春の目覚めの後始末【前編】
1945年3月、ハンガリーのバラトン湖とヴェレンツァ湖の間から発起された乾坤一擲の「春の目覚め作戦」は結局失敗し、ドイツ軍は敗北への道を転げ落ちてゆきました。3月16日にソ連軍が「ウィーン作戦」を開始するとドイツ軍はオーストリア国境を目指して撤退を開始したのですが、それでは作戦中止後の撤退戦はどんな戦いだったのでしょうか。
1.春の目覚め作戦
1945年3月6日、バラトン湖北西地域に密かに終結したドイツ軍第6SS戦車軍と第6軍/第3戦車軍団を主力として「春の目覚め作戦」がバラトン湖とヴェレンツァ湖の間から発起され、左翼は北東~東に向けて進撃してブダペストとダニューブ川(ドナウ川)への突破を目指し、右翼は南東に進撃してザルビッツ運河に沿って進撃し、やはりダニューブ川到達を目指しました。同時に第2戦車軍はバラトン湖の南岸から東に向けて攻撃し、ユーゴスラヴィアからはE軍集団の第91軍団が北に向けて進撃して、あわよくばダニューブ川西岸からソ連軍を追い落とす壮大な目標が設定されていました。
しかし「春のめざめ作戦」の進撃は悪天候による泥濘と燃料不足、そして決定的な兵力不足によりすぐに行き詰まり、3月16日にソ連軍の「ウィーン作戦」が開始されるとドイツ軍は3月18日には作戦を中止して撤退を開始しました。
1945年3月16日、セーケシュフェヘールバール(Székesfehérvár)地区の第4SS戦車軍団はソ連軍の最初の猛攻をなんとか食い止めましたが、3月17日になると北はベルデス (Vertes)山地のタタバーニャ(Tatabánya)地区から南はセーケシュフェヘールバール(Székesfehérvár)北側のザモリ(Zámoly)地区までの幅約30kmのソ連軍突破口が形成されました。ソ連軍はベルデス山地のハンガリー第3軍戦区で突破し、タタバーニャ~タタ(Tata)~コマーロム(Komárom)方面へと進撃していました。
ソ連軍第2ウクライナ戦線/第46軍の攻撃に対してベルデス山地ではハンガリー第1騎兵師団が抵抗しており、大損害を被りながらも陣地を維持していましたが、17日の午後には師団は弾薬不足に加えて近隣部隊や上級司令部との連絡も途絶し、午後遅くには無警戒のソ連軍対戦車砲中隊をまるごと捕獲する珍事もおこりました。
これは近隣の味方部隊が撤退、あるいは撃破されて戦闘がなくなった証拠でもあり、第1騎兵師団は包囲を避けるため夕方にはベルテス山地西側のケチケード(Kecsked)~ボコド(Bokod)~バコニシャールカーニ(Bakonysarkany)地区の新防衛線へと後退しました。
南方軍集団としては「春の目覚め作戦」の主力である「第6SS戦車軍」はセーケシュフェヘールバール(Székésfehérvár)地区まで後退して再編成し、第1SS戦車軍団がセーケシュフェヘールバール~ザモリ(Zámoly)地区で反撃してソ連軍先鋒部隊の後方を遮断し、第6戦車師団がモール(Mór)地区でベルテス山地のソ連軍を足止めしている間に第2SS戦車軍団がキシュベール(Kisbér)地区に集結して第2SS戦車師団Das Reichがコマーロムへの進撃を阻止したのち、第9SS戦車師団Hohenstaufenがモール(Mór)~コチ(Kocs)地区でソ連軍を押し戻す計画でした。
このためバラトン湖~ヴァレンツ湖の戦線は第6軍の管轄に、ヴァレンツ湖~ダニューブ川間の戦線は第6SS戦車軍の第1SS戦車軍団、第2SS戦車軍団及びハンガリー第3軍の管轄に変更されましたが、ソ連軍の進撃速度はあらゆる計画を覆し撤退戦のさなかに出された南方軍集団によるこの交代命令は更なる混乱を引き起こすこととなりました。
ドイツ軍戦闘序列(春の目覚め作戦開始時)
第6軍
第3戦車軍団
・第1戦車師団
・第3戦車師団
・第6戦車師団
・第356歩兵師団
第4SS戦車軍団
・第3戦車師団
・第5SS戦車師団Wiking
第6SS戦車軍
第1SS戦車軍団
・第1SS戦車師団LSSAH
・第12SS戦車師団Hitlerjugend
第2SS戦車軍団
・第2SS戦車師団Das Reich
・第9SS戦車師団Hohenstaufen
・第23戦車師団
・第44帝国擲弾兵師団Hoch und Deutschmeister
第1騎兵軍団
・第3騎兵師団
・第4騎兵師団
・ハンガリー第25歩兵師団
・ハンガリー第20歩兵師団
2.セーケシュフェヘールバール地区の戦い/第6SS戦車軍戦区
3月17日に第6SS戦車軍は突出部からの撤退を始めましたが秩序ある撤退はもはや不可能な状況となり、多くの車両が泥の中に放棄されました。セーケシュフェヘールバール地区では第4SS戦車軍団/第5SS戦車師団Wikingが頑強に抵抗しており、第2SS戦車軍団/第2SS戦車師団Das Reichも3月18日まで陣地を守り続けました。
