ディアーナの罠2
作:MUTUMI DATA:2005.8.21


 50分後、漸くボブの説教から解放された一矢は、ヨロヨロとした足取りで隊長室へと向かい、横長の3人掛けのソファーに寝転ぶ様に突っ伏した。全身からは完全に力が抜けており、脱力状態なのは一目瞭然だった。
(耳が……)
 両手で耳を押さえ、寝転んだままぎゅっと目を閉じる。
(痛い)
 頭の中にボブの罵声がエコーとなって残っていた。
(久しぶりに本気で怒られたな)
 ガンガンと鳴り響く耳鳴りをやり過ごそうと身じろぎもせずにいると、余計に考えまいとしていた事が次々と脳裏に浮かんで来た。
(……ワットタイガーか。……はは、そうだよな野生の獣がお手なんてする訳ないか)
 仕事中に馬鹿な真似をしたという自覚は、かなりある。けれど……。
(それでも僕は見てみたかった。……いや違う、彼女の代わりに見たかったんだ)
 突っ伏したまま一矢は耳から手を放すと、背もたれに手をつき、ゴロンと仰向けにひっくり返った。高い天井と照明器具が視界に入って来る。眩しい光に目を細めて、一矢は自嘲気味な笑みを浮かべた。
(馬鹿だよな、意味ないのに)
 そう考えて、久しぶりに胸が痛くなった。普段心の奥底に閉じ込めている物が溢れそうになる。懐かしくて切なくて悲しい、愛しい少女の面影が……。
(思えば突拍子もない事を言い出すのは、僕じゃなくて彼女の方が多かったよな。ワットタイガーのお手が見たいなんて言い出したのも、彼女の方だったし。あの頃の僕は、何時も彼女に引っ掻き回されていた)
 星間戦争当時を思い出し、一矢は唇を噛み締めた。
(辛かったけれど、それでもまだ幸せだった。いつ死んでも可笑しくない状況だったのに、未来があると信じて疑わなかった。この戦争が終わったら一緒に住もうと約束もしてた。なのに……)
「マイ……」
 懐かしい彼女の名前を呟いて、一矢は両腕を目の上で交差させた。視界が闇に閉ざされる。
(何を間違えたのだろう……。僕は……)
「……どうして間に合わなかった? どうして……」
(彼女が殺される前に助け出せなかったんだ!)
 深く一矢の心に刻まれた後悔と慟哭。一矢が自分を責めるいわれは、本来はない。マイ・トロイヤ・イミル、一矢が唯一愛した少女は戦犯として星間連合に処刑された。一矢が意識不明の重体で生死の境を彷徨っている隙に……。
 だからどう頑張っても間に合うはずがないのだ。理性では、それは理解している。けれど心が理解する事を拒否していた。
(……あの時僕がまともな状態だったら、そうしたらきっと奴等の動きを察知出来ただろうし、マイを攫って逃げだせただろう。僕がまともだったら……)
「多くの人間がマイを庇って死ぬ事もなかった……。アイリスやルアが死ぬ必要も……」
 呟いて、自分のいたらなさに胸が痛む。
(痛い……な。何時まで経ってもこの痛みは消えない。きっとずっと消えないんだ)
 結ばれた唇から小さな嗚咽が漏れ出る。覆われた腕の下からポロリと涙が零れた。
「……マイ」
(間に合わなくてごめんな。側にいるって誓ったのに腑甲斐無くてごめんな。アイリス、ルア……僕のせいで死なせてしまって……、想像出来た事なのに。戦争が終わったら勝者の間で勢力争いが起こるってわかっていたのに……、僕はそれを甘く見過ぎた。マイが……処刑される可能性も理解していたのに。僕は……)
 唇を噛み締め、一矢は嗚咽を無理矢理呑み込む。
(何も……出来なかった)
 胸の中に沸き起こるのは果てのない絶望、そして後悔。それが誰に向けられたものなのか、最早一矢にも釈然としない。マイになのか、アイリスやルアになのか、それとも自分になのか。
