されました。【補足-3】
士官学校副官のホーファー(Hofer)大尉は「ウィーナー・ノイシュタット戦闘指揮官」(Kampfkommandanten von Wiener Neustadt)に任命されてウィーナー・ノイシュタット守備隊の組織化を担い、市内には士官学校部隊に加えてウィーンの2個警察大隊も配属されました。
3月29日にウィーナー・ノイシュタット士官学校の「第2教導集団」(Holzapfel大隊)はウィーナー・ノイシュタット南方のフロースドルフ(Frohsdorf)~ランツェンキルヒェン(Lanzenkirchen)~ヴァルパースバッハ(Walpersbach)~エアラッハ(Erlach)地区でライタ(Leitha)川にかかる橋での渡河地点を防衛するとともにブークリゲ・ヴェルト(Bucklige Welt)の丘陵地帯に警戒線を構築し、一方「第1教導集団」(Widmer大隊)はウィーナー・ノイシュタット士官学校に留まり予備兵力として待機しました。
12.ウィーナー・ノイシュタットの防衛戦/第6SS戦車軍戦区
3月30日にはフロースドルフ(Frohsdorf)地区で戦闘が始まり、オーフェンバッハ(Ofenbach)~ブロームベルク(Bromberg)地区の丘陵地帯の警戒線でもヴィースマト(Wiesmath)地区にソ連軍偵察部隊が現れて戦闘が始まり、ヴィースマト地区の士官候補生中隊は一晩持ちこたえましたが翌日には撤退せざるを得ませんでした。
一方別のロシア軍は3月30日1500時にリヒテンエック(Lichtenegg)地区に達し、さらに2045時にはホレントン(Hollenthon)地区まで達して無血占領しました。
3月31日の時点で第6SS戦車軍の司令部はウィーナー・ノイシュタット城内に置かれており、第1SS戦車師団はショプロン地区からマッテルスブルク(Mattersburg)地区へと後退してソ連軍第5親衛戦車軍団と対峙し、第12SS戦車師団と第3SS戦車師団の残余はまだノイジードラー湖南側のドイチクロイツ(Deutschkreutz)地区に踏み止まっていましたが、ソ連軍第6親衛戦車軍はジークグラーベン(Sieggraben)地区からの攻撃を継続しておりマルツ(Marz)地区での激戦の後マッテルスブルク(Mattersburg)地区が陥落しました。
4月1日には第1SS戦車軍団の防衛線はウィーナー・ノイシュタット東方のライタ川まで後退し、ノイジードル湖西岸のメルビッシュ(Mörbisch am See)~ルスト(Rust)~オクガウ(Oggau am Neusiedler See)地区がソ連軍に占領され、第3SS戦車師団の残余はノイジードル湖とライタ山地(Leithagebirge)の間を抜けて北方に撤退し第2SS軍団と合流しました。
ウィーナー・ノイシュタット市街地には士官学校の「第1教導集団」と2個警察大隊が布陣しており、シュテルネベックSS(Sternebeck)大尉の第1SS戦車連隊第3中隊と第4戦車補充訓練大隊の1個小隊の戦車の支援を受けることができました。SS戦車中隊はウィーナー・ノイシュタット駅でIV号戦車×10両を受領しており、第4戦車補充訓練大隊の1個小隊のパンター戦車×4両とともに防衛陣地に組み込まれました。
3月31日にランツェンキルヒェン(Lanzenkirchen)地区のライタ川の渡河地点に初めてソ連軍が現れましたが、この攻撃は士官学校の「第2教導集団」(Holzapfel大隊)の中隊が撃退しました。しかし4月1日の夕方までには渡河地点は突破され、守備隊はウィーナー・ノイシュタット西側の丘陵地帯へと撤退しました。
市街地北西の飛行場では設備の撤去作業が始まり、移動できない設備や弾薬庫も爆破処分され、4月1日夜には士官学校部隊の本部はヴァイカースベルク(Weikersdorf am Steinfelde)地区へと移動しました。
4月2日にはウィーナー・ノイシュタットの西側で戦闘が始まり、ソ連軍はヴァイカースドルフ(Weikersdorf)を経由してバート・フィシャウ(Bad Fischau)地区へと進撃し、この地区を防衛していた第12SS戦車師団の落伍兵、第2教導集団(Holzapfel大隊)、空軍の地上要員、警察大隊からなる戦闘団「グロース」(Kampfgruppe Groß)はソ連軍に押されて西側のホーエ・ヴァント(Hohe Wand)地区へと後退しました。
