ディアーナの罠7
作:MUTUMI DATA:2005.12.25


 その男は下界を見下ろすビルの屋上にいた。剥き出しのコンクリートは雨でびしょびしょに濡れており、凹んだ部分には淀んだ水も溜まっている。トロトロと流れる雨水は男の足下を通り、ビルの側壁に落ちていた。
 男は黒光りのするレーザーライフルを左手に持ち替え、右手で胸ポケットを探る。ガサゴソと合羽の繊維が擦れる音が、雨の中に響いた。
「ち。止まねえなぁ」
 豪雨を見上げ、辟易した様にひとりごちる。
「こんな事なら雨用の装備も持って来るんだった。今どき合羽着て狙撃してるのは、俺ぐらいのもんだぜ」
 対雨天候用装備、早い話が雨対策用の自動展開傘とか、悪天候用の防水服とかの事だ。
「何にも用意してなかったから、こっちもずぶ濡れだ」
 やれやれと、合羽を着ているにも関わらず中の服まで湿気ている男はぼやく。
「唯一の楽しみまで湿気ていたら、俺はもう引くぞ」
 ゴソゴソと動いていた右手がポケットの中の煙草を探り当てた。一本取り出し口に喰わえ、火をつける。ふわりと細い煙りが立ち昇り、ニコチンの香りが広がった。
「ふうーーー」
 口の中にたまった煙りを吐き出し、男は再度レーザーライフルを構える。男の持つレーザーライフルはやや小ぶりだったが、その筋では有名な逸品だ。安定性が良くエネルギー効率も良い上に、飛距離も長い。至れり尽せりの名銃だった。勿論、星間軍でも正式採用されている。
「さあて、バンビちゃんはどこかな?」
 ニタリと目尻を下げて電子スコープを覗く。土砂降りの雨、天然の水のカーテンとはいえ、補正の入った電子の目を遮る事は出来ない。肉眼では確認出来ずとも、機械の目は正確にそこにある物を映し出す。
「男バンビはさっき仕留めたから、次は女バンビか……。ああ、見つけたぜ。星間中央警察の子鹿ちゃん」
 スコープの中にメイファーの姿が映る。男が煙草を吸っている間にも、指名手配犯、ネロ・ストークとメイファーはビルからビルへと飛び移っていた。
「……猿かお前等は」
 些か呆れた感情を露にし、男は呟く。
「まあいい。どっちにしろ……邪魔だ」
 スコープの中央にメイファーの姿が嵌った。男は眉間や心臓ではなくメイファーの足を狙った。せわしなく動く体の挙動を予測し、五感を総動員してその動きを感じる。
「邪魔者は退散願おうか」
 誰に言うでもなく呟き、トリガーを引く。虚空にかすかな音が連続して響いた。発射された光弾は、屋上を走るメイファーの左足に全て命中する。
 太股をレーザーで撃ち抜かれ、メイファーの体勢が崩れた。含み笑いを浮かべながら観察する男の前で、メイファーの体が転がる。絶望的な表情を浮かべたままメイファーの体が、屋上からビルの谷間へと落下した。
「さようなら、バンビちゃん」
 男は壮絶な笑みを唇に浮かべる。それは冷酷で無慈悲なものだった。死に行く者を前に、男は歓喜すら抱いていた。自分が奪った命に対し、沸き起こる興奮は麻薬にも近い。この男にとっては、堪らない愉悦の瞬間なのだ。
 だがそんな男の喜びは、直ぐに怒気へと変化した。落下したはずのメイファーがビルの谷間で、何かに捕まり生きていたからだ。メイファーの体が宙吊りのままユラユラと揺れている。男はプライドを刺激され、スコープをメイファーの手元に合わせた。
「……何に捕まっている?」
 観察するまでもなく、それが細いワイヤーだと気付く。メイファーの右腕、手首のリングからそれは出ていた。どうやら細いロープが格納されていたらしい。恐らく星間中央警察の装備品の一つなのだろう。ビルの屋上から落下したメイファーは、咄嗟にロープを窓の柵に巻き付け、転落を防止したようだ。
「やるな。だが……」
 男は呟き再度トリガーを引いた。再びレーザー弾が発射され、メイファーの命を繋ぎ止めていた細いロープが焼き切られる。メイファーの体は一瞬にして落下した。男の耳には聞こえない悲鳴が聞こえる。
「お前の負けだ」
 唇を歪め男は言い、煙草を足下に落とした。濁流の様に流れる水で火はあっという間に消える。男は煙草を踏み潰し、レーザーライフルを肩に担ぐと悠然と踵を返した。
 ザーー。ザァ、ザー。
 男の影を消す様に、雨は降り続けた。




