「古典籍と大阪」

   

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 大阪は我が国の書物の歴史と深い関わりを持っている。大阪は古来、大陸文化伝来の玄関口という重要な位置にあった。西暦六一〇年、高句麗の僧、曇徴が帰化して紙と墨を伝えたすぐ後に、四天王寺ゆかりの聖徳太子が著した勝鬘・維摩・法華の三経義疏の内、稿本つまり聖徳太子直筆と伝えられる「法華義疏」四巻が御物として現在まで伝わっている。これが我が国最古の現存する典籍である。天平時代には仏教による鎮護国家を目指し、多数の写経が行なわれ奉納された。現存最古の写経は法隆寺旧蔵の白鳳一四年(六八六)筆「金剛場陀羅尼経」である。この様に天平末期から平安期にかけて幾つかの写経が残されているが、後には次第に華美になり、平安末には「平家納経」に代表される金箔や絵画で飾り立てた豪華な『装飾経』が登場する。これらの筆写という方法は、一度に大量の生産は不可能である。天平寳字八年(七六四)考謙天皇が百万に及ぶ経文奉納を発願された時、印刷という方法を取らざるを得なかった。そして六年の間に奉納された「百万塔陀羅尼」の自心印、相輪、根本、六度の四種の経文は我が国だけで無く、年代の明確なものとしては現存する世界最古の印刷物である。その後、印刷技術は寺院によって保存されたが、読者の少ない時代には印刷は却ってコストが嵩み、経典等の布教目的を除いては不要であった。平安時代になって花開いた伊勢物語、源氏物語等の物語文学や、古今和歌集から始まる二十一代集等数々の著作は総て筆写本によって伝えられた。これ以後も長い間、殆どの古典籍は古写本として伝存している。平安末から鎌倉期にかけて幾つかの寺院で木版の経典が作られた。それらは開版した寺社の名から、『春日版』(興福寺:平安末〜鎌倉期)・『浄土教版』(智恩院:鎌倉初期)・『泉湧寺版』(泉湧寺:鎌倉初期)・『南都版』(東大寺他:鎌倉期)・『高野版』(高野山:鎌倉期)と呼ばれている。大阪に於いては、四天王寺に平安後期の「扇面法華経」が伝存している。また鎌倉期には、紙背に朱で多宝塔が捺された大般若経があり、「泉州大蔵寺経」と呼ばれている。

 鎌倉中期に円爾が宋より持ち帰った大量の書物をもとに、東福寺・天竜寺など京五山と呼ばれた禅寺で宋元版を模倣した開版が次々と起こる。所謂『五山版』は鎌倉末期より室町期に亘って続けられ、内容も経典に限らず漢籍、漢詩文集もあり、その数は四〇〇点を越える。応仁の乱(一四六七)を経て都が荒廃すると、その技術は当時貿易で栄えていた堺へ伝播される。足利義氏の四男と言われる堺真宗寺の開基、道祐は正平一九年(一三六四)「論語集解」を開版する。所謂「正平板論語」である。また、応安元年(一三六八)には南荘の彦貞が「五燈会元」を開版する。さらに一六世紀前後に阿佐井野宗禎が「増註唐賢絶句三體詩法」等を刊行し、阿佐井野宗瑞は大永八年(一五二八)に我が国最初の医書版本「新編名方類証医書大全」を、天文二年(一五三三)に天文版「論語」等を刊行した。堺、南荘の宗仲論師は享禄元年(一五二八)に「韻鏡」を、経師屋の石部了冊は天正二年(一五七四)に「四体千字文書法」、天正一八年(一五九〇)に「節用集」などを刊行している。これらを総じて『堺版』と呼ぶ。

