泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察連隊について

第19SS警察連隊
19. SS Polizei Regiment

 1942年7月、連隊は既存の第72、第171、第181警察大隊を、連隊の第1大隊、第2大隊及び第3大隊として編入し、スロベニアのVeldes(現ブレッドBled)で編成されました。初代の連隊長には1942年5月まで第323警察大隊で大隊長を務めていたグリーゼSS少佐兼警察中佐が就任し1943年3月まで連隊を指揮した後、急遽編成された警察連隊「グリーゼ」(Polizei Regiment“Griese”)の連隊長として転属しました。


第19警察連隊
Polizei Regiment 19

連隊本部
第1大隊(第72警察大隊)
第2大隊(第171警察大隊)
第3大隊(第181警察大隊)


 第19警察連隊は1942年7月末までVeldesに駐屯していましたが、その後すぐに高級SS及び警察指導者「アルペンラント」の指揮下に配属され、リュブリアナ(Ljubljana)北方約20kmのカムニーク(Kamnik)に移動して同地に駐屯し、地域の防衛、警戒任務に従事しました。1942年9月から1943年2月にかけて連隊は、トリボブリエ(Trbovlje)、プレボルト(Prebold、独名Pragwald)、Kropaなどリュブリアナ北方約40kmの地域で活動しました。
 その間の1943年2月24日からは各警察連隊の名称に「SS」が追加されて一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第19警察連隊も「第19SS警察連隊」と改称されました。

 1943年9月8日、イタリアの単独講和が明らかになるとそれまでイタリア占領地域であったスロベニア南部の速やかな占領とイタリア軍の武装解除が必要となり、連隊も9月19日にはイタリア軍の武装解除に出動しています。イタリア軍の装備する大量の武器弾薬はパルチザン部隊にとっても宝の山であり、ドイツ軍による武装解除はパルチザン部隊との競争でもありました。
 このような状況の中、1943年9月19日にはスロベニアのリュブリアナ(Ljubljana)の南南東約20km のところにあるTurjakの町がスロベニア・パルチザン部隊「Presen旅団」の攻撃を受け、守備隊のチェトニク部隊(第1Triglav旅団と第2Krim旅団の兵力1,600名)が撃破されて町が占領されるという事態が発生しました。
 チェトニク部隊はTurjakの城砦に立てこもり、第19SS警察連隊は反撃部隊に参加してTurjakの南部地域で攻撃を行い、橋を破壊したり石造りの家屋を利用した強化陣地や、対戦車壕を利用して抵抗する強力なスロベニア・パルチザン部隊を撃破して9月26日にTurjakの町と城砦を奪還しました。
 1943年9月19日現在、連隊にはAB41装甲車×1両とS37装甲兵員車×2両を装備した警察装甲車小隊が配属されおり、この戦闘にも参加していたと思われます。
 1943年10月12日から11月10日にかけて連隊はクロアチアのDelniceからゴットシェー(Gottschee)にかけての地域で展開された「土砂降り作戦」(Wolkenbruch)に次のような部隊とともに参加しました。

土砂降り(Wolkenbruch)作戦
 1943年10月12日~11月10日、クロアチアのDelniceからゴットシェー(Gottschee:現コチェービエKočevje)にかけての地域で展開されたパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第14SS警察連隊
第19SS警察連隊
第132歩兵連隊
第314歩兵連隊
SSカルスト防衛大隊
第901山岳猟兵連隊
第71歩兵師団の一部

 1943年10月22日現在のOKW(国防軍総司令部)の戦況地図によると、連隊はゴットシェー(Gottschee:現コチェービエKočevje)地区に駐屯しており、12月11日現在の報告でも引き続きTurjakの近郊に駐屯していました。

 1943年12月、今度は南部スロベニアのゴットシェー(Gottschee)の町がパルチザン部隊の攻撃を受け、守備隊は町の中心部にある館に立て篭もったものの、パルチザン部隊によって包囲されてしまいました。町の守備隊は第19SS警察連隊の第2中隊とスロベニア郷土防衛隊(ドモブラン)の合計200~300名の兵力であり、第2中隊長のFridolin GuthSS大尉兼警察大尉が指揮を執っていました。
 パルチザン部隊の攻撃は12月9日の深夜から始まり、Mirko Bracicに指揮された第14パルチザン師団の3個パルチザン旅団(第1Tone Tomsic旅団、第2Ljubo Sercer旅団及び第13Loska旅団との説あり)は砲兵と迫撃砲に支援された強力なものでした。最初の攻撃でユースホステル、学校その他の重要施設が占領され、守備隊は旧市街の中心にあったAuersperg館へと撤退しました。Fridolin GuthSS大尉兼警察大尉指揮の守備隊はこれから2日間にわたり厳しい防衛戦を展開し、館と周辺の市街は砲撃によって激しく破壊されました。 【補足-1】