ウィーナー・ノイシュタットの南と南東ではソ連軍第107親衛機械化軍団の支援を受けた第99親衛狙撃兵師団が地上攻撃機の支援を受けて市街地への突入を図っており、圧倒的な戦力差のため守備隊は市街戦による損害を避けて北のテレジエンフェルト(Theresienfeld)地区へと撤退しました。
撤退した士官学校の「第1教導集団」はシュタイナブリュックル(Steinabrückl)~ヴェラースドルフ(Wöllersdorf)地区の丘陵地帯でピエスティング(Piesting)渓谷を守る新しい防衛線に入りましたが、翌4月3日朝には第1SS戦車師団/第2SS機甲擲弾兵連隊の第2大隊と交代しました。
市内のノイドルフラー通りに陣取っていた第4戦車補充訓練大隊の1個小隊は燃料と弾薬を使い果たした戦車を爆破処分し、兵員のみが北のテレジエンフェルト地区へと脱出しました。一方シュテルネベックSS大尉のSS戦車中隊には撤退命令が届きませんでした。
中隊は残存IV号戦車×8両を持って東からアカデミー公園を通って城へと進むソ連軍を奇襲し、その後北に向けて脱出を図りました。街の北端ではソ連軍対戦車中隊を再び奇襲攻撃で粉砕しましたがそれ以上の前進は不可能で、西へと進路を変えてシュタイナブリュックル(Steinabrückl)地区へと進みました。
シュテルネベックSS大尉はここで飛行場から北に向かう敵戦車中隊を発見し、側面攻撃により損害なしに敵戦車10~12両を撃破し、その後ピエスティング渓谷へと撤退しました。
ウィーナー・ノイシュタットは4月2日午後早くに完全に占領され、1943年8月以来の空襲と戦闘により破壊された市内には住民900名、外国人労働者350名、抑留されていたハンガリー系ユダヤ人200名のみが残されていました。
13.ノインキルヘン地区の防衛戦/第6SS戦車軍戦区
1945年3月27日、ウィーン近郊で編成中の第37SS義勇騎兵師団「リュッツオー」に対して1個戦闘団の編成が緊急下令されました。戦闘団は第93SS騎兵連隊を中心に編成され、指揮官は連隊長のカール=ハインツ・カイテル(Karl-Heinz Keitel)SS少佐が務めたため戦闘団「カイテル」(Kampfgruppe Keitel)と呼ばれました。
戦闘団「カイテル」
Kampfgruppe "Keitel"
第93SS騎兵連隊第1大隊と第2大隊
第37SS工兵大隊第2中隊
第37SS戦車猟兵大隊:3個中隊
第37SS偵察大隊第2自転車中隊とオートバイ小隊
第37SS砲兵連隊第3中隊:10.5cm軽榴弾砲×6門(馬匹牽引)
重歩兵砲小隊:15cm重歩兵砲×2門?
ハンガリー砲兵中隊×2個中隊
第37通信中隊
輸送段列
衛生小隊
獣医中隊
戦闘団は第93SS騎兵連隊の編成作業の行われていたドナウ川東岸のマルフフェルト(Marchfeld)地区からウィーナー・ノイシュタット地区に移動し、当初は南西のシュタインフェルト(Steinfeld)地区に展開しました。戦闘団の兵力は約2,000名でさまざまな地区の国民突撃隊(グログニッツ国民突撃隊など)や警察部隊とともに戦術的には第1SS戦車師団LSSAHの指揮下に配属されました。
しかし戦闘団の補給状況は悪く燃料と弾薬の不足は特に深刻で部隊の展開は遅々として進まず、ウィーナー・ノイシュタット地区南部の防衛では到着した部隊から五月雨式に防衛戦に投入されました。
3月30日にフロースドルフ地区のライタ(Leitha)川の渡河地点でソ連軍との戦闘が始まると渡河地点西側のブルン(Brunn bei Pitten)地区で戦闘団の最初の部隊が戦闘に投入され、T34戦車×12両による攻撃は第37SS戦車猟兵大隊第1中隊の7.5cm対戦車砲の活躍で撃退しました。
4月1日の時点で第1SS戦車軍団右翼に配備された戦闘団「カイテル」は第356歩兵師団の一部、戦闘団「グロース」(Kampfgruppe Groß)、第1SS戦車師団の一部、ヴィーナー・ノイシュタット士官学校の1個大隊、山岳猟兵や国民突撃隊などとともにウィーナー・ノイシュタット~マッテルブルク(Mattersburg)~ノインキルヘン(Neunkirchen)地区で「ニーダードナウ(Niederdonau)要塞地帯」の防衛線に布陣しましたが、要塞地帯など名前ばかりの存在でした。
4月1日夕方までにソ連軍はライタ川の渡河点を突破し、4月2日にはウィーナー・ノイシュタットの守備隊は背後の丘陵地帯に撤退したためウィーナー・ノイシュタットは同日午後に陥落しました。
ウィーナー・ノイシュタット地区で戦闘が始まった4月1日にソ連軍第9親衛軍は南の山岳地帯を越えてグログニッツ(Gloggnitz)地区に到達し、ゼメリング(Semmering)峠で南部からの鉄道を遮断しました。この地区は第6軍と第6SS戦車軍の戦区境界部にあたり、小規模な守備隊はたちまち蹴散らされてしまいました。