 朝から降り出した雨は、昼を過ぎてもやまなかった。ジメジメとした湿気が服に張り付いて、いかにも鬱陶しい。指で胸元を掴み、一矢はパタパタと扇いだ。ほんの少し風が入り、ましになった気がする。
「……何をしてるんです?」
 側に佇むボブがチラリと視線を投げかけた。
「鬱陶しいから風を送ってる」
「効果の程は?」
「心持ち……あるかな」
 土砂降りの雨を眺め呟く。ボブは一瞬、呆れたような表情を浮かべた。
「無意味な事を……」
「それはそうなんだけど、手持ち無沙汰だし」
 ビルの軒先で仲良く雨宿り中、もといシズカの迎え待ちな二人は、する事もなくぼーっと雨を見ていた。
「雨、やまないなぁ」
「天気予報では、1日中こんな感じらしいですよ」
「そう」
 空に視線を転じれば、どこまでも真っ黒な雲が続いている。重厚過ぎて、クラクラくる程の雷雲だ。
「雷も鳴ってるし」
「嫌いでしたっけ?」
 ドン、ガラガラという独特の響きに、肝を冷やす者も多い。遠くでは平気でも、案外真上で鳴られると怖いものだ。
「僕は平気。どちらかというと、綺麗だって思う方だよ」
「……だと思いましたよ」
 感電するかもしれないという心配を、平気で足蹴にできる神経を持った一矢らしい感想だと思った。ボブ自身も平気な方だが、恐らく一矢の場合は足下に雷が落ちても、平然とした顔をして突っ立っているのだろう。
「それにしても遅いなぁ、シズカ」
「そうですね。そろそろ着きそうなものですが……」
 シズカの運転するエアカーらしき影は見えない。
「混んでるのかな?」
「有り得ますね。ここは繁華街ですし」
「そうだね……って、ボブ!」
 ぼんやりと視線を投げかけていた一矢の目付きが、豹変する。
「どうしました?」
「あそこ!」
 一矢が指差したのは、50メートル先にある古びたファッションビルの側壁だった。理由はわからないが窓の柵から人がぶら下がっている。
「!!」
 ボブがその不自然な光景に、思わず息をのんだ。
「何故あんな所に人間が!?」
「知らないよ!」
 ボブの疑問に一矢が叫び返す。そしてその後、自信なさ気に付け加えた。
「パフォーマンス?」
「……そんな訳ないでしょう!? この天候でそんな馬鹿な事を誰がしますか! それに、あの高さから落ちたら即死ですよ!」
 そう言い返して、ボブは雨の中へと躍り出た。一矢も慌ててその後を追う。
 水滴が横殴りに降りかかる。あっという間に二人の着ていた服は水分を含み、ヨレヨレとした物へと変わった。頬に当たる水滴が、流れとなって顎のラインを滑る。視界の悪い雨の中、二人は古びたファッションビルへと全力で駆けた。
 窓の柵に絡めたワイヤーにぶら下がった人影は、ユラユラと左右に揺れている。左手が緩慢な動作ながら、近くにある突起を掴もうと精一杯伸ばされていた。突起が雨で滑るのか、白い手が何度も上下に揺れる。走りながらそれを見ていたボブが、思わず舌打ちした。
「自殺志願者ではないようですが……」
「長くは持ちそうにないね!」
 隣を走りながら、一矢も言い返す。どこの誰かは知らないが、随分動きが苦しそうだ。かなり無理をしているように見えた。そんな風に考えていた中、突然ぶら下がっていた人間が落下する。人影の手足が壁を掴もうと闇雲に動いた。
「しまった!」
 ボブが鋭く反応すると、水たまりを蹴散らし落下予測地点へと駆け込んだ。バシャンと足下から白い飛沫が上がる。
 一矢は慌ててその場に立ち止まり、落ちて来る人影に意識を合わせた。自由落下させたのでは、ボブは到底間に合わないし、下で人影を受け止めるにしても、重過ぎてボブがダメージを受けるからだ。少し速度を殺す必要がある。
「持ち上がれ!」
 一矢は両手を前に突き出し、イメージ上の人影を抱え込んだ。ドスンと一矢の両手に、信じられない重量がかかる。
「うっ」
 余りの重さに、ガクンと膝が沈んだ。
「重……っ!」
 両手で見えないものを支えたまま、腕に力を込めて全身全霊の力で膝を伸ばす。ブルブルと腕が震えたが意地で押さえ込み、一矢は視線をボブへと向けた。
 ボブは半ばスライディングする格好で、一矢が支えた落下中の人影の真下に潜り込む。若干落下のスピードの遅くなった人影が、コンクリートに接触する瞬間、飛びかかる様にボブは人影を抱き込んだ。
 ドン!