第1SS戦車軍団はヴァールパロタ(Várpalota)地区に集結してセーケシュフェヘールバール北側のモール(Mór)地区で第6軍の旧防衛線を回復するべく攻撃を開始しましたがこの攻撃は成功せず、ソ連軍の突破口を塞ぐことはできませんでした。この時点でソ連軍は幅35km、奥行き15kmの突破口を形成しており、ソ連軍は第6SS戦車軍の攻撃を阻止するためこの戦区に第6親衛戦車軍を投入しました。
3月19日になるとソ連軍はセーケシュフェヘールバール地区の防衛線を突破し、西側のヴァールパロタ地区へと進撃し、また北部ではベルデス (Vertes)山地のタタバーニャ(Tatabánya)地区が3月18日夕方までには占領され、3月19日にはタタ(Tata)~コチ(Kocs)~モクサ(Mocsa)地区を占領してダニューブ川の要衝であるコマーロム(Komárom)地区に向けて進撃していました。
第2SS戦車軍団主力の第2SS戦車師団Das Reichはコマーロム地区に向けて進撃するソ連軍第46軍を阻止するため、第6戦車師団及び第356歩兵師団とともにヴァールパロタ地区からベルデス山地のキシュベール(Kisbér)地区に向けて反撃を行いました。
第2SS戦車師団Das Reichの第3SS機甲擲弾兵連隊は数両の戦車とともに進撃し、戦車は泥にはまりましたが歩兵による攻撃は順調に進展し、わずか1日でジェール(Győr) 地区南東のキシュベール(Kisbér)地区の集結地まで達することができましたが後続部隊が続きませんでした。
第2SS戦車師団Das Reichの主力はセーケシュフェヘールバール南方のザバドバティアン(Szabadbattyán)~ナーダスドラダーニ(Nádasdladány)地区に集結しましたが燃料不足のため攻撃は中止され、師団はベスプレーム地区まで後退したあと鉄道輸送によりジェール(Győr)地区に移動しました。
3月19日、ソ連軍第6親衛戦車軍は装甲車両×423両をもってセーケシュフェヘールバール北西のバリンカ(Balinka)~グッタマス(Gúttamási)地区で攻撃を行い、第9軍と協力してベスプレーム~バラトンフズフォ(Balatonfűzfő)~ベルヒダ(Berhida)地区でドイツ軍を包囲しようとしていました。
この突進は第1SS戦車師団LSSAH、第3SS戦車師団Totenkopf、第5SS戦車師団Wiking、第12SS戦車師団HJの戦闘団に阻止され、19日の夕方までに第6親衛戦車軍はわずか6~8kmしか前進できませんでした。しかしバラトン湖~ヴァレンツ湖間の戦線から後退中の第6SS戦車軍はソ連軍の急進撃により包囲の危機にあり、すでに第6軍司令部やハンガリー第3軍司令部との連絡も途絶しており戦況は不透明でした。
3月19日の夕方までにソ連軍はヴァレンツ湖の南側に第4親衛軍、北側に第9親衛軍を増強し、第6親衛戦車軍の前進に呼応して3月20日の朝にはさらにセーケシュフェヘールバール~バラトン湖間の戦区に第26軍と第27軍も投入されました。この二個軍は第1騎兵軍団のハンガリー第25歩兵師団戦区を攻撃しましたが、師団は激しく抵抗して第1騎兵軍団の後退を援護しました。
3月20日朝までに第1SS戦車軍団の第1SS戦車師団LSSAHと第12SS戦車師団HJがペスプレーム地区北側へと撤退し、第2SS戦車軍団の第9SS戦車師団Hohenstaufenと第2SS戦車師団Das
Reichもこれに続き、防衛線は第44帝国擲弾兵師団Hoch-und Deutschmeisterと第3戦車師団に引き継がれました。
セーケシュフェヘールバール南東~ヴァレンツ湖南方のセルゲリエス(Seregélyes)地区は第1戦車師団がなおも突出部を保持していましたが、3月20日夕方までについに撤退し「春の目覚め作戦」再開の希望は最終的に粉砕されました。
3.コマーロム地区の危機/ハンガリー第3軍戦区
北部のハンガリー第3軍戦区では3月18日からソ連軍第2ウクライナ戦線/第46軍の攻撃が始まり、ベルデス (Vertes)山地のタタバーニャ(Tatabánya)地区は3月18日夕方までに占領され、ソ連軍はタタ(Tata)~コチ(Kocs)~モクサ(Mocsa)地区を占領してダニューブ川の要衝であるコマーロム(Komárom)地区に向けて進撃していました。
ハンガリー第3軍(1945年3月6日現在)
・ハンガリー第23予備師団
・第711歩兵師団
・第96歩兵師団
・第6戦車師団の一部
・ハンガリー第1騎兵師団
3月20日正午にはソ連軍第2親衛機械化旅団がダニューブ川沿いのコマーロム(Komárom)の東方わずか5kmのアルマースフュジテー(Almásfüzitő)地区に達してハンガリー第3軍のハンガリー第23予備師団の主力、ドイツ第96歩兵師団、第711歩兵師団、第37SS騎兵師団の戦闘団「アマイザー」(Kampfgruppe
Ameiser)、第92機甲擲弾兵旅団、機関銃大隊「Mark」、第6戦車師団の1個大隊など合計約17,000名が「ダニューブ川橋頭堡」に包囲され、ダニューブ川北岸はまだドイツ軍の支配下にありましたが、ここでもソ連軍第2ウクライナ戦線が攻撃を強めていました。【補足-2】