 豊臣秀吉の文禄・慶長の役(一五九二・九七)という二度に亘る朝鮮出兵の際、持ち帰った文物の中に多数の銅活字本と銅活字の印刷器具があった。この活字印刷の技術の伝来によって『古活字版』と称される多くの画期的な開版が為された。文禄二年(一五九三)、後陽成天皇は秀吉に献納された銅活字を元に「古文孝経」を開版したとある。慶長年代には木活字によって慶長二年(一五九七)刊「錦繍段」・慶長四年(一五九九)刊「日本書紀神代記」等の『慶長勅版』が刊行された。家康は足利学校の分校である伏見学校の僧三要元佶に木活字を与え(圓光寺活字)、慶長四年(一五九九)刊「孔子家語」等を刊行させた。また銅活字を鋳造させて慶長一一年(一六〇六)に天皇に献納する傍ら、慶長一九年(一六一四)には金地院崇伝らを銅活字印刷に取り掛からせて、慶長二〇年(一六一五)に「大蔵一覧」・元和二年(一六一六)に「群書治要」が完成した。これらは『伏見版』・『駿河版』と呼ばれる。豊臣秀次の侍医小瀬甫庵は文禄五年(一五九六)「標題徐状補注蒙求」と慶長元年(一五九六)「十四経発揮」等の医書数点とを、また豊臣秀頼は慶長年に「帝鑑図説」を刊行している。この活字印刷の方法は権力者だけで無く民間にも伝播し、京都の豪商、角倉了以の息子素庵の出資により本阿弥光悦が開版した慶長一三年(一六〇八)刊「伊勢物語」に始まる一連の『嵯峨本(光悦本)』は、その体裁の優美さで世界的に知られている。

 江戸時代になり世情が安定すると、都市が発達して商業が隆盛し、新興町人層の間に教養、情報、そして娯楽を求めて書物の需要が増大した結果、商業としての出版が成立する。まず印刷技術や文化遺産の蓄積のあった京都に於いて多くの書肆が興り、印刷法を重版が可能で大量印刷に耐え、振り仮名や挿し絵が容易な整版に変えていった。大阪の書肆は京都の技術を受け継ぎつつ、天下の台所として繁栄した新興商人達と結び付き、町人向けの出版で急速に活動を拡大していった。そして井原西鶴作、天和二年(一六八二)刊「好色一代男」に始まる浮世草子は画期的な大ベストセラーとなる。また、歌舞伎、浄瑠璃等の大衆芸能の隆盛と共に、近松門左衛門の正徳五年(一七一五)初演、「国性爺合戦」等の浄瑠璃本も人気を博す。出版と販売・古書店とを兼ね、書籍流通の全てを担っていた当時の書肆は、町人文芸書を始め実用書・教養書・絵本に至る様々な品揃で市井を賑わした。また、大阪の町人を中心とする自由闊達な気風は多くの学者を引き寄せ、そして輩出した。三星屋武右衛門(中村陸峰)・道明寺屋吉左衛門(富永芳春)・鴻池又四郎(山中宗古)ら富商の五同志が三宅石庵を学主に迎え享保九年(一七二四)に設立した懐徳堂には、中井甃庵・竹山・履軒・並河誠所・五井蘭洲等、緒方洪庵が天保一四年(一八四三)に開いた適塾には、橋本左内・大村益次郎・久坂玄瑞・福沢諭吉等々の多くの人材が集い、商人層より山片蟠桃、木村蒹葭堂らの町人学者が出た。この様な文運隆盛の中で大阪は、船場平野町から木挽町にかけての心斎橋筋に四、五〇軒もの書肆が犇めき合うという当時としては全国第一の本屋街を形成し、「当橋条といふは道頓堀戎橋にして…巨商の書肆多く、舗前には新古の諸書をならべ…表には諸国へ送る本櫃の荷つくり、内には注文の紙づつみ…需に応じてひさぐ故に、終日店の開暇なし。書の林の繁れるは文運文華の開くまま、書を読人の多なるにこそ。是ひとへに昇平の恩沢仰ぐべし、尊ぶべし、且黄昏よりして故本の市ありて数多くの書賈市場に集ひ、交易最も賑わし」と摂津名所図会にあるように、江戸、京と共に書籍流通の中心として夥しい数の典籍を生み出していった。