ポタポタと流れ落ちる液体に、擦れ違う者達が皆青ざめた表情を浮かべた。自分より年下の少年の襟首を掴み、男は血まみれの姿のまま廊下を歩く。 頭から被った赤い液体、どう好意的に判断しても血でしかない物が、ダラダラと頬や腕から流れ落ちていた。男が歩く度に、廊下にはくっきりと赤い靴底が残る。ワークブーツの斑紋と流れ落ちた血の雫が、点々と廊下に続いた。 たまたま彼等に出会った者は、全員があんぐりと口を開け、突然降って沸いたスプラッタな状況に、意識を飛ばしてしまう。辺り一面に静かな悲鳴が広がっていた。 「ボブ……」 男に襟首を掴まれていた少年が、小声で呼び掛ける。いい加減離して欲しいと男の横顔を見上げれば、剣呑な瞳とかち合った。 「何か言いましたか? 一矢?」 丁寧な口調で威嚇をしながらも、ボブの手は一矢を離さない。全身に血を浴びて真っ赤なボブとは違い、一矢はどこも汚れてはいなかった。灰色のワークシャツとズボンは、今朝特殊戦略諜報部隊を出ていった時のままだ。 「……何も言ってない。……えと、そのさ」 自分達が通った後の廊下の汚れと、すれ違う部下達の引き攣った顔を思い出し、一矢は困った様にボブを見上げた。 「迷惑だと思うんだけど……」 「左様ですか」 口調はどこまでも素っ気なかった。困り果てていた一矢の耳に、バタバタと駆け寄って来る二人分の足音が聞こえる。廊下の向こうから、大量のタオルを抱えたリックとリィンが登場した。一矢は密かに安堵の息を吐き出す。 「やだっ、副官〜! 真っ赤ですよ! 怪我をしてるんですか?」 背伸びをしたリィンが、ボブの顔にタオルを当てゴシゴシと擦る。白かったタオルは途端に赤くなり、リィンの手をも赤く染めた。 「怪我はない。全て返り血だ」 ボブの短い返答に目を見張りながら、リックもボブの頭にタオルをかける。それで髪を拭けという意味らしい。 空いていた片手でタオルを押さえ、ボブが無言で髪を拭く。 「何があったんです? アルゼ星の停戦ラインの視察じゃなかったんですか?」 矢継ぎ早の質問に、ボブが肩を竦ませた。 「確かに視察だったが……な」 「?」 歯切れの悪い言葉に、リックの視線が隣の一矢に注がれた。 「何をしたんです? 隊長?」 「何もしてないよ」 フルフルと誤解だと首を振ると、頭にタオルをかけたままのボブが爆発した。 「そこ、嘘をつかない! 一矢があんな事をするから、俺がこんな状態になるはめになったんでしょうが!」 「……?」 リックとリィンが共に首を傾げる。一矢が気まずそうに視線を反らした。襟首を掴んだ手に力を込めて、ボブが凄む。 「停戦ラインの視察の時に、ワットカノン平原で猛獣の群れに襲われた。あそこは原野だから猛獣が出る事は覚悟していたし、今更っだったが……」 ボブの眉間に怒りの皺が寄る。 「ワットタイガーの群れを見て、嬉しそうに笑わないで下さいよ、一矢!」 「……え?」 「ワットタイガーの群れって……」 狙われた者は90パーセント以上の確率で餌になるという、有名な逸話のある獣だった。大型の肉食獣で、その体長は10メートルを軽く超える。星間史上もっとも獰猛で有名な、ほ乳類系遺伝子の肉食獣だ。外観は恐ろしい事にとても愛らしい。大きなシマ猫に見えるのだ。 「可愛いからって、あれを撫でようとしますか!?」 「は? 撫でる?」 「なでなで〜?」 リックとリィンは呟き、その意味を理解し一気に青冷めた。 「何をしているんですか、隊長!」 「そうですよ〜! あんなの撫でて可愛がる生き物じゃありませんよ〜!」 「いや、つい」 リックとリィンにまで責められ、一矢の視線が微妙に泳いだ。それに反比例してボブの表情が険しくなる。 「おまけに牙を剥いて襲いかかる寸前のワットタイガーに向かって、お手まで強要して! 俺は本気で背筋が凍りましたよ!」 リィンの動きが止まった。 「お手……?」 犬や猫相手ではないというのに、体長10メートルを超える肉食獣にお手を迫る一矢。脳裏にその光景がくっきりと浮かび、リィンは体をよろめかせた。 「隊長ぉ。何を考えてるんですかぁ〜」 「いや、だって可愛かったし。円らな瞳がキラキラって……」 ワットタイガーを語るとは到底思えない形容詞に、リックが額を押さえる。ボブの機嫌が更に悪くなった。 「そのお陰で、俺は闘争本能バリバリのワットタイガーの群れと、戦う羽目になったじゃないですか!!」 「戦ったんですか? 副官……」 「ああ」 「うわぁ」とリックの顔が盛大に歪む。 「飛びかかって来たワットタイガーの喉笛を、片っ端からかっ切った」 どうりで血まみれな筈だと、クラクラしながらリィンは思った。 「だから全身血まみれなんですね〜」 「ああ」 まったくもって不本意ながらと、その顔は語っている。