3月20日の夜明け、鉄道輸送された第2SS戦車師団Das Reichの第2SS偵察大隊と第2SS高射砲大隊からなるフランツ=ヨーゼフ・ドライケ(Franz-Josef
Dreike)SS中尉の戦闘団が先遣隊としてコマーロム地区南方約12kmのナジグマンド(Nagyigmánd)地区に到着し、その後キシュベール(Kisbér)~ナジグマンド地区に師団本隊が順次到着しました。
第4SS機甲擲弾兵連隊は19日/20日の夜にベスプレーム~テート~Ménfőcsanak~ジェールの経路で夜間行軍し、20日夜明けにはナジグマンド西方のBábolna地区に到着しました。一方第3SS機甲擲弾兵連隊は戦闘に巻き込まれてまだ合流はできていませんでした。
3月21日、第4親衛機械化軍団はダニューブ川沿いのネズメーイ(Neszmély)を、第75狙撃兵軍団の第180狙撃兵師団はタタバーニャ南方のフェルショーガラ(Felsőgallát)地区を占領しました。3月21日夜、ドイツ軍はタルカーニ(Tárkány)地区に約130両の装甲車両を集めて包囲を突破しようとしましたが、ソ連軍は予備兵力を投入して攻撃を撃退しました。
包囲陣東側のタート(Tát)~トコド(Tokod)地区では3月20日未明にソ連軍第83海兵大隊がダニューブ川からの敵前上陸に成功し、ソ連軍第46軍は3月24日までにこの地区でドイツ第711歩兵師団とハンガリー第23予備師団に壊滅的な大損害を与えました。
また橋頭堡の南側では3月22日にソ連軍第46軍がジェール(Győr)方面への攻撃に備えてシェンド(Szend)~ザーク(Szák)地区に兵力集結していました。ドイツ軍はコマーロム地区に北岸の第8軍から戦車軍団FHHを派遣して防衛を強化し、ダニューブ川橋頭保に残っていた第96歩兵師団、SS戦闘団「アマイザー」、第92機甲擲弾兵旅団などの残存部隊は3月末までにダニューブ川北岸へと収容され第8軍の指揮下に移管されました。
Want the perfect back drop for your wedding photos? How about a Totenkopf Panther at Lábatlan in Hungary 1945 or 1946. pic.twitter.com/6vwKlbvULB
— Voices of WW2 (@VoicesofWW2) December 29, 2025
↑終戦直後に撮影された教会近くで放棄されたパンター戦車で、Lábatlan地区ならまさに「ダニューブ川橋頭堡」の場所なのだが、コンラート作戦以来何度も戦場になっているのでどの戦闘で放棄されたかは何とも言えない。
4.包囲の危機/第6SS戦車軍戦区
3月20日の時点でバラトン湖の北岸のジルク(Zirc)~ベスプレーム~バラトンフズフォ(Balatonfűzfő)地区の防衛線ではセーケシュフェヘールバール地区から撤退した第1SS戦車軍団の第12SS戦車師団HJと第1SS戦車師団LSSAH、第5SS戦車師団Wikingの第9SS機甲擲弾兵連隊Germaniaの残余が防衛線を構築していましたが、ジルク地区以北のバコニー(Bakony)山地の丘陵地帯では「セント・ラースロー師団」の降下猟兵連隊が警戒線を構築しているにすぎませんでした。
一方パーパ地区で再編成中の「セント・ラースロー師団」にも3月20日に出撃命令が下り、バラトン湖北岸のチョパク(Csopak)~バラトンフュレド地区へと進出し、第4SS戦車軍団の残余を中心に編成された「バルク集団」に編入されました。
バルク集団
Gruppe Balck
・第3SS戦車師団
・第9SS戦車師団
・第5SS戦車師団Wikingの一部
第10SS機甲擲弾兵連隊Westland
・第23戦車師団
・セント・ラースロー師団
・ハンガリー第20歩兵師団
3月21日になってもヒトラー総統は第6SS戦車軍に対してセーケシュフェヘールバールの死守を命令しましたが、第6SS戦車軍のデートリッヒSS上級大将はその命令を無視し、ソ連軍による包囲を避けるために西方への撤退を開始していました。第9SS戦車師団は激戦の末にオシ(Osi)地区を放棄し、第19SS機甲擲弾兵連隊と第20SS機甲擲弾兵連隊は後退を開始しました。その西側のペトフュルデ(Pétfürdő)~ベルヒダ(Berhida)地区では第9SS高射砲大隊が多数のソ連軍戦車を撃破し、第9SS戦車連隊は1日で少なくとも70両以上のソ連軍戦車を撃破しました。
ソ連軍はセーケシュフェヘールバール地区を攻撃すると同時に防衛線をすり抜けた部隊はさらに西進し、約30km西方のハイマルケル(Hajmáskér)地区を経由してベスプレーム東方のカダルタ(Kádárta)~リットル(Litér)地区を占領しました。
バラトン湖まではあと5km!
