カツオタタキの由来(2) | 「カツオについて」へ 「カツオタタキについて」へ 「カツオタタキの由来」へ |
京都市左京区下鴨にお住まいの平田さんからの投稿の第2弾です。 今回は、時代小説調です。平田さんものってきましたねえ。 ちょっと、意味の取りにくいところもあるようですが、その点はご容赦ください。 |
昔の文化や人々の偉大さに魅せられて、さらにルーツを求めて旅へと出かけることとした小生、ちょっと小生意気に小説家気分にすっかり酔いしれて、さらに奥への探訪に、ワラジのヒモを強く締め直した。 カツオといえば、日本列島北から三陸の気仙沼、塩釜、千葉の勝浦、静岡の御前崎、焼津、三重の尾鷲や長島、紀州の勝浦、高知の土佐、鹿児島の枕崎などが主要な漁港と言われている。 大平洋に面した日本近海を黒潮とともに北上を続け、秋口から冬にはいるまでの間に三陸沖からUターンして南下をはじめる。この頃に獲れる、冷たい海で脂を身に養ったカツオを「戻りがつお」(または「下りがつお」)と称し、近年食卓をにぎわしている。 そこで小生も、このカツオの北上するコースとともに辿り歩けば、何かを得られるだろうと期待を胸に、鹿児島の枕崎からスタートして、各漁港の人生経験を豊かに持つ人々から多く情報を得ることができたが、小生の期待とは裏腹に「これぞ本物」と思わせるものがない。 「カツオタタキの由来」で記したことから一歩も前に進まないのにイラ立ちと疲れがあいまってか、足が棒のように突っ立ち、足指の間からは皮がむけて赤いものがワラジのヒモを染めている。悔しい気持ちを必死に押さえて、明石海峡大橋から鳴門の海を見ているとき、その潮の流れの自然さにふとカツオのタタキと問うれば誰もがどこの地をさして言葉を返すだろうと。 で小生は、これよりテレホン作戦へとその足を向けてみると、答えを返してくれた人々の90%が「土佐の高知」である。関西以西なら理解もできるが、以東の人々もやはり「土佐の高知」をさす。 小生の心は踊り、赤く染まったワラジを振り捨てて、裸足で目指すは「土佐の高知」なりと、まるで千石の明智光秀なりの素早い方向転換で、土佐の国へとはせ参じることとなる。 土佐にたどり着いた小生は、裸足であることをものともせず、土佐の各地をかけずり廻り、これぞ本物をやっと見つけだすことができた。この自信と共に、カツオタタキのルーツを記して旅の終わりとしようと思う。 一説には、昔、土佐高知では、生ものを食べてはいけない時代(領主の布告)があり、どうしてもカツオを生で食べたい連中が、生で食べるのが駄目なら「焼けばいいだろう」と考えたところから始まったらしい。 もう一説の主人公は、山内一豊(ヤマノウチカズトヨ)。 この人は安土桃山時代の武将で高知土佐藩の祖。初めは織田信長、後に豊臣秀吉に仕えた。秀吉没落後は徳川家康に仕え、上杉征伐、関ヶ原の戦いに功を樹て、土佐20万国に封じられた。 その妻は、信長の閲馬の時に黄金10両を出して、夫一豊に名馬を買わせて、後の立身の基礎を作ったとして「山内一豊の妻」と呼ばれて有名である。(内助の功) この山内一豊、江戸時代の土佐の殿様が、高知の領民が生のカツオを食べて食中毒のような状態になったので、それなら焼いて食べろと発したことから生まれたのがカツオタタキの始まりと言われている。 タタキの語源は、昔からの調理法で「生のカツオを四つ割りにして、表面に塩をふり、包丁の面でたたいてから焼く」ところから、「タタキ」の名がつけられたようである。ちなみに、塩をせずに表面をたたかず焼いたカツオを「焼き節」と呼んでいる。 このように、土佐から発信されたカツオのタタキは、今より30年ほど前から冷凍技術開発が進み冷凍ストックができるようになった焼津や各地に広まり、特に焼津では冷凍されたカツオの原料を半解凍で四つ割りにし、焼き上げる技術を開発した。この開発には、焼津の2〜3業者が我先にと権利を競ったこともあったそうだが、今は各社とも自社ブランドをそれぞれの技法で開発し、全国で「カツオといえば焼津」とする地位に築き上げて上げてきた。 一つの食材の歴史に触れて、また、生まれたことの発想の起源が「ならば焼けば」というごく単純なことなどに大きな喜びを抱くと同時に、多くの人々に教えられ助けられて、このように一丁前に「ルーツの旅」などと称して日記をつづれる小生、本当に有り難いと思う。 |
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