降りしきる雨は様々な思惑を飲み込み、全てを覆い隠す。チャプチャプと落ちる水滴に、敵意も困惑も決意も洗い流される。窓を叩く水滴が幾つもの線となって階下へと落ちた。 ザバリ。 たっぷりと水を吸い込んだ合羽が床に投げ出される。しけた煙草を口にくわえ、男は着込んでいた服の胸元を緩める。がっしりとした筋肉質の胸板が微かに露になった。古い傷なのだろう、引き攣った皮膚の残滓が見える。 「ふう。やれやれだ」 濡れた髪を掻き揚げ後ろに撫で付けると、男は煙草に火をつけた。じわじわと煙草がくゆりだす。たっぷりと存分にニコチンを取ると、男は側のソファーにどかっと座り込んだ。 広いソファーをこれでもかという程占領し、泰然と煙りを吐き出す。ホワンと円状の煙りが大気へと拡散した。 右手に煙草を挟んだまま、男は左手でリモコンを取ると、壁に埋め込まれた恒星間通信装置を稼動させ、自分の雇い主を呼び出した。遠く隔てられているはずの人物が、男の前に映像となって姿を現す。男はにこやかにそれに向かって声をかけた。 「よう、ルキアノ。気分はどうだ?」 ヘラヘラと笑いながらも、男は煙草を口元へと運ぶ。 『どうした?』 通信画面の向こうから、低く澄んだ訝し気な声が返って来る。いきなり顔を合わせたにしてはおかしな返答だ。 「あん?」 男は横柄に聞き返す。それをとがめるでもなく、画面上の男は自分の頭を指差した。 『濡れているぞ』 「ああ、こっちは雨だからな」 雑に返答し、煙草の煙りを口から吐き出す。画面の中の人物は短く『そうか』と呟いた。 男がルキアノと呼んだ人物は意外にも若かった。恐らく30代前半であろう、肌にも張りがあり、がっしりとした体からは躍動感が感じられる。 短い髪は無造作に流され、両耳には赤い色のピアスが光っていた。黒のスーツに白のワイシャツという出で立ちは、まるでどこかのビジネスマンのようだ。だが、まかり間違ってもビジネスマンには見えない。その瞳の怜悧さによって、堅気の雰囲気は破壊されていた。 ルキアノはふてぶてしい態度を取り続ける男へと、楽しそうな面を向ける。 『宴の準備は順調か?』 「まあな。ネロが頑張ってるぜ」 『お前は?』 「俺はいわゆるサポーターって奴だ。只今休憩中」 ニヤリと唇を歪め、男は煙草をふかす。ルキアノはそんな男へとやや呆れた目を向けた。 『やる気があるのかないのか、わからん奴だな』 「ひっでーな。俺はやる気マンマンだぜ」 短くなった煙草を足下へ落とし、靴先でグリグリと捻って火を消す。赤い輝きは消え、足下の絨毯に小さな焦げ痕が残った。男は足を組み直し、ふてぶてしい態度のままルキアノを見返した。 「やる事はやった。後は奴等次第だ」 『そうか……』 「星間中央警察の後ろに桜花部隊が控えている事は、内通者の情報から確認出来ている。上手く隠れているつもりだろうが、所詮権力の犬だ。プンプン臭ってるぜ」 男はそう言って、鼻を摘む仕草をした。 「警察が桜花部隊に泣きつくのは時間の問題だ。そうなれば当然奴が出て来る。総代暗殺という推測が成り立つ以上、出て来ざるを得ないからな」 『……』 「引き摺り出せればこっちの勝ちだ」 男は自信たっぷりにそう断言した。 『エイドリン……』 ルキアノは男に呼びかけ、何かを言いかけ押し黙る。男はそんなルキアノを見て、苦笑を浮かべた。 「どうした? 今更躊躇うか?」 『……』 「敵だろう? あれは?」 『そうだな。奴は敵だ。だが……』 情がない訳でもないと、ルキアノは小声で呟いた。エイドリンは、そんな様を見て鼻を啜る。 「ルキアノお前は忘れたのか? 奴が……いや、星間連合が俺達にした事を。お前や、俺や、アイリスやマイにした事を!」 『……』 「奴は星間連合の肩を持った! あれは敵だ! 一矢は敵なんだ! 