ここに至り第5SS戦車師団Wikingはついにセーケシュフェヘールバール地区を放棄して後退を開始しましたが、バラトン湖との間の地域では他にも第1戦車師団残余、第44帝国擲弾兵師団Hoch- und Deutschmeister及び第96砲兵連隊の一部などの残存部隊に包囲の危機が迫りました。
3月22日正午、バラトン湖東側のクンゴシュ(Küngös)地区ではソ連軍第26軍と第27軍がついに手を結び、突出部の部隊の退路が遮断されると共に第1騎兵軍団の主防衛線にも危機が訪れました。この危機に際して第6軍司令部と第1騎兵軍団司令部は直ちに反撃を命じ、新着の戦闘団「ネーメト」(Kampfgruppe
Németh)と第9SS戦車師団の一部が投入されました。
5.包囲突破戦/第6SS戦車軍戦区
戦闘団「ネーメト」は「セント・ラースロー師団」のうち最初に戦闘地域に到着したネーメト・フェレンツ(Németh Ferenc)中佐が指揮する戦闘団で、第20突撃砲大隊第3中隊の増強を受けて3月22日1600時に第4SS戦車軍団戦区に投入されました。
戦闘団「ネーメト」
Kampfgruppe "Németh"
指揮官:ネーメト・フェレンツNémeth Ferenc中佐
偵察大隊の重対戦車砲中隊
擲弾兵連隊第1大隊の一部(おそらく第1中隊と第3中隊)
第20突撃砲大隊第3中隊:ヘッツァー装備
3月22日の2000時に開始されたソ連軍の激しい攻撃は23日の夜明けとともに第1騎兵軍団戦区のバラトンフズフォ(Balatonfűzfő)地区の北東に加えられ、第4騎兵師団が攻撃の矢面に立たされましたが、第41騎兵連隊と戦闘団「ネーメト」は第24戦車連隊第1大隊のパンター戦車と第20突撃砲大隊のヘッツァーに支援されてこの攻撃を跳ね返しました。
戦闘団「ネーメト」は第4騎兵師団の第41騎兵連隊とともにヴィローニャ(Vilonya)地区北部に投入されて包囲部隊の撤退を援護し、第9SS機甲擲弾兵連隊Germaniaはヴィローニャ地区からクンゴシュ地区まで前進して包囲陣に約3kmの回廊を確保し、包囲部隊の退路を確保しました。
包囲部隊は3月23日0200時に突破を開始し第1戦車師団、第3戦車師団、第44帝国擲弾兵師団Hoch- und Deutschmeister、ハンガリー第25歩兵師団の残存部隊はドイツ軍戦線に合流できましたが、その損害は大きく第1戦車師団の場合3月22日の時点で10,436名であった兵力はわずか250~260名にまで減少していました。
第1戦車師団に配属された第509重戦車大隊は3月22日にポルガルディ(Polgárdi)~イェノー(Jenő)地区で回廊を確保するため突破部隊を援護し、22日/23日の夜にシャーンドルカ地区に移動しました。23日にはクツゴシュ(Küngös)~パプケズィ(Papkeszi)地区で敵戦車部隊に側面攻撃を加えてバラトンフズフォ(Balatonfűzfő)地区へと突破し、3月24日にチョパク(Csopak)地区に後退しましたが、それまでの戦闘でティーガーII戦車×3両が全損する損害を被り、大隊の保有戦車数は27両となっていました。
戦闘団「ネーメト」は23日1300時~1400時まで陣地を維持してリットル(Litér)~バラトンフズフォ地区への幹線道路を封鎖し、バラトンフズフォ地区では戦闘団と増援の戦車により支援された守備隊がソ連軍を迎え撃ち、ソ連軍戦車×11両を撃破して突破を阻止しました。しかしソ連軍先鋒部隊は南西のバラトンナルマディ(Balatonalmádi)地区のさらに背後にも進出したため、守備隊は新たな防衛陣地に後退しました。
こうしてソ連軍の『第6SS戦車軍の包囲・殲滅』の作戦目標は失敗に終わりましたが、先鋒部隊はバラトンナルマディ(Balatonalmádi)地区まで進出し、ベスプレーム~キシュベール地区の線まで進出したことで「ウィーン作戦」の第一段階は完了しました。
一方ドイツ軍では本来は第6SS戦車軍に配属される第9SS戦車師団と第1SS戦車師団LSSSAHの一部は防衛線維持のため第6軍戦区に留め置かれ、第6SS戦車軍からの抗議にも拘わらず第6軍司令官のバルク大将はこれを拒否し続けましたが、3月23日1135時に第9SS戦車師団からの『師団は完全に壊滅した』という無線連絡により無意味な争いになりました。
第1SS戦車師団LSSSAHは第6SS戦車軍の命令で第6軍の許可なく撤退し、第9SS戦車師団の残余は最後まで第6軍に留まりましたが、第6SS戦車軍と第6軍には物質的にも感情的にも「隙間」ができ、防衛線に分断の危機が訪れていました。
6.バラトン湖北岸の後退戦/第6軍戦区