 肉のぶつかりあう鈍い音が響く。ボブはそのままコンクリートの上を数メートルも滑った。バシャバシャと濁った水が波紋を広げる。
「ボブ!」
 慌てて一矢が側に駆け寄る。
「大丈夫です」
 頭から泥水を被ったまま、ボブが半身を起こす。上着もズボンもずぶ濡れになっていた。
「本当に?」
 ポタポタとボブの髪から落ちる水滴を、目の端に入れながら問いかけると、
「ええ」
 しっかりとした答えが返って来た。一矢が安堵の息を吐き出す。
「吃驚した。巻き込まれて怪我をしたのかと思ったよ」
「俺もまずったかと思いましたが……、一矢がスピードを殺していてくれたので何とか」
 擦り傷と恐らく打ち身からだろう、唇を歪めてボブは答える。内臓の破損や骨折の自覚はないらしい。ざっとボブの状態を確認した後、一矢はようやくその言葉を信じた。
「良かった」
 ほっとした気配を発しボブの横に膝をつくと、一矢はずぶ濡れの彼の肩に額を押し付けた。
「?」
「……また亡くすのかと思った」
 小声で呟き、次の瞬間ハッとして一矢は慌てて離れる。
「……そ、それはさておき!」
 ゴホンとわざとらしく咳を発する。物凄くらしくない事をした為、一矢が何時になく照れているのをボブも感じた。
(ああそうか。ゲイル・J・フォックスを思い出したのか)
 それで急に甘えたのかと思い、ボブは少しだけ愉快になる。星間広しと言えども、フォースマスターが真顔で甘える人間なんて片手で足る程しかいない。光栄と言えば光栄なのだろう。
「ええっと、それで結局……誰?」
 片膝をついたまま、一矢は視線をボブの腕の中の人物に向けた。くたっとしたまま人影は動かない。乱れた髪が濡れたまま張り付いていて、顔を隠していた。二人は小柄な人影を観察し、ややして恐る恐る一矢が声を発する。
「ねえ、ボブ。もしかして……」
「腕に当たる感触が物凄く柔らかいです」
 若干言い難そうにボブが申告する。
「……」
「胸……だと思います」
 どう考えてもこの感触は、それだと本能が告げる。
「女の人? でも、どうしてあんな所に?」
 小首を傾げた後、一矢は意を決すると、意識を失ったままの女性のポケットに手を突っ込んだ。ゴソゴソと中の物を物色する。それを見て、ボブが低い声を一矢に向かって発した。
「気絶している女性の服を探るのは、マナー違反ですよ」
「……知ってる。別にやましい事はしてないよ」
 やっぱり後ろめたく思っているのだろう、返す言葉に力はない。そうしてゴソゴソとしている内に、右のポケットからは繋がったままの通信端末が、左のポケットからは手錠が出て来た。
「手錠?」
「正規の物の様ですね」
「……まさか」
 一矢とボブは視線を合わせる。
「可能性はあります。ディアーナに入ったと連絡は受けていますから。それにこの服……」
 水を弾いているスーツは、よくよく見ればどこか覚えのあるデザインだ。
(この野暮ったさは……)
「星間中央警察」
 そう声に出し、一矢は右手で額を押さえた。顔が渋面になっている。
「……恐らくは」
 ボブもそんな一矢に短く同意を返す。ポタ、と水滴がボブの顎から流れ落ちた。雨に降られたまま一矢がガクリと肩を落とす。
「ということは」
 一矢は遠い目を向けた。
「失敗したという事か?」
「そういう事ですね」
 ボブも憂鬱な表情を浮かべた。雨はそんな二人を嘲笑うかの様に、降り続ける。
 暫しそうして呆然としていた二人だったが、一矢が女性のポケットから取り出した通信端末が、五月蝿く音を発するに至って、ようやく注意をそちらへと向けた。通信端末からはしきりに呼び掛ける声が聞こえて来る。
「……出た方が良い?」
「ええ。任せます」
 ずぶ濡れのまま、にっこりと笑ってボブは一矢に対応を譲った。一矢は短く溜め息を零す。
「こういうの副官の役目なんじゃないの?」
「そうですか? 俺は両手が塞がっていますから」
 気絶している女性を抱きかかえ立ち上がろうとして、ボブは左手がねっとりと赤く染まっている事に気付く。
「一矢」
「え?」
 通信端末に向かって話しかけようとしていた一矢は、呼ばれて振り返った。
「怪我をしているようです。左脚が打ち抜かれています」
「具合は?」
「レーザーが貫通しているようですね。動脈に損傷はないようですが、……急いだ方が」
 軽く頷き、一矢は元々の待ち合わせ場所を指差す。
「そろそろシズカが来る。うちに運び込もう」
「わかりました」
 怪我をしている部分になるべく触れない様に、ボブは女性を抱き上げる。痛むのか無意識に女性が軽く呻いた。そのまま慎重に足を進め、ボブは元いた場所へと戻って行った。
 その横を歩きながら一矢が通信端末に返事を返す。
「もしもし。あの……どちら様ですか?」
”そういう君こそ誰だ?”
