開設に当たって          / 1999.10.27


幸せに音楽を聴きたいのに、上手く鳴ってくれないときがあります。
生彩がなかったり表情が薄れたり、演奏者の気持ちが伝わってこないと、
ステレオ装置の具合が悪くなった理由を探して、頭の中がいっぱいになります。
長い時間をかけて緩慢に劣化していくのは仕方ありませんが、
どこも触わっていないのに、ステレオの音は毎日のようにかわります。

愛聴盤には、たいてい聴き手が好ましいと思う鳴り方があって、上手く鳴ると、
こちらが勝手に想像しているボーカリストの性格を感じたり、気持ちに共感したりします。
歌っている姿や仕草のイメージが浮かぶ場合だってあります。
聴き手はそうした体験の再現を期待しているので、かなわないと喪失感がつのります。
自ら思いだすのではなく、ひとりでに期待するものが顕れて欲しいからステレオ装置を調整するわけです。

音へのこだわりが小さい人には、機械の手入れにこだわることが理解できないかもしれません。
私も、機械に振り回されずに音楽が楽しめれば、その方が幸せだと思います。
でも、頭の中では理想の音が鳴っていて、
ステレオの音がそれに近いほど、再生音楽の現実味が増し、仮想体験の感動が深まるのであれば、
音にこだわって機械に頼ることにも意味があると思うのですね。

オーディオという趣味は、物欲と渾然一体の世界ですが、
買ってきた製品の音響に満足しているだけならそれは表層的な愉しみ方で、
音楽の印象をより好ましいものに改質していく、能動的な聴き手の自覚を伴うものだと思うのです。
頭の中で理想の音が鳴っているなら、自分の音に近づけるために調整したくなるし、
そのプロセスが私にとってのオーディオの意義なのですね。
求める音は人それぞれでも、その好みをその人の物差しだとすれば、
仮に特段の物差しを持っていなければ、オーディオの趣味性は薄れて消費材に近付くと思うのですね。
そのようなことを書いて行こうと考えています。




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