3月23日にソ連軍はベスプレームを占領し、守備隊の第3戦車師団は市街から約1km西側の新防衛線へと後退しました。ソ連軍はベスプレーム~グラーツ地区間の主要道路(8号線)沿いに西に向けて進撃しており、ドイツ軍の退路はバラトン湖沿いの道路に限定されることになりました。
3月24日、「セント・ラースロー師団」は第4SS戦車軍団から第1騎兵軍団に転属となり、24日夜にはアソーフゥー(Aszófő)地区で軍団予備として待機しましたが、すぐに約15km後方のザンカ(Zánka)地区へと後退しました。
第6軍司令官のバルク大将は「セント・ラースロー師団」に1944年12月の『ガラム川の奇跡garami csodát』と呼ばれる犠牲的戦闘の再現を期待していたのは明らかで、敗走するドイツ軍部隊を再編成して一息つくために「セント・ラースロー師団」に足止め役として犠牲になることを求めていました。
3月25日の深夜、ハンガリー第2軍団司令部と直轄部隊がドイツ軍第1騎兵軍団に編入され、軍団左翼の第4SS戦車軍団との接続部を強化するため「セント・ラースロー師団」はモノストラパティ(Monostorapáti)地区に移動し、25日/26日の夜に軍団の再編成が行われました。
「セント・ラースロー師団」はここで第4SS戦車軍団の第3SS戦車師団、第5SS戦車師団、第3戦車師団の残余と交代する命令を受けましたが、交代予定の3個師団の兵力はそれぞれ300~400名程度で、対戦車砲は1門もなくソ連軍2~3個軍団と対峙していることがわかりました。
このため「セント・ラースロー師団」司令部は命令を無視して即時の後退を決断し、3月26日の朝にはモノストラパティ地区を出発し、タポルツァ地区の新防衛線を目指しました。これを知ったドイツ第1騎兵軍団のハイテネック大将は激怒しましたが、3月26日にはバラトン湖南西端のケストヘイ(Keszthely)地区がソ連軍に占領されて撤退路が遮断された可能性もあり、実際にこの撤退は包囲を逃れるためには間一髪のタイミングでした。
3月26日/27日の夜、師団は第1騎兵軍団予備としてザラシャント(Zalaszántó)地区に集結し、ケストヘイ~カルマック(Karmacs)~クスタニ(Kustány)地区ではケストヘイ地区から北上するソ連軍に対して「セント・ラースロー師団」と第20歩兵師団の一部、ハンガリー第2軍団直轄部隊の残余が薄い防衛線を引いていましたが、この方面のソ連軍の兵力は少なくなんとか戦線を支えていました。
その後第1騎兵軍団はタポルツァ(Tapolca)~ザラシャント(Zalaszántó)~ケヒダ(Kehida/現Kehidakustány)地区へと後退しザラ川東岸に橋頭堡を築いて遅滞戦闘に努めましたが、3月29日には橋頭堡が放棄されて南西に向けて後退し、その後も追撃してくる敵に遅滞戦闘を行いながら4月2日には敵から離脱してオーストリア国境~ムール川沿いで新しい防衛線を構築することができました。
7.ラーバ川東部地区の防衛戦/第6SS戦車軍戦区
3月24日の時点でも第6SS戦車軍は海軍、空軍、帝国労働奉仕団(RAD)などから4,600名の補充兵を受取り、さらに補充兵1,400名と警察から2,190名の補充が計画されていた他に、3月23日には許可なく後退した兵士700名が前線に連れ戻されました。このうち第2SS戦車師団の兵力は約5,000名にまで減少していましたが、3月24日には海軍から2,800名の補充兵を受取ることができました。
バラトン湖の北方ではラーバ(Rába)川沿いに「ズザンナ(Zsuzsanna)陣地」の防衛線が構築されましたが、陣地は部分的に完成したのみであまり役には立ちませんでした。それでもラーバ川沿いには第1SS戦車軍団が防衛線を構築しており、幅約35kmの戦区には4個戦闘団(兵力は各400~500名で対戦車砲×8~10門、3.7cm対戦車砲×2門、迫撃砲×6門装備)が配備されました。【補足-1】
まだ戦闘力のあるハンガリー軍部隊はラーバ川~マルツァ(Marcal)川の防衛線に配備され、特に東部のパーパ~ジェール(Győr)地区はショプロン(Sopron)~ウィーナー・ノイシュタット(Wiener Neustadt)を経由してウィーン(Wien)方面へのソ連軍の進撃路にあたるため、チェコから移動してきたハンガリー1山岳旅団がアールパーシュ(Árpás)~ラバセチェニ(Rábacsécsény)地区の約10kmの防衛線に、第232戦車師団戦闘団がマルカツトーMarcaltö地区の防衛線に布陣しました。
またハンガリー第2戦車師団の第3歩兵連隊、ヴィトニェード(Vitnyéd)地区の突撃砲兵、ジェール(Győr)地区の野戦砲兵訓練・補充センターの警戒部隊、ネイ(Nay)SS中佐のSS連隊「ネイ」の一部もラーバ川の防衛線に布陣しました。このような努力にもかかわらず、3月25日になっても第6軍と第6SS戦車軍の隙間を埋めることが出来ませんでした。