 通信端末から、低い男の声が漏れる。
「僕ですか? 通りすがりの市民です」
 その返事にボブの足が止まった。
”市民?”
「はい、一応」
 何を言ってるんだと、ボブは唖然として一矢を見る。一矢はボブを横目で見、ペロリと小さく舌を出した。
(今のはわざとか)
 その仕草で、ボブは一矢の意図を汲み取った。星間中央警察の現状がはっきりと判らない以上、女性の意識が醒めるまで待ち、事情を問いただしてから、こちらの身分を明かすつもりなのだろう。内通の疑いがある第5班相手では、流石に慎重にもなる。
(確かにそれが最善なのだが……)
 ボブは女性を抱えたまま、軽く唸る。
(どう誤魔化すつもりだ?)
 伺う様に一矢を見ると、人をくった微笑みに出会う。
(……また何か企んでるな)
 溜め息混じりのボブの思いを他所に、一矢は誠実そうな声で訥々と報告した。
「あのう、路地裏で女性を保護したんですけど。ずぶ濡れで左足を撃たれていて……意識ないんです。あなたは、この人のお知り合いですか?」
”なっ!? 気絶しているのか!?”
 一矢の発言に慌てた声が返って来る。
「はい。パタリと」
”傷は!?”
「ええっと、血がべったりで……あー、うー。大丈夫……かな? えと、多分」
 非常に曖昧な言い方を一矢はした。
”どっちなんだ!?”
「どっちかな? あの僕、ちょっとわからなくて……」
 問いつめる声音に、脅えた発言が返される。声はオドオドとしているが、その瞳はいつもの勝ち気な一矢のままで、何も変わってはいなかった。
「僕そんな事までわかりません。でも血がドクドクって……」
 じっと一矢の視線が女性の足に向けられる。スーツを染めながら、水滴混じりの血がポタポタと踝から流れていた。けれどそれは普通の出血で、決して動脈を傷つけた時のような、吹き出すものではない。このままにはしておけないが、手当てをすれば十分治癒可能な範囲の傷だ。
「僕、一体どうしたら……」
 ほんの少し狼狽した気配が声に混じる。啜り上げる鼻の音が追加された。
”落ち着け! メディックカーの手配をしてくれ。我々も直ぐそこに向かう!”
