ディアーナの罠9
作:MUTUMI DATA:2006.2.13


 ぽかぽかとした心地よい空間だった。何時の間にか外の天気は、雨を通り越し雷雨となっている。
 だがこの部屋には、雷の音も滝のように地面を叩く雨の音も響かなかった。穏やかで静かな時間が流れている。
「ん」
 部屋の隅に置かれたベットで眠っていた女性が、微かに身じろぐ。柔らかな毛布がもぞりと動いた。シーツの上を流れていた髪が、しんなりと揺れる。
「んん……」
 半覚醒状態の女性の耳に、微かな声が聞こえて来る。若い二人の男性の声だった。ボソボソと話しているが、口調は何やら深刻そうだ。
「先程正式に連絡がありました。ネロの確保に失敗したと」
「……あー、やっぱし」
「それから本格的な合同捜査の提案も」
「とうとう腹を括ったのか?」
「でしょうね。流石に尻に火がついたんでしょう。まあ、俺は最初から無理だと思っていましたが」
「うわ。酷いなあ」
「的確な評価と言って下さい」
「悪かったな、過大な評価で」
 微かに声がぶすくれる。
「……まあともかく、こういう事態になったからには、急いで彼等と合流しましょう」
「そうだな。事態は一刻を争う」
 その言葉を最後に、静かな沈黙が落ちた。二人の男性は各々何かを熟考しているようだ。そんな最中、毛布にくるまった女性の瞼がピクリと動いた。
「ん……」
 桜色の唇から微かな吐息が漏れる。むずがる様に白い指先が動いた。
「あ、起きそうだよ」
 女性の動きに気付いた、若い方の声の主が簡易ベットに近付いて行った。側にあった椅子を引き寄せ、女性を見守る様に座る。女性の瞼がゆっくりと開かれていった。
 朦朧と彷徨っていた視線が少しづつ定まり始め、とろんとしていた表情も徐々に凛としたものへと変わってゆく。女性は急速に覚醒しようとしていた。
「おはよう」
 椅子に座ったまま、側に控えていた少年が声をかけると、途端にビクッと女性の肩が震えた。
「え?」
 綺麗なソプラノの声が唇から漏れ、ウロウロと天井を彷徨っていた視線が、ゆっくりと左右に動き、その瞳が少年の姿をとらえる。
 女性の側に居たのは、驚く程端正で綺麗な少年だった。その容姿はモデルや芸能人に負けていない。否、どちらかというと、それらにも勝てる程の容貌をしていた。
 少年の肌はツヤツヤでニキビはおろか染み一つなく、肌理(きめ)も細かい。指先でそっと触れてみたくなる絹の肌だ。やや伏せられている瞳の色は焦げ茶で、長い睫に彩られた目には魅惑的な光が宿っている。真正面から視線を合わせたら、心臓を直撃され、きっとトロトロにとろけてしまうだろうと思われた。
 一つ一つの顔のパーツが黄金比率で配置され、その結果出来上がった容貌はこの世の者とは思えないぐらい美しい。少年期特有の大人になりきらない曖昧さも加わり、少年は独特の輝きを放っていた。女のメイファーが溜め息をつきたくなる程の美貌だ。
「……っ!?」
 大きく目を見開いたまま、女性は勢い良く毛布をはね除け飛び起きた。状況把握が出来ないでいる女性に柔らかい笑みを返しつつ、少年がそっと上半身をベットへと押し戻す。
「まだ寝ていた方がいいよ。熱は下がってないんだから。無理はしないで」
 導かれるままに、女性は再びベットに横になった。けれど顔だけは、しっかりと少年の方を向いている。戸惑いの色も濃く、女性は少年を見上げた。
「ここは? それに君は……?」
 説明を求めて、擦れた声が紡ぎ出される。
「僕? ああ、僕は敵ではないよ。あなたを保護した者だ」
「保護?」
 きょとんとした表情が、女性の顔に浮かぶ。
「うん、そうだよ。覚えてない? ビルから落下したのを」
「あ!」
「思い出した? 落ちたあなたを、僕達が助けたんだよ」
 少年はにっこりと微笑んで女性を見つめる。焦げ茶の瞳には、ほのかな優しさがこもっていた。
「君が? 私を助けてくれたの?」
「正確には僕ともう一人でね。あなたを落下地点で抱えたのは、そのもう一人の方だけど。僕はスピードを殺しただけ」
「えっと」
 いまいち状況が把握出来ずに、女性が戸惑う。
「あはは、気にしないで。そんな事よりあなたの名前を聞いても良いかな?」
 ほわんとした優しい空気を纏ったまま、少年が女性に尋ねる。女性は微かに頷き答えた。
「メイファー・リンよ。メイファって呼んで」
「メイファさん?」
 少年が確認を込めて呟くと、女性がコクリと同意を返す。
「危ない所を助けてくれてありがとう」
 ベットに横になったまま枕許にいる少年を見上げて、メイファーは精一杯の感謝の気持ちをあらわした。
「どういたしまして」
 はにかみを浮かべながらも少年が応じる。
「君って呼ぶのもなんだし、差しつかえがなければ、そっちも名前を教えてくれる?」