 10月10日、リュブリアナ(Ljubljana)のドイツ軍司令部では第162(トルキスタン)歩兵師団の第314歩兵連隊と第19SS警察連隊に第13(増強)警察戦車中隊の戦車を加えて救援部隊が編制されました。救援部隊はザグレブ高級SS及び警察指導者のErwin Rosener中将が指揮を執り、Ju88A爆撃機の援護も受けることができました。
 第162(トルキスタン)歩兵師団の第314歩兵連隊はポストイナ(Postojna)から東南東約60kmのゴットシェーへと急行しましたが、途中の道路はパルチザンに破壊されており、道路を補修しながらの移動のためゴットシェーへの到着は10月12日の午後になりました。
 到着した救援部隊とパルチザン部隊の市街戦は10月12日の日没とともに下火となり、パルチザン部隊の撤退により町は奪回されました。この戦闘によりパルチザン部隊は97名が戦死、40名が捕虜となった他、攻撃を指揮したMirko Bracicも戦死する損害を被り、パルチザン部隊は200名が戦死したとの説もあるようです。この戦闘はスロベニア郷土防衛隊(ドモブラン)にとっては初めての大きな戦闘での勝利となりました。

 1944年5月、第19SS警察連隊はフランスのモンテ・ムシュ(Mont Mouchet) 地方へと移動し、その後6月には連合軍のノルマンディ上陸に対応してパリへと移動したことになっていますが、実際には連隊の各部隊はグルノーブルやリモージュなど、フランス各地に分散配置されていたようです。【補足-2】
 フランスにおける第19SS警察連隊の行動については不明な点が多いのですが、連隊の一部は7月22日にグルノーブル(Grenoble)近郊で行われた対パルチザン作戦にも参加していました。

 この作戦は山岳地帯のラ・シャペル=アン=ヴェルコール(La Chapelle-en-Vercors)村付近に司令部を置く連合軍OSI(Office of Strategic Services)将校に指揮されたFFI(French Forces of the Interior)パルチザン部隊討伐のために展開され、グルノーブル周辺には下記のような部隊が動員されました。
・ 第157予備山岳師団の一部
・ 第9戦車師団の1個大隊
・ 3個東部大隊
・ 第200保安連隊
・ SS第19警察連隊の一部(約200名)
・ 警戒部隊
・ 2個航空兵部隊

 1944年7月22日の朝、空軍のFW-190戦闘機とDO-217爆撃機による爆撃の後、翌23日にパルチザンの司令部近くのヴァシュー=アン=ヴェルコール(Vassieux-en-Vercors)村にDFSグライダーに分乗したブランデンブルクの特殊部隊「南フランス」(Streifkorps S?dfrankreich)が奇襲攻撃をかけパルチザン部隊の設営した滑走路を制圧し、同時に南から第9戦車師団の1個大隊、西と東から第157予備山岳師団の一部、北からグルノーブルのSS第19警察連隊の一部とSD部隊等が進撃する作戦で、実際にはFFIパルチザンの司令部は取り逃がしましたがパルチザン部隊に大損害を与えて本拠地のヴァシュー=アン=ヴェルコールを制圧しました。

真夏(Hochsommer)作戦
 1944年7月21日~7月25日、グルノーブル南方の山岳地帯のラ・シャペル=アン=ヴェルコール(La Chapelle-en-Vercors)村付近に司令部を置く連合軍OSI(Office of Strategic Services)将校に指揮されたFFI(French Forces of the Interior)レジスタンス部隊討伐作戦。ヴェルコール村付近には武器、弾薬、補給物資が空輸されレジスタンスの訓練により兵力は約4,000名へと増強されていました。
 ドイツ軍はヴェルコール村西方に保安大隊、警察大隊、東方大隊のよる警戒線を構築し、特別降下大隊「ユングヴィルト」がヴァシュー=アン=ヴェルコール(Vassieux-en-Vercors)村付近に降下させ、レジスタンス部隊の補給基地と司令部を奇襲し、第157予備山岳師団主力に地上部隊がレジスタンス部隊を包囲殲滅する計画でした。
作戦参加部隊:
第157予備山岳師団の一部
  戦闘団「シュヴェーア」
  戦闘団「ゼーガー」
戦闘団「ツァーベル」
  第9戦車師団の1個大隊
  1個東方大隊
  第157予備擲弾兵連隊第179大隊
  第157予備擲弾兵連隊第217大隊
第3義勇兵基幹連隊(東部大隊)
第200保安連隊の1個保安大隊
SS第19警察連隊の一部(約200名)
第19SS警察連隊第1大隊
特別降下戦闘団「シェーファー」
  特別降下大隊「ユングヴィルト」(2個中隊)
  外国人大隊「アレキサンダー」(2個中隊)

