はじめに

失ってこそ、得られるもの


2004年01月12日(月)

無力な 赤ちゃんの頃とか幼児期に、
親から 無条件に受け入れられ、愛されて育ってきた人は、
自分自身に対する基本的な肯定感も 得られるし、
自分自身を自然に愛することも できると思う。

でも、そういう乳幼児期を 過ごしてこなかった人は、
成長してから、自分で、基本的な肯定感や 自分自身を愛することを
獲得していかなきゃいけない…。
それって大切だもの。 人が生きてくのに。

乳幼児が無条件に愛されて、自分自身を好きになれるように、
成長してから、自分自身を好きになるには、

乳幼児の無力に 少し近い状態というか…、
無力感に打ちのめされてる時とか、深く自信喪失してる時に、
人から受け入れられることが、大きく影響してくると思う。

好調な時に受け入れられても、不十分。
比較的マシな時に受け入れられても、まだ不十分だと思う。
最悪の時に、そのままの自分が 受け入れられた実感を持てて、やっと
ずっと、得られなかった自己肯定感を 心の芯に持てるんだと思う。




一年前の日記にも書いたけど、私の体験から 一つ書くね。
強迫が ひどかった頃 を回想して書いた話 ↓



強迫になってから、よくよく考えてみれば、
幼い頃からの私の望みは、ずーっと、
「自分を好きになりたい」 …だった。
この強い自己嫌悪は、強迫の一因だったと思う。

でも 強迫になったら、さらに強い自己嫌悪に追い込まれ、
そんな中で、どうやったら 自分を好きになれるのか、途方に暮れた。
幼い頃からの望みに気づけたものの、どうしたらいいのか 分かんなかった。

でも、ある先輩が認めてくれた。
「 だって、あんた、生きてるやん〜 」
「 かよわい足かもしれないけど、その足で必死で立とうとしてる 」
「 自分の足で…。 そういう人が “生きてる”って言えるんやで 」


なにもなかも 失ってしまって、
必死に 手探りの試行錯誤を続けてた私の、
その行為自体を、生きる姿勢自体を、認めてくれた…。 (*- -)人
当時、1ヶ月に1回くらい、電話で話す程度だったけど、
先輩の存在は、私にとって大きかった。
あっ…、ネットしてなかったし。

そして、この言葉が、心の芯まで浸みたのは、
こてんぱんに 自信をなくしていたから。 底まで落ちていたから。
私が、自信の大元 = 基本的な自己肯定感 を手に入れるためには、
一度、全ての自信をなくす必要があったんだと思う。
失わなければ、身ぐるみ剥がれなければ、得られない…。




強迫は、自らを限界状況に追い込むけど、
それって、無駄じゃない。 意味があるんだと思う。

自分を抑圧せずに 生きれるようになるには、心の解放のためには、
必要な、辛い試練の時間なんだと思う。

そして、少しずつ、そのままの自分を認められるようになったら、
少しずつ次段階に、さらに次段階へと行けると思う。
少しずつ少しずつ、より自分を受け入れられるように なっていって…、
強迫の不安も 鎮まっていくんじゃないかなって思う。
もちろん、心理的なこと以外にも、条件はいくつもあるけど。
特に 長期化すると、他の難しい条件が増えてくるような…。 o(- -;o

それに、一直線には いかないよね。
試練を何度も、繰り返し経験しながら、
いろんな人や 本や 漫画や 音楽に触れて、 ヒントをもらいながら、
そのままの自分が受け入れられる実感を 得たりしながら、
心の奥深くまで、 肯定感・安心感が 染み渡っていくんだと思うから。

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