取り込もうなんて甘い考えは捨てろ。あれは二度とこっち側には来ない!」 エイドリンの罵声に、ルキアノは視線を伏せた。 「だから殺すんだろうが!」 『……ああ、わかっている』 「ならば躊躇うな」 吐き捨てる声はきつい。 「俺達はもう始めてしまっているんだよ。一矢と俺達の理念が交わる事はもうない。……二度とないんだ」 『そうだな』 ルキアノは呟き、顔を上げた。 『わかっている。良く分かっているさ』 その瞳には怜悧な意思が戻っていた。世界に対して復讐を誓った者の感情が宿っている。暗く淀んだ、全てを破壊したいと願う者の衝動的な感情が。 『あの誓いは忘れん』 声には怨嗟の念が混じっていた。対するエイドリンにも、同じような感情がこもる。 「俺も同感だ、忘れるものか。あの絶望と屈辱……そして何より怨念を」 吐き捨て、エイドリンはルキアノを凝視した。 「イクサー・ランダムが星間連合の表看板ならば、奴は間違いなく裏看板だ。奴を殺さなければ星間連合を潰す事は出来ん」 『ああ、そうだな。神殺しは排除しなければならない。例え、それが友であったのだとしても』 「そうさ。それが誰であろうとも……恩人だろうと関係ねえ」 エイドリンの言葉は恐ろしい程明確だった。そこには一遍の情もない。 「邪魔者は排除するのみだ」 決意を込めた言葉が響く。ルキアノは黙って両目を閉じた。遠く、遠く、何かを思い出すかの様に。 『……何故なのだろうな?』 「ああ?」 『マイを殺されて、最も憎悪を抱いたのは奴のはずなのに、何故奴は愛する者を殺した側に味方をする?』 両目を閉じたまま、ルキアノはエイドリンに問いかけた。 「知るかよ」 『……』 「奴の考えてる事なんざ、俺にはわからん。ただ奴は昔っから義理堅かった。あいつの中では、全部納得尽くの事なんだろうさ」 『マイの仇すら討たない事がか?』 「ふん」 エイドリンは二度三度と鼻を擦る。 「その辺は、奴なりの理屈があるんだろうよ」 『理屈か……。聞けば教えてくれるだろうか?』 「はあ? 何を言って……!」 エイドリンは笑い飛ばそうとして気付いた。ルキアノの声がいつになく真剣な事を。 「おい、ルキアノ」 呼びかけた声に、呟きが重なる。 『知りたいと思うのは可笑しい事なのか』 「……」 何も言い返せず、エイドリンが押し黙る。その前で閉ざされていたルキアノの目が開いた。 『友として問いたい』 ルキアノの目が輝く。その虹彩に複雑な紋様を滲ませて。 『奴の心情を』 瞳の中の紋様が複雑に明滅した。文字のような絵のような物が、輝きを放つ。それを前にして、エイドリンは押し黙るしかなかった。止めろとも言えず、深く長い息をつく。 「わかったよ、勝手にしろ。ネロには黙っておいてやる。奴に聞くならさっさとしろよ。作戦は継続しているんだからな」 『ああ』 短い言葉を残し、ルキアノの側から通信は切られた。エイドリンは濡れた髪を乱雑に掻き回す。 「畜生。どいつもこいつも……」 罵り、ソファーにどかっと背中を預ける。だらしなく尊大な姿勢のまま、彼は吐息を漏らした。 「知ってどうするんだよ……。何が変わるっていうんだ」 言葉は空虚で、虚ろだ。 「一矢は敵だぜ、ルキアノ」 のそのそとポケットの煙草を捜し、エイドリンは箱の中の1本を引き出した。クルクルと指に挟んだ煙草を回転させて、彼は瞼を降ろす。 どこかで懐かしい声がした。エイドリンが記憶している少年の声が、耳朶の奥に響く。空耳だと知ってはいても、エイドリンは声の主を捜してしまった。 左右を見回し苦笑を唇に浮かべると、持っていた煙草に火をつける。紫煙がゆっくりと狭い室内に立ち昇った。口に煙草をくわえたまま、エイドリンはだらしない姿勢のまま、天井を見上げ続ける。 ユラユラと煙りだけが空調の流れに揺れ続けた。 |