ソ連軍は3月25日に「ウィーン作戦」の第二段階を開始し、第3ウクライナ戦線では第9親衛軍がパパ(Pápa)~ショプロン(Sopron)地区へと前進し、第26軍はバラトン湖北岸からソンバトヘイ地区へと前進し、バラトン湖の南ではドイツ第2戦車軍を封じ込めるために第27軍がザラエグルセグ地区へと前進しました。
第2ウクライナ戦線の第46軍はジェール地区を経由してノイジードル湖の北側の「ブルックス門」(Brucker Pforte)地域に第2SS戦車軍団を追い込み、ダニューブ川北岸では第7親衛軍と第53軍が歩調を合わせてスロヴァキアのブラチスラヴァ(Bratislava)方面へと前進を開始しました。
ラーバ川~マルツァ川沿いの防衛線ではドイツ・ハンガリー軍守備隊が3月26日朝からソ連軍第9親衛軍の部隊と戦闘に入り、ハンガリー第1山岳旅団の一部はマルツァ川の防衛線で敵戦車×13両を近接戦闘で撃破し、特にラーバ川沿いのラバセントミハイ(Rábaszentmihály)地区では激戦が展開されました。
第232戦車師団戦闘団には空軍重高射砲連隊の8.8cm高射砲も配属されて戦闘団「バック」(Kampfgruppe Back)とも呼ばれ、第556軍後方地域司令部(KoRück 556)の部隊とともにエジェド(Egyed)地区で踏みとどまり、数日間にわたり敵の強力な攻撃を受けとめました。
3月28日、第232師団戦車戦闘団は包囲を避けるために状況不明のまま西方へと後退し、部隊は包囲されてバラバラになりながらもその後パーリ(Pali)地区で再集結し3月末までに第1SS戦車軍団の残余とともにショプロン(Sopron)地区を経由してオーストリア国境地帯の「帝国陣地」(Reichsschutzstellung)へと後退しました。
ソ連軍の圧倒的な攻撃により大小の抵抗拠点は次々と攻略され、ソ連軍第23戦車軍団は残存戦闘車両がわずか32両となりながらも3月28日にラーバ川を渡河し、第1親衛機械化旅団がその日のうちにラーバ川から西方約13kmのチョルナ(Csorna)地区まで突進してこれを占領しました。第1SS戦車軍団戦線右翼のチェルドモルク(Celldömölk)地区でも第9親衛軍がマルツァ川を渡河し、第6軍と第6SS戦車軍の間防衛線に約15kmの隙間が生まれました。
第2SS戦車軍団が展開しているチョルナ(Csorna)~ジェール(Győr)地区のラーブ川沿いの戦区ではソ連軍は3月28日までにラーバ川を渡河し、さらにジェール地区の北側では第2SS戦車軍団とコマーロム地区の「ダニューブ川橋頭堡」との連絡が遮断され、橋頭堡は放棄されて守備隊はダニューブ川北岸へと撤退し残存部隊は第8軍に編入されました。
3月30日までに第2SS戦車軍団はノイジードル湖北側の「ブルッカー門地方」に、第1SS戦車軍団の第1SS戦車師団、第12SS戦車師団、第3SS戦車師団の残余はノイジードル湖南端~ゲマインデ・ニキッチ(Gemeinde Nikitsch)地区へと後退し両軍団はノイジードル湖の両側に分断されることになりました。
8.シャールバール地区のラーバ川防衛線
3月28日にソ連軍が突破したチェルドモルク(Celldömölk)の西方わずか15kmのシャールバール(Sárvár)地区には空軍司令部があり、ソンバトヘイ(Szombathely)地区防衛のためにラーバ川西部の防衛線に死に物狂いで兵力を送りこんでいました。
集められたのは空軍飛行学校の新兵訓練連隊や航空部隊のパイロットや地上要員であり、陸戦訓練もしていない素人指揮官の率いる貧弱な訓練と装備の小部隊群で、武器弾薬の慢性的な不足によりまともな戦闘力は期待できませんでした。それでもこれらの部隊は形式上「空軍ライフル連隊」の補充部隊として「セント・ラースロー師団」に配属されることになっていました。
セープラキ・イェネー(Széplaki Jenő)空軍中尉の場合、病院から退院するとすぐに16~17歳の飛行学校生徒を率いてラーバ川の橋を守る任務を与えられました。戦線が崩壊した際に部隊は夜の闇に紛れて運よく森に退避することができ、中尉はその後ツェルトベク(Zeltweg)~クラーゲンフルト(Klagenfurt)地区でイギリス軍に降伏しました。
イメクス・ヨージェフ(Imecs József)空軍中尉は3月1日に「メッサーシュミットBf109」の訓練を修了し、「第101(Puma)防空戦闘機師団」に配属予定でしたが、部隊に出頭前に空軍ライフル中隊の指揮官への転属命令を受けとり、ラーバ川防衛線に派遣されました。