スマートな戦いを基本にしているボブにとって、こういう泥臭い方法は嫌いなのだ。 「それで、視察はどうなったんですか?」 「星間特使に押し付けてきた」 憮然とした顔でボブが答える。 「一緒に行った中にダーク・ピットがいたからな」 「あらま」 リックが呟き、リィンが「それはラッキーですね」と顔を綻ばす。一矢繋がりでダークと親しい関係上、星間特使としての彼の優秀さを、二人とも良く知っている。だからボブの思いきった判断にも納得がいった。 「じゃあ〜、アルゼ星からここまで、彼に転移させて貰ったんですか?」 「そうだ。何しろ一矢は帰りたくなかったらしいし」 「?」 リィンが怪訝な顔をする。 「お手が見たいとか、しつこく言ってましたよね?」 尋ねるボブの顔が恐ろしく怖かった。 「……だって可愛いじゃないか」 怒られているという自覚はあるのか、ボソボソと一矢は答える。その一矢の囁きにも似た反論を、ピシャリとボブが遮った。 「言い訳は結構です」 そしてそのままノシノシと歩き出す。無論その手は一矢の襟首を掴んだままだ。つられてリックとリィンも後を追う。 「あの〜、副官……シャワーに……」 点々と続く赤い足跡を気にしながらリィンが声をかけると、 「後でな」 視線を前方に向けたまま、ボブが素っ気なく答えた。思わず後をつけていた二人は、互いに顔を見合わせる。一矢を引き摺り血まみれのまま歩くボブの横顔は、どうみても怒り心頭、全身からムンムンと怒気を発している。 「……」 「……」 様子を伺う無言の視線が絡み合い、二人は同時にふぅと溜め息を零した。ここまで怒っているボブを見るのは、二人にしても初めてだ。滅多にない珍事というより、ボブの怒りのボルテージが高過ぎて、どうにもこうにも恐ろしい。 「ボブ……」 困ったような顔で、引き摺られたままの一矢がボブを見上げる。 「あのさ……本当に悪かったと……」 宥める声への回答はなく、一行は副隊長室へと行き着いた。ボブが一矢を問答無用で廊下から部屋の中へと放り込む。心配そうなリィンと困ったような顔のリックを残し、ボブも部屋に入った。 「30分程、ここを封鎖しておけ」 「でも……」 困りますと続けようとしたリィンの前で、自動扉が閉まって行く。閉まりきる直前、副隊長室からボブの怒声が聞こえた。 「いい加減にしろ、この馬鹿が!」 一矢を前に仁王立ちのボブの後ろ姿が、閉まる扉の向こうへと消える。扉が完全に閉まり、途端に廊下はシンと静かになった。 「……馬鹿って言ってましたね、副官」 取り残された廊下で、閉ざされた扉を見ながらリィンが呟く。 「そうだな。……あれはどう見ても本気で怒ってるぞ」 「そうなんですか?」 「ああ。とても30分では終わらないだろうな」 ボブによる説教タイムが思ったよりも長くなりそうな気配に、リックはヤレヤレと首を左右に振る。 「リィン、とりあえず掃除ロボを呼んでくれ。廊下の血だけでも落とそう」 「はい」 建設的なリックの意見にリィンが頷く。中の様子を気にしながらも、リィンは延々とこべりついた血を落とすべく、館内を清掃している掃除ロボットに召集をかけた。それを横目にリックが堅く閉ざされた扉を睨む。 「急ぎの用件があったんだが……」 呟く声に応じる者は生憎と誰も居なかった。一矢もボブも副隊長室の中であり、怒りまくっているボブと叱られる一矢という状態では、とてもじゃないがリックの報告は聞けない。 「はぁ……」 小さく溜め息を零し、リックはどこからともなく集合して来たロボット達が、機械的に清掃作業を開始する様子を見守った。クルクルと円筒形の掃除用ロボット達が廊下を動き回る。 リィンは特に汚れの酷い箇所を重点的に掃除する様に命令ルーチンを変更した後、やっぱり気になるのか自分もモップを手にし、掃除用ロボット達に混じって働き出した。腰丈程のロボット達を従え一生懸命掃除をする姿が、なんだか微笑ましくて、リックはつい笑ってしまう。 (なんだか知らんが、この光景和むな) 血の痕と格闘するリィンに対しかなり失礼な感想を抱きつつ、リックはその場に背を向けた。 「出直すか……」 こうなった以上、大人しくボブの説教時間が過ぎるのを待つ方が得策だろう。あの怒りの矢面に立ちたいとは、流石のリックも思わない。 (一体何分かかるんだろうな? 副官、せめて40分で終わらせて下さいよ) 切実にリックはそう思った。それ以上かかるようなら、物凄く嫌だが、絶対やりたくなかったが、副隊長室に乱入するしかないとも考える。 (最大譲歩で50分。それ以上は待ちませんよ) 腕時計を見て時刻を確認しつつ、リックはその間にやれる事をやってしまおうと思う。 (情報の確認に二、三心当たりを当たっておくか) 隊長と副官のコンビがドタバタしている間にも、有能なナンバー3は着々と己の職務を遂行するのであった。 |