SS警察連隊「アルペンフォーラント」
SS Polizei Regiment "Alpenvorland"
連隊は1944年5月、警察連隊「アルペンラント」(Polizei Regiment “Alpenland”)としてイタリア北部のベルーノ(Belluno)で編成され、1944年6月7日には警察連隊「アルペンフォーラント」(Polizei Regiment “Alpenvorland”)と改称されました。連隊の基幹要員にはドイツ人警察官が編入されましたが、その他の要員は北イタリア、南チロル地方のドイツ系住民により編成され、連隊の第1大隊には当時編成されたばかりのSS警察連隊「ボーゼン」の第4大隊(兵力約500名)を編入し、第2大隊と第3大隊も9月から10月頃までには編成を完了し3個大隊による編成となりました。
第1大隊は5月から6月にかけてゴッセンサス(Gossensass)に駐屯しており、編成中の第2大隊、第3大隊及び連隊本部はシュランダーズ(Schianders=Silandro)に駐屯していました。連隊は10月頃まで訓練を行い、その後Feltre及びベルーノ(Belluno)地区でのパルチザン掃討作戦に従事した他、Feltre〜ベルーノ〜ゴルティナ(Gortina)〜バッサーノ(Bassano)地区での歩哨任務、監視所での警備任務、地区内での輸送隊の護衛任務に従事しました。
1944年12月の時点で連隊本部はボルツァーノに駐屯しており、第1大隊はエドロ(Edolo)に、第2大隊はFeltreに、第3大隊はベルーノに移動し駐屯していました。連隊の武器の大部分はイタリア製であり、一部は連合軍がパルチザン向けに空中投下した武器を捕獲した物を装備していました。またその他の装備品や車両はイタリア軍の装備品と民生用のもので賄われました。
戦後の調査によると連隊の各中隊にはさまざまな形でパルチザンの工作員が入り込んでおり、1944年冬の段階でも連隊の戦意は不安定な状態であり、いくつかの中隊は作戦中にパルチザン部隊との戦闘を回避する始末でした。
1944年12月、第1大隊は比較的平穏なボルツァーノ地区から、パルチザンの活動が活発なトリエステ地区に派遣され、1945年1月にトリエステ南東で第9スロベニアパルチザン軍団との戦闘により壊滅しました。1945年1月29日付の計画では連隊の第2大隊と第3大隊を東部戦線で壊滅しアルペンフォーラントで休養中の「第9SS警察連隊」の第2大隊と組み合わせて第9SS警察連隊の再建に使用する計画もありましたが、結局は実現しませんでした。また1945年1月29日付で連隊の名称に「SS」が追加され、SS警察連隊「アルペンフォーラント」と改称されました。
1945年1月から4月にかけて、連隊はオーストリア南部のVillachからイタリア北部のTarvis〜Pontebbaにかけての鉄道警備任務に従事していました。1945年3月の時点で連隊の2個大隊はボルツァーノに駐屯しており、その後4月中頃には高級SS及び警察指導者「アルペンラント」(Hohere
SS und Polizeifuhrer “Alpenland“)の管轄地区である北スロベニアのオーバークライン地区に移動し、ライバッハ(Laibach)〜フィウメ(Fiume)間の街道警備任務に従事しました。
1945年4月、 フィウメ地区に駐屯するドイツ軍第97軍団は第9スロベニアパルチザン軍団の攻撃によりアドリア海沿岸部の町を放棄し、フィウメに撤退する事態となっていました。この危機に際して後方地区からフィウメ地区へと救援部隊が送られ、警察連隊「アルペンフォーラント」もフィウメに向かったものの、パルチザン部隊に阻まれてトリエステへと後退しました。
1945年4月26日までのトリエステ東方での戦闘により連隊は大損害を被り、5月6日にBistricaでスロベニアパルチザン部隊に降伏しましたが、4月末から5月初めの頃になると連隊では脱走兵が重大問題となり、文字通り「末期的」状況となっていました。
2003.6.17 新規作成
2009.4.29 改訂版