「構いませんよ。僕は【桜花】。あなたにとっては馴染みのないコードネームかも知れないけれど、僕の属する部隊については、少しぐらい噂を聞いているんじゃないかな?」
「え?」
 少年の発言に、メイファーは間抜けな声を発した。
「な……に?」
「宇宙軍特殊戦略諜報部隊、通称桜花部隊。僕はそこの指揮官をしています」
「……は?」
 ぽかんと、メイファーの口が開き、……開いたまま塞がらなかった。
「桜花部隊ってあれのこと? 星間軍の特殊部隊の? え? え……っ、指揮官!?」
 メイファーの目が極限まで見開かれる。
「なっ……」
 言葉が言葉にならず、短い息がヒューヒューと気道から漏れた。
「そこまで驚かなくても……」
 そんなメイファーの反応に、肩を落とし少年が黄昏れる。視線が微妙に遠くを見つめていた。何だかとても複雑怪奇に落胆しているらしい。
 メイファーが動きを止めて、息を殺して少年に見入っていると、少年の背後から面白がるような声があがった。低い重低音の、背筋がゾクゾクくる魅力的なテノールの声だった。
「桜花、彼女の反応は極一般的なものだと思いますが」
「…………むう」
 少年が背後を向き、一声唸る。
「何を唸ってるんですか、まったく。話が進まない上に脱線しかかっているじゃないですか」
 椅子に座る少年の頭に大きく無骨な手を置き、一人の青年がその横に並んだ。こちらは漆黒の髪に鋭い眼差しの、獣に例えるなら黒豹のような男だった。
 程よく付いた筋肉や厚い胸板が男らしさに彩りを与えている。しなやかな、けれど鋼のような肉体をしていた。少年と並ぶと大人と子供で、その体格差は余りにも大きい。
 新たな人物の登場にメイファーは内心身構える。青年はそんなメイファーに軽く視線を落とすと、
「【02】です」
 名前なのだか記号なのだかわからない自己紹介をした。
「は、あ」
 パチクリとメイファーが瞬きをする。
「コードネームと思って下さい。桜花部隊の副官をしています」
「副官……ですか」
 小声で呟き、頭に手を置かれたままの少年を見る。
「桜花の部下?」
 そっと尋ねると、少年は微妙な顔をしていた。
「一応ね。でもこいつは、上司を上司とも思ってないみたいだけど」
 頭に乗せられた手を弾き、少年がそう悪態を付く。
「ちょうど良いからって、一々手を乗せるなよ」
「高さが程良くて」
「……」
 返された言葉に少年はズドンと落ち込んだ。
「…………みてろよ。今にきっと大きく育ってやる」
 ボソリと漏らされた言葉は、何故か切実な口調だった。メイファーはそんな漫才のような二人のやり取りを、呆気に取られて見ている。
「それはさておき……仕事の話になるが、いいかな?」
 ゴホンと咳払いを一つ落とし、メイファーが横たわるベットの端に青年は腰掛ける。青年の目にも労りの感情が浮かんでいた。
「体調が思わしくないのは理解しているが、こちらも急いでいる。何があったのか詳しく話してもらいたい」
「え?」
「我々にも関係する事であるし、何より……」
「どうやら合同捜査になりそうなんだ。さっきロン・セイファード捜査官から正式に連絡を貰った。だから僕らも色々知りたくてね」
 椅子に座ったまま、少年が青年の言葉を補足する。
「合同捜査ですか?」
「そうなんだ。メイファさん達がネロを取り逃がしたからね」
「っ!!」
 桜色の唇がきつく噛み締められた。項垂れるメイファーをあやす様に宥め、少年は言葉を続ける。
「失敗は気にしなくてもいいよ。無理な捜査を押し付けたという自覚はあるし、……捜査能力を見誤った僕が一番悪い」
「?」
 横たわったままメイファーは少年を見上げる。責められこそすれ、そんな風に庇われるとは思わなかったからだ。
「レミが無理だって言ったのを、僕が押し通したんだ。色々制約もそっちにはついたみたいだし……ごめんね」
「……っ」
 謝られてメイファーは増々混乱した。
「僕らがもっと介入していれば良かったね。……そうすれば、撃たれる事はなかっただろうに」
 少年の視線が、毛布越しにメイファーの足へと向けられる。
「怪我の治療はしたけど、ドクターが言うには痕は残るだろうって。綺麗な足だったのに残念だよ」
 真顔でそう言われて、メイファーは微かに身じろいだ。本気で心配されている事はわかったが、綺麗な足だのどうのと……、聞き慣れていない言葉が気恥ずかしい。
「あ、あの。気にしないで下さい。痕ぐらい平気だし」
「でも、勿体無いよ。細くて色白な足なのに」
 心底残念そうな言葉が漏れる。恐ろしく美しい顔の少年に、綺麗な足だと言われても、メイファーにすれば困ってしまう。自分の足よりも、少年の顔の方が遥かに美麗で貴重だと自覚してしまっているからだ。
(もしかしてこの人……天然?)