このためセルビアから移動してきた第48戦車猟兵補充・訓練中隊を中心に周辺地域の守備隊を統合して戦闘団「ゼメリング」(Kampfgruppe
Semmering)が編成され、鉄道沿線に配置された高射砲部隊の警戒部隊とともに山岳地帯になんとか防衛線を構築することができました。
4月4日、戦闘団「カイテル」の全部隊はノインキルヘン~テルニッツ(Ternitz)地区にようやく集結を完了し、バート・フィシャウ(Bad Fischau)~ヴィレンドルフ(Willendorf)~ザンクト・ヨハン (St. Johann am Steinfelde) 地区の前線に展開し、戦闘団本部はヴィレンドルフ地区後方のグリューンバッハ(Grünbach am Schneeberg)地区に置かれました。
戦闘団はソ連軍の激しい攻撃で大損害を被り、丘陵地帯を西へと後退しプフベルク(Puchberg am Schneeberg)~シュヴァルツァウ (Schwarzau im Gebirge)地区へと撤退しました。
4月8日にルドルフ・ミューラーSS中尉の第37SS偵察大隊を中心とするSS戦闘団「ミューラー」(SS Kampfgruppe “Müller”)が編成され、プフベルク(Puchberg am Schneeberg)地区から前進してシュティクセンシュタイン(Stixenstein)~ジーディング(Sieding)地区の旧戦線を回復する反撃作戦に投入されました。戦闘団は圧倒的に優勢なソ連軍に対して大損害を被りながらも一旦はソ連軍を押し戻したましが反撃により結局撤退を余儀なくされました。
SS戦闘団「ミューラー」
SS Kampfgruppe "Müller"
第37SS戦車猟兵大隊第1中隊の1個中隊:7.5cm対戦車砲×3門?
第37SS戦車猟兵大隊第1中隊の随伴歩兵小隊
第37SS戦車猟兵大隊第2中隊:ヘッツァー×10両?
第37SS偵察大隊迫撃砲小隊:120mm迫撃砲
第37SS偵察大隊第2自転車中隊
第37SS工兵大隊の1個中隊
郷土防衛中隊
4月14日、戦闘団「カイテル」はソ連軍の激しい攻撃のため撤退を余儀なくされ、ヒュットベルク(Hütberg)~クロスターターラー・ゲシャイト(Klostertaler Gescheid)~シュパルバッハ・ヒュッテ(Sparbacher Hütte)~ジンゲリン(Singerin)~ナスヴァルト(Naßwald)地区の山岳地帯で新たな防衛線を構築し、4月29日にはシュヴァルツァウ(Schwarzau im Gebirge)地区で第117猟兵師団の一部と合流することができました。
5月2日~6日の間に戦闘団は小規模な拠点のみを残して戦線から引き揚げ、5月8日夜にシュヴァルツァウ地区からマリアツェル(Mariazell)地区に向かい、5月12日にヴィンディッシュガルシュテン(Windischgarsten)地区でアメリカ軍に武装解除されました。一方戦闘団「ミューラー」は5月13日にリンツ(Linz)近くのエンス(Enns)地区で降伏しました。
14.オーバーヴァルト地区の防衛戦/第6軍戦区
オーバーヴァルト(Oberwart)近郊のケーエンテン(Kemeten)地区まで後退してきた第3戦車軍団司令部は「戦車軍団」とは名ばかりで、バラトン湖からの撤退時に第356歩兵師団は第1SS戦車軍団に、第1戦車師団と第3戦車師団は第4SS戦車軍団に移管され、軍団直轄の第509重戦車大隊を除くと戦車部隊を持たない戦車軍団司令部となっていました。
3月末にはオーバーヴァルト地区にもソ連軍が迫り、レヒニッツ(Rechnitz)地区の北で第9親衛軍/第37親衛狙撃兵軍団が3月29日の夕方に国境を越え、3月30日の朝までにレヒニッツの町を占領しました。
この地区ではゲシュリーベンシュタイン(Geschriebenstein)山~レヒニッツ南方の鉄道線路(現在は廃線でおそらく63号線付近)付近までの帝国陣地ではオーバーヴァルト(Oberwart)、ブルック・アン・デア・ムール(Bruck an der Mur)、レオベン(Leoben)の国民突撃大隊が対空砲部隊の支援を受けて布陣していましたが、ソ連軍には障害とはなりませんでした。