中隊は武器もないまま約4kmの戦線に配備されましたが、中尉は10日後にタポルツァTapolca地区への転属命令を受けとり、後任の大尉に中隊を引き継いだためその後中隊の運命はわかりません。
「第2近距離偵察飛行隊」もそんな急造陸戦部隊の一つで、飛行隊は装備機材を「メッサーシュミットBf109」に改編中でしたが肝心の飛行機が到着せず、飛行隊はパイロット、整備士、写真技士、機銃整備係に教官パイロットも加わり陸戦部隊として改編され、ソンバトヘイ東方約15kmのヴァート(Vát)村の訓練飛行場防衛に派遣されました。
飛行隊はジュベール・エドウィン(Joubert Edwin)空軍大尉の指揮の下に兵力は約60名で軽火器しかありませんでしたが、飛行機から降ろした機関銃×8門の他に将校3名は機関短銃を装備しており、地上戦訓練は一切受けていないものの火力だけは強力な小部隊でした。
飛行隊は3月25日にソンバトヘイを出発しヴァート村に向かいましたが、到着時には守備隊は3月28日のソ連軍の攻撃で全滅して飛行場はすでに占領されていたため、飛行隊はここで8cm対戦車砲を装備した「セント・ラースロー師団」残余(おそらく空軍ライフル連隊第2大隊の残余?)とともにヴァート村の入口で防衛線を構築しました。
真夜中からソ連軍の迫撃砲の集中砲撃が始まり、夜明けまでに兵力の半数以上が失われその後のソ連軍の攻撃により飛行隊はばらばらとなり、生き残りは4月上旬にオーストリア国境まで後退し、ここで部隊は解隊したようです。
空軍飛行学校の「新兵訓練連隊」はケーセグ(Kőszeg)~ソンバトヘイ~シャールバール(Sárvár)~ケルメンド(Körmend)地区の橋頭堡の防衛戦に動員されましたが、3月29日にソンバトヘイが陥落すると連隊前余はオーストリア国境を目指して撤退し、4月1日にケルメンド西方のピンカミンスゼント(Pinkamindszent)地区で国境を越えた際に連隊は解隊され、残余の兵員はドイツ軍の第1国民山岳師団に半ば強制的に編入されました。
9.マルギット陣地西部地区での防衛戦/第2戦車軍戦区
バラトン湖の南側には「Margit(マルギット)陣地」の西側部分としてバボチャ(Babócsa)地区のリンヤ(Rinya)川~ナギャタド(Nagyatád)地区の養殖池~ラーボード(Lábod)~ミケ(Mike)~チョコリ(Csököly)~ヤコ(Jákó)~ナジバホム(Nagybajom)~メシュテグニシュ(Mesztegnyő)~マルカリ(Marcali)~バラトンケレスチュル(Balatonkeresztur)地区に至る陣地帯が構築され、第2戦車軍が寡兵ながらもソ連軍第57軍とブルガリア第1軍による攻撃を持ちこたえていました。
第2戦車軍(1945年3月1日現在)
第68軍団
・第71歩兵師団
・第13SS武装山岳師団Handschar(クロアチア第1)
第22山岳軍団
・第1国民山岳師団
・第118猟兵師団
4月1日1520時にマルギット陣地の防衛線もついに突破され、2000時にソ連軍はイハロスベレニ(Iharosberény)の東にある油田地帯に到達しました。4月2日午前0時、第2戦車軍の守備隊はリスペ(Lispe)油田の占領を遅らせるためナジカニジャ(Nagykanizsa)の運河地帯~ミクロスファ(Miklósfa)の養殖池~バイチャ(Bajcsa)~フィチェハザ(Fityeház)~ムラケレストゥール(Murakeresztúr)地区に構築された「Dorottya(ドロッティア)陣地」へと後退しました。
4月2日午後早くにはブルガリア第1軍の部隊はミクロスファを占領してさらに進撃しましたが、ミクロスファ~フィティエハザ~ムラケレストゥール地区の新防衛線で進撃は失速しました。
「マルギット陣地」には北トタンシルバニア地方から撤退した国境警備中隊から1944年1月に編成された「ハンガリー要塞大隊」も配備されていました。
・第211要塞大隊
・第212要塞大隊
・第213要塞大隊
・第214要塞大隊
・第215要塞機関銃大隊
・第216要塞機関銃大隊
・第217要塞機関銃大隊
・第218要塞機関銃大隊
・第219要塞砲兵大隊
・第220要塞砲兵大隊
このうち第217要塞機関銃大隊のようにケストヘイ(Keszthely)防衛の市街戦で2回にわたりソ連軍を撃退し、大隊長のCzegle János大尉と部下数名がドイツ軍から二級鉄十字章を授与されたような部隊もありましたが、ほとんどの部隊は防衛戦で大損害を被り、ムール川を越えて撤退に成功した残存部隊は「要塞連隊」として再編成され「セント・ラースロー師団」に編入されました。