「は、はい」
 頷き返しながら、一矢は通信端末を持っていない方の手で、ボブの抱え歩いている女性の靴を脱がせた。負傷している足の方のズボンを先から切り裂いて行く。
「あの、それであなたは一体誰ですか? 僕、危ない人とかかわりあいになる気は……」
”すまない。名乗っていなかったな。私はロン・セイファード。星間中央警察の者だ。君の側で負傷しているのは私の部下に当たる”
「刑事さんですか!?」
 殊更びっくりした声を張り上げつつ、血で張り付いたズボンを皮膚から剥がす。
”そうだ。事件を捜査していて……”
 濁すような言葉尻に、一矢の手が一瞬止まった。
「……負傷されたのですね? 事情は大体わかりました」
 素直に頷き、
「それで、この通信端末はどうしたら?」
 と尋ねてみる。
”そのままにしておいて欲しい。逆探知でそちらの場所を割りだせるから”
「はい! あの。僕、メディックカーの手配をするので少し離れます」
”わかった”
 承知したと言う声を最後に、一矢は通信端末から顔を離した。それっきり向こうからの呼び掛けもなくなる。
 元居た場所、シズカを待って雨宿りをしていた、人通りの全くない場所に到着すると、一矢は通信端末を床に置いた。踏まれても大丈夫な様に、わざと端へ寄せる。
「無茶苦茶な会話ですね」
 終わるのを待っていたボブが、呆れた声で感想を漏らす。
「人畜無害だっただろう?」
 若干得意気に一矢が胸を反らした。
「……ノーコメントにさせて下さい」
 ヤレヤレと首を振りつつ、ボブはその場に膝をついた。女性の負傷した足を傷付けない様に、慎重に体勢を確保する。傷付いた足が冷たい床に優しく置かれた。切り裂かれた左足のズボン布がペタリと床につく。
 やぼったい布の間から細い素足が見えていた。普段ならドキリとする所なのだが、今回は血で濡れておりそれどころではない。一矢もボブも真剣な顔で、露になった傷口を見ていた。
「消毒する物ある?」
「簡易の救命セットなら」
 言いながらボブが胸ポケットを探る。
「用意がいいな。何時も持ち歩いているのか?」
「一矢が側にいる時はですが」
 返された回答に、一矢がムッとした表情を浮かべる。
「なんで僕がいる時限定なんだよ」
「気にしないで下さい。別にトラブル率が高いとか、命の危機を感じる事が多いとか、……全然思ってませんから」
 しれっとした表情で言いながら、タバコサイズの救命セットケースをボブは取り出す。
「……言ってるし、思ってるし」
 むうと頬を膨らませながら、一矢はケースを受け取った。
「気のせいですよ」
 人を喰ったような表情を浮かべ、ボブは倒れ気味だった女性の上半身を支え直した。ボブの胸に女性の頭が当たる。
 一矢はパカリとケースを開け、手早く目的の物を取り出した。小さな瓶のキャップを回し、中の液体を半分だけ女性の足へ振りかける。薬品が傷に染みたのだろう、ピクンと投げ出されていた足が微かに痙攣を起こした。
「意識があったら絶叫されてるかな」
「……されてますね」
 女性の力無い上半身を抱えたまま、ボブが一矢の言葉に応じる。互いにこれがまともな治療では無い事を承知しているので、余計に後ろめたい気がした。
「麻酔なしで患部へ消毒剤を振りかけられたら、誰だって泣き喚きますよ」
「……」
 一矢は軽く肩を竦めると、残りの消毒剤を脱脂綿へと振りかけた。適度に濡らし、傷口やその周りを丁寧に拭う。黙々と手を動かしつつ、
「……この傷、きっと残るね」
 ほんの少し気掛かりな調子でそう漏らす。
「そうですね」
「女の人なのに……綺麗な足なのに。可哀想」
 真っ赤に染まった脱脂綿を投げ捨て、一矢は止血効果のある薬剤のフィルムやガーゼを当て、クルクルと包帯を巻いた。適度な力を加え、患部を押さえる様に治療を施す。白い包帯が何とも痛々しかった。
「ここで出来るのはここまでだ。縫合も、薬も投与出来ないし……、シズカまだかな」
 使わなかった薬剤や注射器をケースの中へ戻し、一矢はボブのポケットにそれを捩じ込んだ。女性の上半身を抱えたまま道路を見ていたボブが、視線を一矢に戻す。
「来たようです」
 台詞とほぼ同時に、エアカーが横付けされた。ウインドウが開き、シズカが顔を出す。
「隊長〜!」
 ヒラヒラと手を振って、シズカは自分の到着を合図した。
「ようやく来たか」
 ほっとした表情を浮かべながら、一矢はエアカーに近付き、運転席に座るシズカに指示を出した。
「【06】、133分隊に連絡して軍医を待機させてくれ」
「? えと?」
 シズカはきょとんとした顔をしつつも、一矢を見、ボブを見、その腕の中の見知らぬ女性を見つめる。その表情には不信感が溢れていた。