 1944年7月22日の朝、リヨン(Lyon)に待機していた特別降下大隊「ユングヴィルト」を載せたドルニエDo17曳航機とDFS230C-1グライダーの第1梯団が離陸し、ヴァシュー=アン=ヴェルコール村付近の予定地点に着陸しました。しかし、レジスタンス部隊の抵抗は激しくル・シャトー(Le Château)村とラ・ミュール(La Mûre)村付近に降下した第2梯団も同様で、2個中隊は夕方までに戦死29名、重傷者20名の損害を被りました。その後天候は悪化して雷雨となり、航空支援や補給もできなくなり降下部隊は窮地に立たされました。
 7月23日には天候が回復し、ヴァランス(Valence)の飛行場に待機していた外国人部隊「アレキサンダー」の2個中隊がDFS230C-1グライダー20機と補給物資と重火器を満載したGo242グライダー2機が離陸し、ヴァシュー=アン=ヴェルコール村付近に着陸して特別降下大隊「ユングヴィルト」と合流できましたが、兵力に勝るレジスタンス部隊に対して苦戦が続きました。
 7月24日になると落下傘降下で20mm高射機関砲数門が補給され、戦況は徐々にドイツ軍側に傾き、7月25日になると特別降下戦闘団「シェーファー」の2個大隊はグルノーブル方面に向けて行軍を開始し、途中でようやく第157予備山岳師団の戦闘団「シュヴェーア」と合流することができました。
 この戦闘でのドイツ軍側の損害は不明ですが、フランス側の記録によるとレジスタンス639名と民間人201名が死亡しました。ドイツ軍側はFFIパルチザンの司令部は取り逃がしましたがパルチザン部隊に大損害を与えて高原一帯を奪還しました。

 1944年7月、西部戦線の戦況が悪化するなかで連隊は第64軍団に配属され、ラングル(Langres)地区で再編成中の第16国民擲弾兵師団(ノルマンディで壊滅した第16空軍野戦師団に第158予備師団を加えて再編成された部隊)に支援部隊として一時的に配属されました。連隊の各大隊はアンドロ=ブランシュヴィル(Andelot-Blancheville)とヌシャトー(Neufchateau)にあり、7月31日現在の報告では各大隊はそれぞれラングル(Langres)地区に向かって移動中でしたが、8月15日までには師団に合流した模様です。

 1944年8月17日から8月19日にかけて、ヴィシー政権の首脳であるペダン元帥とラヴァルがドイツ軍の手により強制的にアルザス地方のベルフォール(Belfort)に移送されました。連隊は9月3日からベルフォールでのペダン元帥と首脳陣の警護任務に従事しましたが、ヴィシー政権首脳陣は10月にはドイツのジークマリンゲン(Sigmaringen)へと送られました。

 1944年9月12日、第19SS警察連隊の一部は第64軍団の戦闘団「オッテンバッヒャー」(Kampfgruppe Ottenbacher)に配属され、ラングル(Langres)地区に布陣していました。戦闘団は第19SS警察連隊と第200保安連隊からなり「臨時編成旅団」として扱われており、9月になると第1軍と第19軍はフランスから全面的に撤退しつつあり、戦闘団も第64軍団の第16国民擲弾兵師団、第716国民擲弾兵師団とともにアルザス・ロレーヌのドイツ国境へ向けて遅滞戦闘をしながら撤退しつつありました。【補足-3】
 1944年9月末、第19SS警察連隊は戦闘団「オッテンバッヒャー」を離れて第66軍団に配属となり、コルマール(Colmar)西方約70kmのモーゼル川沿いのシャルム(Charmes)~エピナル(Epinal)間の約30kmの戦区で第16国民擲弾兵師団、戦闘団「オッテンバッヒャー」の残余、デジヨン(Dijon)地区でバラバラになった部隊の落伍兵、その他空軍や海軍の雑多な部隊とともに防衛戦を展開しました。
 10月~11月の間は第16国民擲弾兵師団に配属され、第716国民擲弾兵師団とともにコルマール(Colmar)西方約50kmのボージュ山地の西端にある小さな町ブリュエール(Bruyeres)の近郊に布陣していました。10月15日から開始されたアメリカ軍第36歩兵師団による攻撃に対して、第16国民擲弾兵師団や第716国民擲弾兵師団をはじめとして、急遽かき集められた雑多な部隊とともに防衛戦を展開しました。
 このアメリカ軍第36歩兵師団には日系二世部隊として有名な「第442連隊戦闘団」が配属されており、10月18日にはその第442連隊戦闘団の攻撃によってブリュエールの町は陥落しました。その後第442連隊戦闘団はドイツ軍に包囲され孤立した第141連隊(テキサス州出身の兵で編成)の第1大隊の救出作戦を行い、救出には成功するものの10月30日までの戦闘で大損害を被り、休養と再編成のため後退することになります。