この地区の防衛のため第6軍から「第6軍後方地域司令部」(Korück AOK6)司令官のヴァルター・クラウゼ(Walther Krause)中将が派遣されましたが、中将の兵力は第6軍直轄の「第19国民ロケット砲旅団」から抽出した歩兵2個小隊のみで3月30日にシャッヘンドルフ(Schachendorf)地区東方の「帝国陣地」に入りましたが、ソ連軍の攻撃が始めるとその日のうちに街から撤退しました。
一方、ザルツブルクの第18軍管区のユリウス・リンゲル(Julius Ringel)山岳兵大将は1,500名以上の増援部隊の派遣を命令し、3月31日までに第11SS機甲擲弾兵補充・訓練大隊、第138山岳猟兵補充・訓練大隊、山岳獣医補充中隊及び騎兵補充中隊がグロースピータースドルフ(Großpetersdorf)地区に到着しました。
これらの部隊はヴァルター・クラウゼ中将の指揮下に師団集団「クラウゼ」(Divisionsgruppe Krause)として統合され、第3戦車軍団司令部に配属され、さらにユーゴスラヴィアから「第1国民山岳師団」の第99山岳猟兵連隊も到着してこの地区の兵力は大幅に強化されました。
その後この連隊は南東部のザンクト・カトライン・イム・ブルゲンラント(St. Kathrein im Burgenland)地区の防衛に引き抜かれてしまいましたが、それでも第18軍管区の必死の努力で約15,800名の兵力がかき集められました。
第3戦車軍団(4月中旬)
・師団集団「クラウゼ」(Divisionsgruppe Krause):4月20日に解隊
・第1国民山岳師団:ユーゴスラビアの第22山岳軍団から移動
・第117猟兵師団(4月13日より)
・第219突撃戦車大隊
・第75野戦補充大隊
・第13SS警察連隊(2個大隊)
・封鎖部隊「モッチマン」(Sperrverband Motschmann)
【軍団直轄】
・第509重戦車大隊
・第17国民ロケット砲旅団(Volkswerfer-Brigade 17)
・第19国民ロケット砲旅団(Volkswerfer-Brigade 19):歩兵として
第23国民ロケット砲連隊
第24国民ロケット砲連隊
・第313陸軍突撃砲兵旅団
・第171陸軍砲兵大隊
3月31日には第138山岳猟兵補充・訓練大隊と山岳獣医補充中隊からなる師団集団「クラウゼ」の南方グループが反撃に投入され、見事にシャンドルフ(Schandorf)村の一部を奪還しましたが、ソ連軍戦車の反撃により再び放棄せざるを得ませんでした。
一方、4月1日に行われた第11SS機甲擲弾兵補充・訓練大隊と騎兵補充中隊からなる北方グループにより攻撃は奇襲となって見事に成功し、レヒニッツ(Rechnitz)地区を奪還してインペリアル陣地の防衛線まで前進しました。しかし南方グループとの連絡の試みはソ連軍の反撃で全て失敗し、大きな損害を被って断念されました。
4月5日、ソ連軍第30狙撃兵軍団は師団集団「クラウゼ」の防衛戦への攻撃を開始し、同日中に師団司令部はオーバードルフ (Oberdorf im Burgenland)地区へと後退しました。オーバードルフの北方約15kmのリートリングスドルフ(Riedlingsdorf)地区の南と東には対戦車壕と機関銃陣地からなる陣地が構築されていましたが陣地を守る兵士がおらず村は無血占領されました。
4月5日夜にソ連軍はピンカフェルト(Pinkafeld)地区に到達し、オーバーヴァルト地区の北半分は24時間以内にソ連軍に占領され、4月6日にはフリートベルク(Friedberg)地区が占領され、ソ連軍の一部は西に進路を変えて第6軍の側面を脅かしました。
ソ連軍の前進により第11SS機甲擲弾兵補充・訓練大隊は国境近くのレヒニッツ地区で包囲・孤立し、4月5日にレヒニッツが再占領されると残存部隊はギュンサー山地の森林地帯を利用して西方のドイツ軍陣地への突破を試み、4月8日になってようやく約40km西方のラフニッツ渓谷(Lafnitztal)のドイツ軍陣地にたどり着きましたが、数日以内に集合できた兵士は150名にすぎませんでした。
15.ラフニッツ渓谷の防衛戦/第6軍戦区
ソ連軍第30親衛狙撃兵軍団の進撃に対してクラウゼ中将はフリートベルク(Friedberg)地区から西に向かう敵に対してラフニッツ渓谷~ラフニッツ(Lafnitz)地区に新しい防衛線を構築しました。スロベニアから移動してきた第13SS警察連隊の2個大隊とエーリッヒ・モッチマン大尉指揮の山岳猟兵からなる封鎖部隊「モッチマン」(Sperrverband
Motschmann)は4月8日にフォラウ(Vorau)地区に到着するとすぐにラフニッツ峡谷への反撃に投入され、一時はブルック(Bruck)村の一部を奪還しましたが、ソ連軍の反撃により撤退しました。
