第16SS警察連隊
16. SS Polizei Regiment
連隊は1942年7月、既存の第56警察大隊、第102警察大隊、第121警察大隊を連隊の第1、第2及び第3大隊として編入して第16警察連隊として編成されました。1942年10月には第15警察連隊の第1大隊(第305警察大隊)が連隊の第3大隊として編入され、それまでの第3大隊(第121警察大隊)は第4大隊となりました。
第16警察連隊
Polizei Regiment 16
第1大隊(第56警察大隊:1942年11月配属)
第2大隊(第102警察大隊)
第3大隊(第305警察大隊:第15警察連隊第1大隊より1942年10月編入)
第4大隊(第121警察大隊:第3大隊として配属され10月より第4大隊へ)
第1大隊(第56警察大隊)は1942年11月から連隊に配属されましたが、1943年2月5日には東プロイセンのティルジット(Tilsit)に移動して「警察訓練大隊」となり、その後1943年11月~12月頃には第3SS警察大隊の第1大隊として編入され、オランダのティルブルフ(Tilbulg)に移動して連隊本部とともに駐屯しました。
第2大隊(第102警察大隊)はリトアニア及びラトビアで活動し、第3大隊については第15警察連隊の第1大隊(第305警察大隊)が1942年10月になってから連隊に配属され、ラトビアのリガに駐屯していました。
第4大隊(第121警察大隊)は1942年~43年にかけての冬期戦により1943年1月に壊滅してしまい、大隊の残余は第3大隊に編入されました。また、大隊の残余はオランダで第16警察連隊の新しい第1大隊として再建が図られたとする資料もありますが、詳細は不明です。
1942年11月15日~1943年4月30日の間、連隊は第2SS歩兵旅団(自動車化)に義勇兵団「フランデルン」(Freiwilligen Legion “Flandern”)、義勇兵団「ニーダーランデ」第1大隊(I./Freiwilligen Legion “Niederlande”)とともに配属されており「Gruppe SS Polizei Ost」と呼ばれました。
第16SS警察連隊は第1大隊(第56警察大隊)が東プロイセンに移動した1943年2月5日以降は第2大隊~第4大隊の変則的な3個大隊編成となり、第4大隊(第121警察大隊)が1943年1月に壊滅してからは第2大隊と第3大隊による2個大隊編成となりました。
1943年2月24日からは各警察連隊の名称に「SS」が追加されて一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称され、これに伴い第16警察連隊も「第16SS警察連隊」と改称されました。
第16SS警察連隊は1943年10月25日~11月15日の間はベラルーシ北部~ラトビア国境地帯での「Heinrich作戦」に参加しました。
ハインリッヒ(Heirich)作戦
1943年10月25日~11月9日、ベラルーシ北部のドレトゥニ(Dretun)及びポロツク(Polotsk)東北~ラトビア国境地帯の森林と湿地帯でのパルチザン掃討作戦。この作戦にはクルト・フォン・ゴットベルクSS中将兼警察中将の戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe
"von Gottberg") や第3戦車軍の後方部隊が動員されたほか、北方軍集団戦区では戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe
"Jeckln")が作戦に参加しました。
この作戦でパルチザン5,452名が殺害され、住民約8,000名が強制労働に連行され、さらに約8,000名の住民が再定住のために強制移住させられました。
ハインリッヒ作戦は11月14日まで実施される予定でしたが、10月初めに開始されたソ連軍の冬季攻勢によりネヴェリ(Nevel)地区で防衛線が突破されたため計画より5日早く11月9日までで中止され、戦闘団「フォン・ゴットベルク」と戦闘団「イェッケルン」はそのまま防衛戦に投入されました。
作戦参加兵力:
<中央軍集団>
【SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」】SS Kampfgruppe "von Gottberg"
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第2大隊を除く)
第24SS警察連隊(第3大隊を除く)
第1(増強)警察戦車中隊
第4警察戦車中隊
第9警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
<北方軍集団>
【警察戦闘団「イェッケルン」】Polizei Kampfgruppe "Jeckeln"
第113保安連隊
第1大隊(第835保安大隊)
第2大隊(第941保安大隊)
第3大隊(第972保安大隊)
第9SS警察連隊第3大隊(第132警察大隊)
第773保安連隊
第591保安大隊
第597郷土防衛大隊
第663保安大隊
第319ラトビア警察大隊
第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」
第1大隊(第276シューマ大隊)
第2大隊(第277シューマ大隊)
第3大隊(第278シューマ大隊)
第4大隊(第312シューマ大隊)
第16SS警察連隊
第3警察戦車中隊
1943年10月6日、北方軍集団/第16軍/第43軍団と中央軍集団/第3戦車軍/第2空軍地上軍団の接合部であるネヴェリ(Nevel)地区でソ連軍の冬季攻勢が開始されると、第43軍団戦区と第2空軍地上軍団戦区で手薄な防衛線が破られ、前線は幅12km、奥行き最大15kmにわかって突破されました。
この危機的状況に際して「ハインリッヒ作戦」は10月9日に中止され、第16SS警察連隊は戦闘団「イェッケルン」に配属されて第8軍戦区での防衛戦に投入され、11月26日の時点では第18軍戦区から緊急輸送され11月3日~6日にかけて到着した第132歩兵師団に配属されてネシャルド(Nesherda)湖地区の防衛線に配置されました。
1943年12月12日、戦闘団「イェッケルン」の一部は第16軍戦線のすぐ後方でパルチザン掃討作戦の「オットー(Otto)作戦」が実施され、連隊もこの作戦に投入されました。
オットー(Otto)作戦
1943年12月12日~1944年1月1日、ロシアのルドニャ(Rudnya)村(セーベジSebezhの南東約10km)~ベラルーシのBorkovichi(ポロツクPolotskの北西約30km)の間の南北約80kmの地域でのパルチザン掃討作戦で、高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」の指揮下で実施された。
1943年12月19日付けの高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」(HSSPF. Ostland und Rußland-Nord)から第16軍への報告によると、作戦には下記のような部隊が参加しました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「イェッケルン」の一部】
第16SS警察連隊(2個大隊)
第26SS警察連隊(3個大隊)
警戒大隊×3個半大隊
外国人警察大隊×4個大隊
緊急技術援助隊(TN=Technische Nothilfe)×2個中隊
戦車中隊×1個中隊(第3警察戦車中隊?)