 ただ押しつぶされそうな程の心の闇と、傷を何時も新たに自覚する。傷口に自分で塩を塗るような不毛な行為である事を、常に思い知る。
(……もういい加減に吹っ切ろう。過去を変える事なんて誰にも出来ない……。マイはもういない。この世界のどこにも……居ないんだから)
 それは何時もの暗示だった。一矢が底なしの闇から意識を切り離す為に行う、自己暗示にも似た思考の連続。
 深く息を吐き出し、滲んだ涙をゴシゴシと腕で擦る。灰色の服の袖が水に濡れて黒く変色した。少しだけ赤くなった目で、一矢はぼんやりと天井を眺める。その目はどことなく虚ろだった。
 ソファーに寝転がったまま、全身から力を抜きぼんやりしていると、
「一矢」
 何時もの口調で名前を呼ばれ、一矢は反射的に声のした方向に顔を向けた。副隊長室へと続く扉が開いており、ボブが半身を覗かせていた。全身に浴びた血は落とされ、服も着替えられており、シャワーを浴びた直後なのか髪が若干濡れていた。
「な、何!?」
 ぼんやりしていた所を見られた事に気付いて慌てて起き上がると、目の前にカップに入ったオレンジ色の紅茶が差し出された。
「……?」
 じっと見ていると、カップごと手渡される。
「とりあえず、飲む」
 断言口調で言われ、恐る恐る口をつけた。
「シズカのカーゴ土産が残ってましたから、入れてみました。リィン程上手くはないですが……」
「……ありがとう」
「いえ」
 短い言葉が返り、沈黙が落ちる。ボブは先程の怒りを忘れたかの様に、普段通りの態度で一矢の向かいに座った。互いの視線が探る様に交わる。先に口を開いたのはボブだった。
「目が赤いようですが?」
「っ!? べ、別に何でもない。……お前の説教とは関係ないし」
 動揺も露に一矢が言い切る。
「あ、いや。でも反省はしたから。うん、ちゃんとした」
 じっと一矢を見ていたボブの視線が、ふいに柔らかくなる。そっと手が伸び、右頬を無骨な指が柔らかくなぞった。
「この辺、涙の痕が残ってますよ」
「げ!?」
 ボブの指摘に奇声を発し、一矢が背後に上半身を反らす。手に持った紅茶をテーブルの上に置くと、すかさず両手でゴシゴシと顔を乱雑に擦った。ボブは黙ってそんな一矢の様子を見ている。
「俺の説教をくらって泣く程やわじゃないですよね。何を考えていたんですか?」
「それはその……」
 濁す様に呟いて一矢は視線を反らす。ボブは短く溜め息をつくと、言い難そうにその横顔に尋ねた。
「彼女の事ですか」
 瞬間、殺気にも似た感情が一矢から放たれ、ボブは真正面からそれを受け止める。
「一矢が泣くのは、彼女が関係する時だけでしょう?」
「……」
 ボブの問いかけに無言で返し、一矢は一切言葉を発しなかった。触れて欲しくないと、全身が物語っている。それを知りつつ、ボブが続ける。
「関係していたんですか?」
「……何?」
 ピクリと一矢の眉が跳ね上がった。何を言い出すんだと、目の前のソファーに座った男を凝視する。
「今日のとち狂った行動の件です」
 ボブが血まみれになった原因、ワットタイガーお手事件を示唆し、静かに一矢の返事を待つ。重苦しい沈黙が隊長室に満ちた。
 だが結局、一矢は何も言わず何も返さず、苛立たし気な視線を向けるだけだった。それを見てとり、
「図星ですか」
 ボブが呆れたような声を漏らす。
「……当たりだなんて言ってないけど」
 ポツリと一矢が呟けば、
「行動でばれてますよ」
 ボブは苦笑を浮かべながら応じ、姿勢を糺して一矢を見つめた。
「過去を忘れろとは言いませんが……、頼みますから心臓が凍るような事をするのはやめて下さい」
「……」
「今回だって一矢にしたら、大した事のない行動なのかも知れませんが、俺には……」