 1945年1月~3月、第19SS警察連隊はコルマール地区でG軍集団予備となり、3月始めには再びスロベニアのCilli(現ツェリエCelje)地区に移動して第17SS警察連隊及び第28SS警察連隊「トート」とともに戦闘団「von Seeler」(Kampfgruppe von Seeler)に配属されました。最後はローイブル(Loibl)峠を越えてオーストリアに入りドラバ川方面へと北上し、5月9日にフェルラッハ(Forlach)の北でイギリス軍に降伏しました。


【補足-1】
 ゴットシェー(Gottschee:現コチェービエKočevje)は13世紀の終わりにオーストリアからの入植者によって開拓され、1350年ころにはドイツ語を話す入植地として確立されました。その後ハプスブルク家、ハンガリー王国、オーストリア・ハンガリー二重帝国の支配を経て第1次大戦後はスロベニアの一部となりました。
  1941年4月以降はイタリア軍の占領地域となり、650年の歴史を持つゴットシェーのドイツ系住民約12,000名はドイツとイタリアの協定によりドイツ本国に移住することとなり、1941年12月から1942年1月にかけてスロベニア北部のドイツ併合地域であるオーバークライン地方やウンターステイヤーマルク地方へと移住しました。1943年9月のイタリア単独講和によりスロベニア南部もドイツ占領地域となり、イタリア北部を含めて「アドリア海沿岸作戦地域(OZAK)」と呼ばれるようになりました。
 Auersperg館はゴットシェーの市街中心部にあり、1943年10月に撮影された写真を見ると「城砦」というよりも「館」に近い建物のように見えます。砲撃によりAuersperg館や周辺の建物は激しく損傷しており、ストリートビューで現在の様子を見てもAuersperg館は取り壊され、跡地は公園や公共施設になっているほか、橋のたもとの特徴的な尖塔を持つ教会やその向かい側の建物その他数件の建物の他は、ほとんどが新しい建物に立て替わっているようです。第2次大戦後、ゴットシェーのドイツ系の住民はオーストリアへと移住し、現在は町の名前もコチェービエ(Kočevje)と変っています。

L6軽戦車が写ったお馴染みの写真の現場
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【補足-2】
 「まけらいおん」さんの意見によると、「第19SS警察連隊がバラバラに配置されていたのは、当時のヴィシー政権下の対独協力フランス人準軍事組織(ダルナンの民兵団や保安警察)がノルマンディ戦線の崩壊の結果、蜂起する危険性があったために解隊命令が出ていた事実と絡めて、各地でドイツ警察部隊立会いの元で対独協力者の武装解除を行っていたからではないか」とのことです。
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【補足-3】
 「まけらいおん」さんからの情報によると、1944年8月25日の報告では第19SS警察連隊の一部がリモージュ(Limoges)の包囲陣から突破し、ブルガヌフ(Bourganeuf)を抜けてゲレ(Gueret)に布陣していたようです。同時にGruppe Ottenbachrがモンリュソン(Montlucon)~クレルモン・フェラン(Clermont-Ferrand)の防衛線に布陣していました。1944年9月6日の時点では1個大隊がショーモン(Chaumont)に、第192保安連隊、第194保安連隊の一部をはさんで北方に2個大隊(?)がGruppe Jesserと共に布陣していました。
【戻る】


2003.6.13 新規作成
2004.3.20 一部改訂
2004.10.1 改訂版
2016.4.17 ゴットシェーの戦い他を追加
2023.9.1 一部修正
2023.11.23 一部追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/