装甲車中隊×1個中隊
高射砲部隊×4個部隊
軽高射砲小隊×1個小隊
この作戦は10日間に渡って行われ、1943年12月21日付けの戦闘団「イェッケルン」の記録によると、第16SS警察連隊の戦車中隊は10両の戦車を装備していました。その後、1944年の中ごろまでの中隊の記録は残っておらず、中隊の隊員たちの個人的な記録や記憶によると、第3警察戦車中隊は1944年3月にはその装備車輌のすべてを失ってしまったようです。
第16SS警察連隊は1944年1月14日まで戦闘団「イェッケルン」に配属され、その後は第1軍団の第263歩兵師団に配属されて前線での任務に従事しました。
連隊はその後前線から引き揚げられ4月にはビリニュス(Vilinius)でのゲットー警備任務に従事し、その後はビリニュス周辺地区での警戒任務に従事したようです。
6月3日、連隊の第3大隊の一隊がビリニュス(Vilnius)~アイスキスキ(Aischiski)街道の途中のピルシウピス(Pivciupis)村付近で「ユルギス」パルチザン部隊の攻撃を受け、逃亡した1名を除き他は殺害又は拉致されました。当時の隊員の証言によるとこの村の周辺では頻繁に道路に地雷が仕掛けられ、車両が攻撃されていました。これに対して連隊指揮官のTitel警察中佐は村の焼き討ちと住民の全員射殺を第9中隊と第10中隊に命じ、7両の警察戦車(第3警察戦車中隊?)も増強されて村は包囲されて女性21名、子供69名を含む住民119名が殺害され、村は焼き払われました。
1944年6月17日付けの治安警察司令官通達により第16SS警察連隊はリガ治安警察司令官(BdO Riga)の下で6月中旬~7月初めにかけて、予想されるソ連軍の夏季攻勢に備えて緊急再建されることとなり、連隊の第1大隊と第2大隊は補充を受け取り、第3大隊には壊滅した第9SS警察連隊の第1大隊と第3大隊の残余が編入され、それまでの前線での戦闘による損害を急速に補充されました。
1944年7月、第16SS警察連隊はリトアニアでビリニュス要塞守備隊に編入されており、兵力約5,000名のビリニュス要塞守備隊は1944年7月9日にソ連軍に包囲されましたが、7月13日に実施された救援作戦に呼応して包囲を突破しての脱出に成功しました。
ビリニュス要塞守備隊(1944年7月7日現在)Stahel少将
・第399擲弾兵連隊
・第1067擲弾兵連隊
・第16SS警察連隊
・第16降下猟兵連隊の一部
・第240砲兵連隊の第2大隊
・第256戦車猟兵大隊
・第296高射砲大隊
7月末~8月にかけて、第16SS警察連隊は再び第132歩兵師団とともに戦闘団「Werther」(Kampfgruppe Werther)としてDvinsk(独Dünaberg、現ダウガフピルスDaugavpils)地区で前線での防衛戦に投入され、連隊の戦力は大隊規模まで消耗しました。
その後戦闘団はリガへと後退し、第16SS警察連隊は1944年10月の時点でリーバウでオストラント警察司令官(B.d.O. Ostland)の指揮下にあり、その後クールラントへと後退し主にパルチザン掃討作戦を行いながら終戦を迎えたようです。
2002.8.22 新規作成
2004.10.1 改訂版
2007.10.26 改訂版
2008.8.31 改訂版
2010.4.3 ビリニュス要塞守備隊を追加
2016.4.24 一部修正
2023.11.16 一部追記