封鎖部隊「モッチマン」
Sperrverband Motschmann
指揮官:エーリッヒ・モッチマン大尉
第83山岳猟兵補充・訓練大隊
第36山岳猟兵補充・訓練大隊
山岳砲兵1個中隊
4月8日/9日の夜、第13SS警察連隊は「第3軍団砲兵司令官」(ARKO 3)の分遣隊と連携してヴェニヒツェル(Wenigzell)地区から出撃してソ連軍をメーニヒヴァルト(Mönichwald)地区まで押し戻しました。4月10日には第4SS戦車軍団戦区のフュルステンフェルト(Fürstenfeld)地区にあった第1戦車師団から第113機甲擲弾兵連隊が引き抜かれて第3戦車軍団に移管され、ヴァイツ(Weiz)地区を経由してビルクフェルト(Birkfeld)地区へと移動しました。
連隊の先鋒部隊は1500時にはフォラウ地区南西のクロイツヴィルト(Kreuzwirt)峠(標高1,030m)の山小屋まで進出しましたが、ラフニッツ峡谷上流部にはソ連軍の小規模な偵察部隊しかいなかったため、この攻撃は空振りとなりました。このため第113機甲擲弾兵連隊は撤退し、ラフニッツ峡谷上流部の警戒任務は第13SS警察連隊に引き継がれました。
4月12日、ドイツ軍偵察部隊がソ連軍第5親衛騎兵軍団の集結を確認し、これに対して第3戦車軍司令部は師団集団「クラウゼ」の再編成を命じ、第1山岳旅兵師団の3個大隊が再配置されました。
師団集団「クラウゼ」
Divisionsgruppe Krause
阻止部隊「モッチマン」
第13SS警察連隊
第1山岳猟兵師団の3個大隊
国民突撃隊と郷土防衛隊の警戒部隊
4月13日、ソ連軍第5親衛騎兵軍団は攻撃を開始し、弱体な阻止部隊「モッチマン」と第13SS警察連隊は対抗する術もなくたちまち後退しました。ソ連軍はラフニッツ渓谷を制圧するとフォラウ地区を越えて西に向けて進撃し、ラッテン(Ratten)~フィッシュバッハ(Fischbach)~シュトラレック(Strallegg)地区に進出しました。
4月14日、第3戦車軍団はラフニッツ渓谷を封鎖するために第13SS警察連隊にSS大隊を増強して0900時からメーニヒヴァルト地区で反撃を実施してわずかな地域を奪還しましたが、ソ連軍戦車に遭遇して大損害を被り攻撃は中止されました。
4月15日、ソ連軍は南と南西に向けてさらに進撃し、午後にはフォラウ地区の守備隊は南に向けて撤退しました。15日の夕方には第113機甲擲弾兵連隊が第13SS警察連隊の救援に向かいましたが、ソ連軍は師団集団「クラウゼ」の左翼を迂回して進撃し、クロイツヴィルト峠を占領しました。
4月16日には第113機甲擲弾兵連隊は第1国民山岳師団の第98山岳猟兵連隊の増援を受けて反撃し、4月17日にシャッヘン(Schachen bei Vorau)~プフエック(puchegg)地区を奪還し、この反撃により戦線を安定させました。
この間にドイツ軍は増援が到着し、4月15日には砲兵補充大隊の2個中隊、装甲車両中隊、SS補充中隊などがビルクフェルト(Birkfeld)地区に到着し、4月18日には大損害を被った第13SS警察連隊には第36山岳補充大隊本部、第83山岳工兵訓練・補充大隊が配属されて再編成され、一方で師団集団「クラウゼ」はその役割を終えて4月20日付けで解隊されました。
4月23日の朝には反撃によりフォラウ(Vorau)地区が奪還され、4月25日には第1国民山岳師団の部隊が南部から到着し、4月26日には第1国民山岳師団の山岳猟兵はSS大隊、ベルリンの警察大隊の増援とともにアイヒベルク(Eichberg)地区から反撃を行い、激戦が展開されました。
この地域のドイツ軍は5月7日に西方への撤退を開始しましたが、防衛線は終戦の5月8日まで維持されました。第1国民山岳師団は5月7日2100時までにエンス川の背後まで撤退するよう命令を受け、約170km西方のリーツェン(Liezen)地区を目指して撤退を開始し、師団司令部はリーツェン地区に5月12日までとどまり、遅れて東方から到着するドイツ兵をエンス川西岸のアメリカ軍占領地域に送り込む作戦を継続しました。
余談ですがフォラウ地区でヴォラウ病院を運営するヴォラウ聖母修道女会の記録によると、『山岳猟兵はとても親切で協力的だったが、SS警察部隊はロシア軍と大して変わらなかった。』と、やれやれ・・・(F.Brettner, Letzte Kämpfe Pinka, Lafnitz, S. 177)1847