 言葉を濁し、ボブが一瞬押し黙る。
「俺には物凄く怖かったんです」
「……陸軍部隊にいたお前がか?」
 何をふざけた事を言ってるんだと、一矢がせせら笑う。
「ワットタイガーなんて、少しも怖がっていなかった癖に」
 あの巨大な肉食獣が襲って来た時、ボブは誰よりも早く、誰よりも的確に行動していた。恐怖を感じていたとは到底思えない。そんな一矢の捻くれた言葉に、ボブが軽く溜め息を吐き出す。
「俺が恐れたのはワットタイガーじゃありません。一矢の方です」
「は?」
「あなたあの時、物凄く虚ろな目をしていたんですよ。そりゃもう絶望的な程どっかにいってました」
「……何それ」
「トリップした麻薬中毒患者の方が、まだましな目をしていますよ」
 物凄い言われように、流石に機嫌の悪い一矢も目を丸くする。
「そんなに僕、可笑しかったのか?」
「ええ、物凄く」
 どきっぱりとボブは肯定し、再度深く溜め息を吐き出す。
「だから俺は、一矢の心が壊れて行くのかと……」
 馬鹿馬鹿しい杞憂だったが、真剣にボブは恐れたのだ。ギリギリの琴線で保たれていた一矢が、とうとう可笑しくなったのかと。
 人間はそう簡単には狂わない。そんな事はボブだって知っている。だが一矢の場合、狂ってしまった方が楽な過去を持っている為、ひょっとするとと思ったのだ。ナイロンザイルの神経を持つ一矢だって、急所を衝かれれば案外脆いのだから。
「ああ、だからお前はあんなに怒っていたのか」
 ボブが烈火のごとく怒ったのが、ただ単に可笑しな行動をしたからというだけではない事に、一矢はようやく気付いた。
「心配してくれたの?」
「ええ。ですが……。その、済みません」
 ボブが唐突に、その場で勢い良く頭を下げる。
「え?」
「反省しています。言い過ぎた点もありました。済みません」
「え、あの?」
 急にどうしたんだと、一矢がオロオロと視線を彷徨わせる。
「先程の説教の件です。頭ごなしに一矢を叱り飛ばしましたから」
「いや、だってあの怒りは正当だったし……」
「それでも上官に向かってとる行動ではありません。それに……」
 恐らく無意識に一矢の傷を抉っていたのだと、ボブは考えた。彼女とどんな過去があり、どんないきさつがあったのかボブは知らないが、一矢が泣く程だ。その傷は相当深い。彼女に関する事は、一切合切が一矢にとってのタブーなのだ。
「……済みませんでした」
「あ、あのさ」
 物凄く困った顔をして、一矢がボブに向き直った。
「謝るのは僕の方だと思うけど……。勝手な行動をして、星間特使に迷惑をかけたし、ボブを血まみれにしちゃったし。僕が全部悪い」
「……」
「あの時さ、物凄く変な事を思い出しちゃって。それで馬鹿やって……」
 一矢は全身から力を抜いて、ソファーに凭れ掛かった。
「もうしない。……心配かけてごめん」
 小声で呟き、ほんの少し恥ずかしそうに続ける。
「……ちゃんと叱ってくれてありがとうな」
「一矢?」
 吃驚してボブが一矢を凝視した。上官に楯突いて、あげく怒鳴り散らして礼を言われたのは、流石にボブも初めてだ。
「だってさ、普通の人間はフォースマスター相手にそんな事をしようとは思わないだろ?」
「それは……」
 まあ確かにそうだなと、ボブは思う。
(一矢を怒らせるのが恐くて、誰もそんな馬鹿な真似はしないだろう)
 自分ぐらいかと、自嘲しながらボブは思った。
「……本当にボブが副官で良かった」
 何故かそこで一矢は微笑を浮かべる。ざらついた所のない純粋な安堵の表情だった。
「は? 自分で申告するのもなんですが、俺は上官を叱り飛ばす扱い辛い部下ですよ」
