携帯端末を胸ポケットに仕舞い、ボブは温(ぬる)くなったコーヒーを啜った。疲れていた頭に、苦味が染み入る。若干朦朧としていた思考がすっきりとし、少しだけ眠気と疲れが吹き飛んだ。 残りのコーヒーをほとんど一気に飲み干し、紙コップを片手でぐしゃりと潰すと、ダストボックスへ向かって放り投げる。放物線を描き、コップの残骸は開いた穴の中へ吸い込まれて行った。 「……さて、戻るか」 呟き、ゆっくりと歩き出す。休憩コーナーを抜け、本館の廊下へ達すると、五月蝿いぐらいにザワザワとした気配が満ちていた。 (何だ? まだバタバタしているのか? 何を慌てているのだか) 多少呆れつつも、機構職員の側をすれ違う。すると、 「ありえないだろ、それ」 「だけど現実らしい」 「本当にダウンしたようだぞ」 「どうなっているんだ?」 という囁きが耳に入って来た。 (ん? ダウン?) 聞くともなしに耳をそばだて、会話を拾う。 「ファイアーウォールを突破されたのか?」 「そのようだ。管理課が真っ青になっていた」 「あらら」 呆れた声が合の手を入れる。 「あるんだな、現実にそんなこと……」 「データも流失したのか?」 「恐らくな。まだ特定は出来ていないようだが」 「最悪だな」 「ああ」 職員達の声が途切れることはない。 (データ流失? ファイアーウォールだって?) はて?と、ボブは足を止める。 (何だ?) 思わずじっと、噂話に興じる職員達を見つめる。視線を感じたのか、職員達は怪訝な表情をしてボブを見遣った。 「あの、何か?」 略式ではあるが、星間軍の制服を着た精悍な男に睨まれて、声には微かだが怯えが混じっていた。 「いや。……何があったのかと思ってね」 強面を緩め、親し気に尋ねると、彼らは互いに顔を見合わせた。誰も彼もが困った顔をしている。 「……ええっと、軍の方ですか?」 「そうだが」 肯定すれば、ヒソヒソと相談しあう声が聞こえてきた。 「話しても大丈夫なのでは?」 「情報漏洩に当たらないか?」 「いやそれは……」 「星間軍だから……」 「内部か?」 「みたいなものじゃないか?」 小声での相談は徐々に纏まってゆく。暫く待っていると、纏まったらしく、一番年嵩(としかさ)の男が概要を話してくれた。 「理由は判らないが、ディアーナに置いてあったサーバがクラッシュしたようなんだ」 「え……」 「どうも外部から攻撃を受けたようで、ファイアーウォールも突破された」 「は? ……サーバというと、ディアーナ星のセクト端末か? うち(星間連合)の?」 「そうだ」 年嵩の男は頷く。 「この辺りの、セクトの集中業務を行っていたサーバ本体が、何者かの攻撃を受けダウンしたようなんだ。おかげでこっちは、さっぱり仕事にならん」 そう言って嘆く声に、他の職員達も同様の声を漏らす。 「本体がダウンしてちゃ、データの更新も出来ないし」 「……というか、回線すら開かんよ」 嘆き節はまだまだ続く。 「補助金の審査の締めが、今日だったんだが……。こういう事態の場合は、時間オーバーも許されるのだろうか?」 「さあ? 俺も、急いで上にあげなければならない書類があったんだが……」 「右に同じ」 ハアと、沈み込むように溜め息が合唱した。誰も彼も顔色が悪い。あり得ない事態に、あってはならない事態にまいっているようだ。 「なんというか……大変だな」 同情心を込めて、ボブが彼らを見遣る。 「……まあな」 肩を落としたまま、年嵩の男は更に続けた。 「その上、データが一部流失したらしくてな。何が流出したのか、まだ特定も出来ていないようだが……」 「ほう」 何気なく相槌を打ち、ん?と目を細める。 (ちょっと待てよ) 頭の片隅で、警告音が鳴ったような気がした。 (ギルガッソーのメンバーを取り逃がした状況で、うちのサーバがダウンだと?) ビクリと背筋に震えが走る。 (まさか、そうなのか?) あり得ない、これは偶然だと囁く理性と、そうに違いないと反論する理性がせめぎあう。 (偶然なのか? それとも……) ボブの思考が混乱する。そんな最中、別の男が紺のネクタイを緩めながら合流した。胸に下げられたプレートを見ると、管理課となっている。どうやらこの事態の、当事者の登場のようだ。 「はあー、まいった。まいった」 「よう。どうなんだ?」 「全然駄目。物凄く駄目」 手を激しく左右に振り、男は駄目っぷりをアピールする。 「手が付けられない感じ」 「へえ」 「まあ、サーバ本体の予備はあるし、データのバックアップもあるから、復旧事態はなんとかなるんだけど……」 「どうした?」 知り合いなのか、親し気に中年の男が尋ねる。 「どうもバックドアを作られた気がするんだ。ああ、これ俺だけの意見じゃないから。管理課のほとんど全員がそう思ってる」 「わお! やばそー」 「うん、物凄くやばい状態だよ。復旧した途端に、何か仕掛けられそう……。そういう訳で、いま全プログラムを精査中」 再度溜め息をつき、男はネクタイをグリグリと引っ張った。 「ほんと最悪だよ」 「流失したデータも特定出来たのか?」 「出来たよ。生誕式典の物だけ、ごっそりコピーされてた」 反射的にボブの顔が強張る。 「犯人は何を狙ったんだろうな?」 意図がわからず、管理課の男は不思議そうに小首を傾げた。 「まさかとは思うけど、犯人はそれを盗み出す為だけに、サーバをクラッシュせたのか?」 「んー、どうだろ。それは判らないけど、犯人が物凄く腕の良いハッカー、いやこの場合クラッカーって言った方がいいのかな、である事は確かだよ。ファイアーウォールも正面から突破されたみたいだし」 「……おいおい」 呆れた声が漏れた。 「セクト端末にかけられたファイアーウォールって、そんなにちゃっちいのか?」 「そんな訳ないだろ」 管理課の男はそう言って、ネクタイをグネグネと弄る。 「うちのはガードが硬くて強固で、取っ付き難くて、融通が聞かなくて、最悪に弄り難いって評判の代物だったんだぞ」 「ふうん。だけど、崩された訳だ」 「……ああ」 若干ふて腐れて、男は応じる。 「何と言うか、もう自信喪失……」 どよんと男の表情が曇った。 「犯人の特定は?」 「全然進んでない。進入経路も迂回しまくりで、いまだに辿れず」 「うはー。プロ中のプロって感じだな」 「そうだな。遊びでやってる愉快犯ではないかも」 管理課の男はそう言って、厳しい顔をした。そんな男に、大人しく聞き役に徹していたボブが話しかける。 「失礼。もう少し詳しく聞きたいのだが、よいかな?」 穏やかに、けれど有無を言わせず、ボブが割り込む。 「え? どなたで?」 管理課の男は訝し気にボブを見遣った。 「多少の情報を握っている者と言っておきます。あなたの上司に面会したいのですが」 ニコリともせず、ボブは身分証を提示した。 「え、あ……」 覗き込んだ男の顔色がさっと青くなる。 「うわっ。ハイ、直ぐに案内します!」 男の背筋は反射的にのびていた。どうやら桜花部隊の評判を聞き知っていたようだ。 (おいおい。どこまで悪評が広がっているんだ? 最近は目立った事をしていないはずなんだが……) 苦笑を唇にのせ、身分証を内ポケットに仕舞う。 「案内を」 命令口調で告げれば、管理課の男が慌てて動き出した。 「こっちです」 軽く頷き、ボブは彼の後について行く。この男の上司に、ここで起きていること、その状況を聞く為に……。 カツコツ、カツコツ。 二人分の規則正しい足音が、本館の廊下に響いた。 |