16.オーバーヴァルト地区南部の防衛戦/第6軍戦区
師団集団「クラウゼ」戦区の南側、オーバーヴァルト(Oberwart)地区の南ではアイゼンベルク(Eisenberg an der Pinka)地区の北~ザンクト・カトライン(St. Kathrein im Burgenland)地区では第1国民山岳師団の一部が国境沿いの防衛線を維持していました。
第1国民山岳師団の一部
・第54偵察大隊:アイゼンベルク地区の北
・第75野戦補充大隊(第3戦車師団):アイゼンベルク地区
・第54山岳工兵大隊:アイゼンベルク~ドイチュ・シュッツェン(Deutsch Schützen)地区の間
・第99山岳猟兵連隊:ドイチュ・シュッツェン地区の南
4月1日、国境沿いのアイゼンベルク(Eisenberg an der Pinka)~ドイチュ・シュッツェン(Deutsch Schützen)地区では前進してきたソ連軍と早くも小競り合いが始まり、守備隊は国境地帯から「抵抗陣地」へと撤退しました。
北部のレヒニッツ~シャンドルフ地区で国境地帯を突破したソ連軍の大規模攻勢が始まると、4月4日に第99山岳猟兵連隊の一部が分離されて移動し、4月5日~6日にはコテツィッケン(Kotezicke)~グロースピータースドルフ(Großpetersdorf)~オーバーヴァルト(Oberwart)地区の鉄道線路沿いで師団左翼で北東に向けての防衛線を構築し、4月5日には第98山岳猟兵連隊第1大隊もオーバーヴァルト南西のケンエーテン(Kemeten)地区に移動して防衛戦を展開しました。
4月5日には第99山岳猟兵連隊戦区のクラインピータースドルフ(Kleinpetersdorf)~コテツィッケン(Kotezicken)地区でも小競り合いが発生し、南のコーフィディッシュ(Kohfidisch)地区では激戦となりました。4月6日にはソ連軍がコーフィディッシュの町に突入しましたが反撃により追い出され、コーフィディッシュ城をめぐっては白兵戦が展開されました。
4月7日には山岳猟兵が反撃してソ連軍を東側のツァテルベルク(Csaterberg)地区のブドウ畑まで押し戻し、ここが最前線となりました。この戦闘でソ連軍は戦死220名の損害を出したがドイツ軍の損害もその後数日間の戦闘で増加し、ソ連軍は増援も到着して攻撃を再開しました。
4月10日、コーフィディッシュ地区の北ではクラインピータースドルフ地区でついに「帝国陣地」が突破され、コーフィディッシュ地区の第1国民山岳師団の守備隊は「帝国陣地」で4月11日まで抵抗しましたが、包囲を逃れて4月11日/12日の夜に陣地を放棄して約15~20km西方のラフニッツ(Lafnitz)川まで撤退し、堤防沿いに新しい防衛線を構築しました。
4月12日にはオーバーヴァルト地区の約90%がソ連軍に占領され、ブルゲンラント(Burgenland)州ではその後2日間はオーバーヴァルト西方のラフニッツ川東岸のマルクト・アルハウ(Markt Allhau)地区でまだ戦闘が続きましたが、南のシュタイアーマルク(Steiermark)州の境界ではソ連軍は前進をやめ守備隊との間で砲・銃撃戦のみが展開される小康状態となりました。
さらに南の第4SS戦車軍団戦区ではこれによりハイリゲンクロイツ(Heiligenkreuz im Lafnitztal)~インツェンホーフ(Inzenhof)~グロースミュルビッシュ(Großmürbisch)~ハーゲンスドルフ(Hagensdorf im Burgenland)~モッシェンドルフ(Moschendorf)~ガース(Gaas)の突出部の維持は不可能となり、第3戦車軍団と第4SS戦車軍団の守備隊は西方のラフニッツ川の防衛線へと撤退しました。
17.ギュッシング~イェンナースドルフ地区の防衛戦/第6軍戦区
第4SS戦車軍団はオーストリア国境手前のケルメンド(Körmend)~ピンカミンドセント(Pinkamindszent)~セントゴットハールド(Szentgotthárd)地区の防衛線ではソ連軍第26軍/第104狙撃兵軍団と第27軍/第33狙撃兵軍団の攻撃に対して激しく抵抗しており、この地区では10日間にわたり膠着状態となりました。
第4SS戦車軍団を追撃していたゴヴォルネンコ将軍のソ連軍はこの防衛線を迂回してラープ川沿いに西に前進し、イェナースドルフ(Jennersdolf) 地区でオーストリア国境を越えてさらに南東に進んでノイハウス(Neuhaus am Klausenbacch)~カルヒ(Kalch) 地区へと前進しました。