 自分の顔の秀麗さを自覚していなのだろうかと訝しみつつ、助けを求めてベットの端に座っている青年の方を見ると、彼は肩を揺らして笑っていた。御丁寧な事に笑い声は噛み殺されている。
(爆笑されてる……)
 色々な意味で気恥ずかしくて、メイファーは切実に逃亡したくなった。
「桜花、また脱線してますよ。それから一つ忠告しておきますが、あなたのその秀麗な顔で『綺麗だ』と告げられても、嫌味にしか聞こえませんから」
 メイファーの困惑の原因を、青年は言葉にして代弁してくれた。不思議そうに少年が首を傾げる。
「どうして嫌味なんだ?」
「自分より年下の綺麗な男から、『綺麗』と言われて、喜ぶ女はいません」
 青年は、微妙な女心を理解しろという眼差しを少年に向けた。
「そんなものなのか?」
「そんなものなんです。桜花が大人の男なら、逆に喜ばれるんですが。まあ今は、子供の姿ですし……止めた方が無難ですね」
「ふうん」
 納得したのかしていないのか、少年は曖昧に頷く。なんだか物凄く憂鬱そうだ。
「……何時になったら、僕の姿は成長するんだか」
 囁き声には、どっぷりと溜め息が詰まっていた。青年はやや呆れた表情を浮かべる。
「人間諦めが肝心だと思いますが」
「……」
 青年の容赦のない言葉に、少年は途端に項垂れる。
「最近のお前って物凄くきついかも……」
「そうですか? まあそれはさておき、時間もない事ですし、仕事の話に入りましょう」
 言いおいて、青年はメイファーに視線を向けた。
「星間中央警察は、ネロ・ストークを一時的にせよ追い詰めたのか?」
「……いえ」
 言葉を濁しつつ、メイファーは自分の身に起こった事を全て説明した。潜伏先と思われる場所への捜査から始まり、まんまと逃げられたところまで、求められるままにこと細かく語った。喋り過ぎで喉がカラカラに渇いた程だ。
 全ての話を聞き終わるや否、桜花部隊の二人は互いに短く息を吐いた。そこに見えるのは落胆と失望だ。メイファーが話していた頃にはあった緊張感が、綺麗さっぱり霧散している。
「レミが力不足だって言ってた訳が、ようやく理解出来たよ」
「人手不足がたたりましたか」
 青年も呟き、虚空を睨む。
「だから、こちらからも人を出すと言ってあったのに……」
 何やらブツブツと、誰かに文句を言っているようだ。
「偶然か、故意か……」
 少年は歌う様に囁く。
「どちらにしろ、取り逃がした獲物は大きいな。【02】」
「はい」
「ネロ・ストークの情報を集めろ。チャンネルは問わない」
「了解。至急かかります」
 軽く頷き、青年は腰掛けていたベットから立ち上がる。長身の体躯をさっそうと捌き、彼は部屋から出て行った。
 一方、ただ一人残った少年はというと、椅子に座ったまま、何故かベットに横たわるメイファーの顔をじっと眺めていた。焦げ茶の瞳が瞬きもせずにメイファーを見つめ続ける。
(え、……何?)
