勘次ヶ城(かんじがしろ)   下五島・南松浦郡富江町(とみえちょう)山崎(やまさき)
 「勘次ヶ城」は、富江町の東端山崎の海岸にあり、長崎県指定史跡です。
この石塁は、勘次という者が河童と力を合わせて苦心の末に立派な城を築いたと言われている。

勘次ヶ城 1998/9/12 撮影
勘次ヶ城

 明治以前は森林地帯で、山崎へ入植したのは明治9年、女亀に入植したのが明治33年で、五島藩時代はこの辺境までは目が届いていませんでした。


山崎石塁(せきるい)(勘次ヶ城)

勘次ヶ城にある倭寇像 13世紀から16世紀にかけ、北九州や瀬戸内海を拠点とし、朝鮮半島や中国大陸を侵した海賊は、かの地で「倭寇(わこう)」とよばれ恐れられていた。
 この山崎石塁の構造は、当時、明国沿岸に築かれた海賊の築城と同型といわれ付近には、倭寇ゆかりの八幡瀬や唐人瀬があり、明銭・陶器破片・人骨が出土している。
 富江の豪族田尾氏は、松浦党に属し、ここを出城として海賊・密貿易で勢力をのばしたといわれている。
 その後、廃城に勘次という男が住んでいたことから、俗に勘次ヶ城といわれている。

昭和45年1月16日  長崎県教育委員会指定


 勘次は富江の有名な大工であったが、ちょうど富江藩の命令により大江富江間の道路建設中に突然、姿をくらませてしまった。 この時勘次の年は三十才位だった。多くの人夫による捜索により玉之浦村の小川でやっと見付けはしたものの発狂してどうにもならなかった。
 しかし、富江に連れ帰って間もなくして、山崎に住み付くようになった。

 勘次の発狂の原因は父の代からの信仰を怠けたからだという。
 つまり、勘次の父が山崎郷海岸で難波した唐人船から塔載していた金箱を拾ったが、それには、唐人の幽霊が乗移っていたが、賢い勘次の父はこの幽霊に向かって
 「貴殿はその上に坐っていても伺にもなるまい。それより私にその箱を与えたならば、毎日貴殿の供奉を続けましょう。どうか私にそれを譲って下さい。」といったら幽霊はこの話を解して海中に姿をからました。
 この金箱には銭が六貫目もあったので勘次の家は栄え、父も勿論、供養を怠らなかった。

 ところが、勘次は父の死後、仕事にのみ熱中して供奉することを忘れ怠ってしまつた。その為、唐人の幽霊のたたりで急に発狂してしまったというわけである。

 勘次は山崎郷に住み付くようになってからは、クブキを背に負って村中を歩きまわり食物を乞うていた。与えられた食物は少しも残さず食い尽くしていた。また、米飯を与えられると、謝礼として一滴の水も漏らないという立派な桶を贈ったという。

 この様な生活をしながら夜はずっと河童と一緒に力を合わせて山崎に立派な「勘次ケ城」を築き上げたのである。

<五島 熊本商科大学民俗学研究会 昭和47年2月発行より>


長崎県の河童伝説  長崎坂づくし   対州馬   index