カルヒ地区の「帝国陣地」ではムラウ(Murau)の国民突撃大隊があっというまに粉砕され、グラーツ地域(Graz-Land)の国民突撃大隊は圧倒的な戦力差ですぐに降伏し、近隣にいたイェナースドルフ(Jennersdorf)の国民突撃大隊は逃走しました。それでもリーツェン(Liezen)の国民突撃大隊とイェナースドルフの税関国境警備隊(Zollgrenzschutzkompanie Jennersdorf)は高射砲部隊の支援を受けながら踏み止まりました。
3月31日、ソ連軍は約50両の戦車を伴ってカプフェンシュタイン(Kapfenstein)地区からグライヒェンベルク(Gleichenberg/現Bad Gleichenberg)地区へと進撃し、4月1日にはさらに北上してフェーリング(Fehring)~フェルトバハ(Feldbach)地区を占領しました。
この地区を防衛する第1騎兵軍団は3月31日にシュトラーデン(Straden)地区に緊急輸送された「SS第14武装擲弾兵師団(ウクライナ第1)」により4月1日に反撃を行い、前日にソ連軍が占領したばかりのシュトラーデン地区周辺の高地を奪回し、さらに要衝のグライヒェンベルクを奪回することに見事成功しました。
3月23日の作戦会議で初めてウクライナ人SS師団の存在を聞いたヒトラー総統は師団を武装解除して軍団後方地域で編成中の「第10降下猟兵師団」に装備を引き渡すよう命令しましたが、この戦功により武装解除の話は立ち消えになったようです。
4月3日、ソ連軍第18戦車軍団はウィーン攻撃のために引き抜かれ、これによりラープ渓谷~グラーツに向けての進撃の圧力はやや低減されました。この機に第4SS戦車軍団は反撃を実施し、第3戦車師団はハンガリーのケルメント地区西方のヴァツセントミハーイ(Vasszentmihály)~レーノーク(Rönök)地区を奪還し、第113機甲擲弾兵連隊はオーストリア側のハイリゲンクロイツ(Heiligenkreuz im Lafnitztal)地区を奪還し、ドイチュ・ミニホーフ(Deutsch Minihof)~インツェンホーフ(Inzenhof)地区の帝国陣地を奪還し、4月11日まで維持しました。
4月10日、ソ連軍は数日間の準備の後ラーフ川沿いのドイツ軍突出部への攻撃を開始し、第37狙撃兵軍団はハイリゲンクロイツ(Heiligenkreuz im Lafnitztal)地区を再び占領しました。これによりハイリゲンクロイツ~インツェンホーフ~グロースミュルビッシュ(Großmürbisch)~ハーゲンスドルフ(Hagensdorf im Burgenland)~モッシェンドルフ(Moschendorf)~ガース(Gaas)の突出部の維持は不可能となり、第3戦車軍団と第4SS戦車軍団の守備隊は西方のラフニッツ川の防衛線へと撤退しました。
第4SS戦車軍団が最後まで防衛を続けていたハンガリー領のラーバフューゼス(Rábafüzes)地区とネメスメドヴェシュ(Nemesmedves)~ピンカミンズセント(Pinkamindszent)地区の丘陵地帯もついに放棄され、4月12日にソ連軍がピンカミンズセント地区に残ったDénes-MajorとKapuy-Majorの二つの村を占領したことでハンガリー領内での戦闘は完全に終了し、オーストリアのブルゲンラント州南部でも戦闘が終結しました。
18.ムール川の防衛線/第2戦車軍戦区
4月4日、ソ連軍第57軍は第1騎兵軍団の守るラトカースブルク(Radkersburg)地区のムール川沿いの防衛線で戦闘が始まり、この戦区を守る第23戦車師団、第138山岳連隊に加えて第4騎兵師団と擲弾兵連隊「ホッホ・ウント・ドィッチェマイスター」も増援に投入されました。
4月6日にはラトカースブルク地区北方のクレッヒ(Klöch)~ザンクト・アンナ(Sankt Anna am Aigen)地区でソ連軍の攻撃が始まり、激戦が展開されました。4月8日、ソ連軍は第6狙撃兵軍団と第64狙撃兵軍団をシュトラーデン(Straden)~ピヒラ(Pichla)~クロッヒ(Klöch)~ツェルティング(Zelting)地区に投入し、翌4月9日には第73親衛狙撃兵師団がクロッヒ地区を攻撃しました。
4月11日の時点で第1騎兵軍団の防衛線はプルクラ(Purkla)~ラドハン(Radochen)~シュトラーデン(Straden地区の東の線まで後退していましたが、南のラトカースブルク(Radkersburg)地区では第22山岳軍団の第9SS戦車師団Hohenstaufenの一部がムール川東岸に小さな橋頭堡を維持していました。しかしこの橋頭堡も4月17日夕方には放棄され、ラトカースブルクは13日間の防衛線後の4月17日に陥落しました。