第2戦車軍の第22山岳軍団と第68軍団は遅滞戦闘を行いながら西方のオーストリア国境へと撤退しましたが、ソ連軍はすでにマールブルク(Marburg/現Maribor)~グラーツ(Graz)地区に向けて進撃する動きをみせており、第2戦車軍だけでなくユーゴルラビアのE軍集団の背後を脅かすものと考えられていました。
ハンガリーの南西部~クロアチアとスロベニア北部の国境地帯であるムール川の北側はクロアチアとスロベニア北部からハンガリーに併合され「ムラコズ(Muraköz)地方」と「ムラヴィデク(Muravidék)地方」と呼ばれる地域でしたが、いまやドイツ・ハンガリー軍はムール川を越えてスロベニア北部のドイツ本土併合地域である「ウンターシュタイアーマルク」(Untersteiermark)地方に入っていました。
ムール川沿いには古い防衛陣地が構築されており、第2山岳軍団の守備隊は直ちに陣地に入ることができましたが川沿いの湿地帯では兵士は湧水や雨水に加えて害虫や蚊とも戦わなければなりませんでした。
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【補足-1】
ズザンナ(Zsuzsanna)陣地
バラトン湖北方のトランスダヌビア地方に建設された陣地帯で、帝国陣地の前哨陣地として約80Km~100Km手前のラーバ川に沿って建設され、北東はジェールGyőr地区のダニューブ(ドナウ)川~ラバセントミハイ(Rábaszentmihály)~モリヒダ(Mórichida)~ラバセントアンドラーシュ(Rábaszentandrás)~シャールバール(Sárvár)~ラバヒドヴェーグ(Rábahidvég)~ケルメンド(Körmend)地区まで続き「帝国陣地」に接続していました。
建設工事は1944年9月に始まり工事には多数の地元住民と強制労働のユダヤ人約75,000名が動員されました。しかし作業はほぼ完全に手作業で行われたため遅々として進まず、ソ連軍の進撃により1945年2月に中止され、約半年間の工事では完成しませんでした。
出典:https://kenyeri.blog.hu/2019/04/26/zsuzsanna_vonal
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【補足-2】
SS戦闘団「アマイザー」
SS Kampfgruppe Ameiser
この戦闘団は1945年2月25日、第37SS義勇騎兵師団の第92SS義勇騎兵連隊、第37SS砲兵大隊の1個中隊などからなる戦闘団であり、アントン・アマイザー(Anton
Ameiser)SS中佐が指揮を執りました。戦闘団の兵力は約2,500名で3月2日には第8軍の第43軍団に配属され、コマーロム(Komárom)~エステルゴム(Esztergom)地区で作戦に投入されました。その後戦闘団には第417機関銃大隊、1個ハンガリー大隊、第6戦車師団/第4機甲擲弾兵連隊の第2大隊などが増強され、3月5日~16日までビクスケ(Bicske)地区で防衛戦を展開しました。
3月19日から戦闘団は第92機甲擲弾兵旅団、第96歩兵師団、第711歩兵師団と共に「ダニューブ川橋頭堡」の防衛戦に投入され、橋頭堡が放棄された後はドナウ川北岸で3月21日まで防衛戦を継続した後、コマーロム(Komárom)~コマールノ(Komárno)地区経てドナウ川北岸沿いに撤退しました。1945年4月1日、戦闘団はプレースブルク東方まで撤退し、4月5日にはマルフ河を西岸へと渡りました。
これ以降、SS戦闘団「アマイザー」は第96歩兵師団に配属され、終戦まで師団と共に戦闘を継続しており、5月8日までに第96歩兵師団と共にフライシュタット(Freistadt)方面へと西進してアメリカ軍に降伏しました。しかし、捕虜となった兵員の大部分は協定により5月14日にソ連軍へと引き渡されました。
SS戦闘団「アマイザー」(1945年2月末)
SS Kampfgruppe Ameiser
SS第92義勇騎兵連隊(2個騎兵大隊)
SS第37砲兵大隊の第2中隊:105mm軽榴弾砲×4門装備
SS第37通信中隊の1個小隊
SS第37工兵大隊の1個小隊
衛生小隊
馬匹補充段列
<その後増強された部隊>
第417機関銃大隊
1個ハンガリー大隊
第6戦車師団/第4機甲擲弾兵連隊の第2大隊
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2026.9.10 新規作戦
2026.9.11 消印所沢さんのご指摘によりハンガリー人名のカタカナ表記を修正しました(感謝!)
2026.9.13 【補足-1】を追記
2026.9.16 【補足-2】を追記