 見つめられ続けていたメイファーの心に、ふとさざ波が立つ。
(何だろう? ……変な感じ。凄く……あれ? 怖い?)
 気恥ずかしくなるのならともかく、視線に対し何故かゾクリとした怖気が走った。言い様のない悪寒が染みの様に全身に広がる。
(……どうして?)
 体が微かに震えだして、ようやく少年の視線に反応しているのだと悟った。少年の視線には、何故か悪意が込められている。
(初対面よね? どうして……そんな風に見るの?)
 メイファーの頭は混乱した。つい先程までは優しい感情をたたえていた視線が、いきなり豹変したのだ。幾ら鈍いメイファーでも、パニックを起こす。
 少年は、そんなメイファーの心の葛藤ですら観察しているようだった。ややして、
「……ふん。まあいい。あなたを信用しよう」
 観察者の眼差しを持ったまま、少年はそう嘯く。
「あ……」
 声が擦れ喉が震えた。
「あの」
 小声での呼び掛けに、ゆっくりと眼差しが返される。
「何?」
「えと、私……」
 困惑したまま呟くと、少年が少しばつの悪そうな顔をした。
「ごめん。ちょっと色々あって、今は無条件で星間中央警察が信用出来ないんだ」
「え?」
「いや、こっちの話だから。ああ、心配しないで。メイファさんは信用する事にしたから」
「はあ」
 パチクリと瞼が上下する。
「身内の組織を疑うような事態って久しぶりでさ。やっぱり色々やり難いね」
「は……い?」
「いや、こっちの話。ええと、それでメイファさんの怪我は大人しくしていればちゃんと治るんだけど、……どうする?」
 少年はメイファーの意思を確認すべく、そう問いかける。
「え?」
 メイファーは意図が飲み込めず、戸惑いの表情を浮かべた。
「捜査の方だよ。このまま軍病院に入院する? それとも僕らと来る? 現場に出るのは無理だろうけど、僕に引っ付いて捜査本部にいるぐらいなら構わないと思うけど」
 怪我をして、捜査からリタイアしそうなメイファーを気遣っての発言だと、直ぐにわかった。
「メイファさんは捜査の鬼みたいだし。変に除け者にするよりも、僕と一緒の方がいいかなって思うんだけど。どうする?」
「勿論行くわ!」
(退院していいのなら、石に噛り付いてでも行かせて頂きますとも!)
 俄然メイファーの目が輝いて来た。軍病院のベットで捜査を気にしながら入院しているよりも、多少の無理はしても、捜査に関わっている方が気分は良い。
「そう、じゃあ明日迎えに来るよ。今日はもう遅いし、殺風景な部屋だけどゆっくり眠って」
 少年はそう言うと、パイプ椅子から立ち上がった。
「お休み」
 極上の微笑みを一つ残し、静かに部屋から出て行く。室内の照明がゆっくりと光源を落とし出した。立ち去る小柄な背に向かって、メイファーが慌てて叫ぶ。
「おやすみなさい桜花。色々気遣ってくれてありがとう」
「……いえ」
 小声が返り、少年は扉の向こうへと姿を消す。
 暗く落とされた照明の中、メイファーは目まぐるしく変わった事態を整理しようと、精一杯頭を捻った。ビルから落ちた所までははっきりと覚えているが、その後は非常に曖昧で、何が何やら、何時の間にか桜花部隊の保護下の身だ。
(助けてもらっておいて、あれだけど。……頭がグルグルするよ〜)
 傷の痛みと発熱と。考えたい事は山程あるのに、全く思考が働かない。どこか朦朧として夢の中のようだ。投与された薬の為か、夢を見ているような感覚があまりにも強い。
(足……少し痛くなって来たかも)
 ジリジリとした熱を、怪我をした部分から感じた。
(痛いというより熱いな……)
 この調子では、今夜は相当に熱が出るだろうと覚悟をし、メイファーは大きく息を吐き出した。
(ロンに連絡をしたかったけど……明日でもいいかな)
 最早手元にない通信端末を捜す気力もない。ぼんやりと天井を見ていたメイファーは、やがてうとうととしだす。薄情にも、相棒テリーの負傷の事すらすっかり忘れ果て、彼女は深い眠りの中へと落ちて行った。
 薬臭さの残る部屋で、疲れ、負傷した体を横たえ、彼女は眠る。同僚の捜査官達が必死に行方を捜しているとも知らずに、ただひとり惰眠を貪るのだった。


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