ソ連軍は4月6日に南西部の戦線から有力な部隊をウィーン攻略作戦のため引き抜き、第2戦車軍はムール川の防衛線で体制を立て直すことができました。ここで第6軍右翼の第1騎兵軍団は第2戦車軍に移管され、第2戦車軍右翼のドラバ川沿いの防衛線ではフリダウ(friedau/現スロベニア/Ormož)地区以東をE軍集団の部隊と交代して戦線が整理されました。
第2戦車軍(1945年4月12日現在)
第1騎兵軍団
・第10降下猟兵師団(編成中)
・第117猟兵師団
・第3騎兵師団
・第14SS機甲擲弾兵師団(ウクライナ第1)
・第44歩兵師団
・第23戦車師団
第22山岳軍団
・第9SS戦車師団Hohenstaufen師団戦闘団
・第16SS機甲擲弾兵師団RFSS師団戦闘団
・セント・ラースロー師団
・第118猟兵師団
第68軍団
・第13SS武装山岳師団Handschar
・第4騎兵師団
・第297歩兵師団
・第71歩兵師団
ハンガリー軍の「セント・ラースロー師団」もついにハンガリー領を離れてムール川南岸のウンターシュタイアーマルク(Untersteiermark)地方に足を踏み入れ、同時に第1騎兵軍団から第22山岳軍団に移管されてリュトメル(Ljutomer)地区のムール川沿いの防衛線に布陣しました。
4月3日の時点で師団の兵力は1,500~1,600名で、深刻な兵力不足を補うため3月末までに大損害を被っていたハンガリー軍歩兵師団は解隊されて補充兵として編入され、「マルギット陣地」の防衛戦で大損害を被った「要塞大隊」や第20突撃砲大隊の残余、ラーバ川の防衛戦で大損害を被った「空軍ライフル連隊第2大隊」と「空軍ライフル予備連隊」の残余もムール川の防衛線に到着し、順次師団に編入されました。
第22山岳軍団の戦区は比較的平穏で、4月30日までに配属師団はセント・ラースロー師団と第297歩兵師団のみとなりましたが、そのまま終戦を迎えました。しかしセント・ラースロー師団にはオーストリアの英軍占領地域を目指す最後の戦いが待っていました。
→セント・ラースロー師団【後編】はこちら
19.後始末
3月23日以来、第6SS戦車軍と第6軍はハンガリーからオーストリア領内への撤退を余儀なくされ、3月16日~4月1日の撤退中の戦闘で第6SS戦車軍はソ連軍戦車と自走砲352両を撃破したと報告し、第6軍も戦車と自走砲299両を撃破したと報告しました。しかしドイツ軍側の損失も同様に大きく、大部分は燃料不足や故障により爆破・放棄されたものでドイツ軍にとっては補充の効かない損失でした。
ウィーンを守るのは第6SS戦車軍の第1SS戦車軍団と第2SS戦車軍団の残余を中心としてウィーン周辺の後方部隊や訓練部隊、それにハンガリー第2戦車師団残余、第20歩兵師団の1個大隊、第1山岳師団の残余、SS連隊「ネイ」の1個大隊などを中心とするハンガリー第1軍の主力とハンガリー第1騎兵師団の残余であり、「春の目覚め作戦」とその後の後退戦で大損害を被ったドイツ・ハンガリー軍の残りかすの寄せ集めでした。
4月2日にはウィーンの防衛戦が始まり、4月4日には「春の目覚め作戦」失敗の責任者として南方軍集団のオーットー・ヴェーラー(Otto Wöhler)歩兵大将は解任されましたが、後任となったロタール・レンデユリック(Lothar Rendulic)上級大将もなすすべはなく、もはや戦争の帰趨は決していました。
【補足-3】
ウィーナー・ノイシュタット士官学校の正式名称は「テレジア軍事アカデミー」(Theresianische Militärakademie)で、1751年12月14日に女帝マリア・テレジアにより『至高の勅令により、ウィーナー・ノイシュタットの侯爵城に軍事アカデミーを設立するよう命じた』との布告によりウィーナー・ノイシュタット城内に設立されました。
ドイツによるオーストリア併合後は1938年11月10日~1939年8月22日の間はエルヴィン・ロンメル(Erwin Rommel)大佐(当時)も校長を勤めました。
出典:https://de.wikipedia.org/wiki/Theresianische_Milit%C3%A4rakademie
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2026.9.16 新規作成
2026.9.17 13章で一部追記