「そうだけど……、でも僕はイエスマンが欲しかった訳じゃないから」
 微笑を苦笑にかえて、一矢はテーブルから紅茶の入ったカップを取った。口に運び、ほうと一息つく。
「美味しい」
 独特の渋みと甘味が、昂っていた神経を徐々に鎮めてゆく。ささくれ立った一矢の心が少しだけ平静を取り戻した。
 ユラユラと脳裏に蠢く面影を、瞳を閉じてゆっくりと追い出す。忘れたいのに忘れられない、いや忘れる訳にはいかないと感情が心の中で暴れたが、それにもそっと蓋をする。鍵という鍵を自分の心にかけて、一矢は紅茶を飲み干した。
「……ごちそう様」
 呟き顔を上げる。現れた一矢の表情は何時ものものだった。
「美味しかったよ。リィンに負けてないね」
「そうですか?」
 答え返しつつも、一矢を見る目には探るような気配が漂っていた。それを見とがめ、一矢がそっと肩を竦める。
「心配しなくても、この感情の折り合いは自分でつけるよ。少しづつ忘れていくから。恋情も愛情も……憎悪も悲しみも」
 ボブは無言で一矢を見つめる。その瞳の中には微かな同情と憐憫の色が宿っていた。そんな副官の様子を見て、一矢は苦笑を深くする。
「一々気にするな。……そんなに僕は弱くない」
「……はい」
 ボブは頷き、視線を床に落とす。淡いクリーム色の絨毯が視界一杯に入って来た。何故か物凄くズシンと臓腑が重く、胸の辺りに息苦しさを感じた。
(息が詰まりそうだ……)
 視線を上げると何時もの表情に戻った一矢が、ソファーの上でゴロゴロしている。その手には何時取ったのか電子書類があり、多分自分の力で引き寄せたのだろう。靴のまま膝を抱えて、変な姿勢で電子書類を読んでいた。切り替えの早い一矢に、ボブは少し面喰らう。
(……どう見たらいいんだろうな。仕事とプライベートを切り分けれる程大人なのか、それとも……そうしなければならない程傷が深いのか)
 ボブはなんとなく後者のような気がした。単なる予想だが確信があった。
(彼女が生きていたら……一矢はきっと違う人生を送っていたのだろうな)
 そう思って、なんだかやりきれなくなった。彼女を殺したのは星間軍、一矢が属しているのも星間軍。どちらも星間軍だ。
 昔と今とでは体制に大きな違いがあるとはいえ、表看板はずっと同じだった。一矢の複雑な心境を鑑(かんが)み、ボブは心の内で深い溜め息を吐き出す。
 自分で折り合いをつけると言った以上、一矢は他者の助言も手助けも受け入れないであろう。ボブに出来る事は、側にいて見守る事だけだ。
(時々、総代やアシャー上院議員の気持ちが痛い程わかるな。一矢に近い人々が、一矢を心配し続ける訳だ。一矢の心はまだ不安定なんだ。恐らく吹っ切る切っ掛けが必要なのだろう)
 そんな事を考えつつ、電子書類に目を通す一矢を、ボブはぼんやりと眺めた。気まずい気配が隊長室に落ち始めた頃、ひょっこりとリックが顔を覗かせる。
「お二方、もういいですか?」
 口ではそんな事を言いつつも、遠慮なく隊長室に入って来ると、ドカッとボブの横に座った。
「急ぎか?」
 ボブがリックに尋ねる。
「特急でお願いします。微妙な空気の所悪いんですが、仕事をして下さい。気まずい思いをしている暇なんてありませんよ」
 ヘラヘラした言葉とは裏腹に、リックは二人の態度に構わず、さっさとテーブルの上に持って来た電子書類を広げた。
「裏がとれました」
 示された電子書類はテロ情報を記載したものだった。一矢とボブがハッとしてそれを覗き込む。
「ディアーナ星でテロが起きる可能性が高まりました。標的は……イクサー・ランダム。うちの総代です」


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