「拾い物だ。レーザーで左足を打ち抜かれている。まだ応急処置しかしていない。分隊に運び込んで手当てをしたい」
「ああ、わかりました。取り敢えず乗って下さい」
 瞬時に状況をのみ込むと、シズカはエアカーの扉を開けた。すかさず一矢が助手席に座り、ボブが女性を抱えたまま後部座席に納まる。扉が閉まり五月蝿かった雨音も消えた。
「分隊でいいんですか? 病院の方が近いですよ」
 エアカーを発進させながら、シズカが一矢を伺う。
「いや、病院は駄目だ。安全が確認出来ない」
「? もしかして副官が抱えている人は、……今回のテロに関わる人ですか?」
 幾ら何でも街に出た程度で、そういう関係者をひっかける偶然なんてないだろうと、シズカが思いつつ確認を取ると、一矢の眼差しが天井を向いた。シズカの頬が思わず引き攣る。
「まさか関係者ですか?」
「星間中央警察の捜査官」
 端的に答え、言い訳めいた言葉を続ける。
「別に狙って見つけた訳じゃないぞ。偶然だからな」
「トラブルメーカー健在ですか?」
「……言うな、忘れろ。気のせいだ、気のせい!」
 一矢の台詞とほぼ同時に、バックシートから吹き出す声が聞こえた。
「ボブ〜」
 恨めし気な声で一矢はボブを非難する。
「失礼」
 口を閉じ吹き上がる笑いを必死に押さえ、ボブは肩を震わせた。自分で止めておきながら、一層のこと素直に笑ってくれた方が遥かにましだという情けない感情が、一矢の中に沸き起こった。それを知ってか知らずか、ボブの体はいまだに小さく揺れている。
 シート越しに一睨みし、一矢はシズカとの会話を再開する。
「とにかく、そう言う訳でうちのテリトリーで保護したいんだ」
「保護ですか? それ尋問って言いません?」
 エアカーを高速走行させながらシズカが問う。一矢は軽く肩を竦めた。
「建て前上は言わないよ。怪我人の保護だ。ちゃんと手当てもしてあげるし」
「でも尋問もするんでしょう?」
「情報収集って言って欲しいな」
 人の悪い笑みを浮かべつつ、一矢は回答する。シズカが少しだけ呆れた表情を浮かべた。
「わかりました。ではそのように。……あ、星間中央警察への連絡はどうします?」
 ふとそれを思い出し一矢に問う。一矢はにこりと微笑んだ。
「無視」
「……いいんですか?」
「いいの。少し動揺させて、虫を動き易くさせとかないとな」
 一矢の口元が微かに吊り上がる。
「捜査官が行方不明になれば、二課の統制も緩くなる。内通者が本当にいるのなら、何か動きを見せるはずだ。それがどういう物であれ、知りたい」
「罠ですか?」
「そんな大した物じゃ無いよ。単なる余興さ。現場を混乱させるつもりもないし」
 一矢はシズカの深読みを否定する。バックシートで女性を抱えたまま、その会話を聞いていたボブは、そこはかとなく頭痛を覚えた。
(連絡もせず、中途半端に負傷しているという情報だけを与えて、捜査官を連れ去っておきながら、余興呼ばわりしますかね……。その上、わざとらしく通信端末だけを残してくるし)
 エアカーに乗り込む際に、女性の持っていた通信端末を、一矢が取り残して来たのをボブは知っている。忘れたではなく、置いて来たがどう見ても正しい。
 通信端末の回線は開いたままだった。そろそろあの現場に他の捜査官が到着している頃合いだろう。
(心配して駆け付けた捜査官が発見するのは、通信端末と血の付いた脱脂綿。……その状況は誰だって動揺するぞ)
 悪辣という言葉が頭に浮かんだ。
(今に始まったことじゃないが、本当にこの人は容赦がないな)
 濡れたままの短い髪を掻きあげ、背面のクッションに背中を預ける。腕の中の名も知らぬ女性が、苦痛に呻いた。
「……おっと」
 呟き、傷に触らぬ様に楽な姿勢を取らせる。
「起きそう?」
 一矢が背後のシートを振り返り、ボブに問いかけた。
「いえ、大丈夫でしょう」
 様子を伺いつつボブが答え返す。そして薄らと女性の額に玉のような汗が浮かんでいるのに気付き、
「もっとも急ぐにこしたことはありませんが。……少し熱も上がっているようです」
 と、付け加えておく。シズカが了解したとばかりにエアカーのスピードを上げた。
 ウインドウにポツポツと雨が当たり、丸い粒となって側面に流れてゆく。雨の中をエアカーは目的地に向かってひたすら走った。
 前方のスカイロードには、何台ものエアカーが交差し、すれ違っている。流れるような色のエアカーの渦に、一矢達も紛れ込んだ。郊外へ向かう優先ロードを選択し、走行モードを高速のまま維持する。先を行くエアカーを次々と追いこし、シズカは巧みなハンドル捌きで、第133分隊への帰投を急いだのだった。



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