ダークウィザードの伝説
第1章 アクアー水のエリアー
4アクア女神
作:MIHO イラスト:SMACより

それは、およそ、人間(ひと)に体現し得る美しさじゃなかった。
そう、人間ならざる者、神格を有するものだけが持つことのできる美しさ。

くせのない豊かな髪は、水晶を細かく櫛削って造りだした極細い糸のよう。滑らかな白磁のような肌は一片の曇りさえない。
優美な曲線を描く眉、深い湖水の色をした瞳は穏やかな光を放っている。すっと通った鼻筋に、慈母の微笑みを形造る唇。
失礼なこととは承知しながらも、わたしはその姿から目を離すことはできなかった。

でも、それも仕方がないと思うわ。きっと、誰だろうと、そのお姿を初めて見た人は 同じような反応を示すはずよ。
そう、それ程途方もなく、お綺麗な方なのだ。アクア女神様は。

「アクアの都へようこそ。異界より来たりし少女よ」

そして、紡ぎ出された声は、まるで妙なる至上の調べのごとく。
いつまでもその余韻に浸るわたしを無視して、威儀を正しファイルが口を開く。
「御 女神におかれましては御機嫌麗しく、拝謁賜わりますこと光栄に存じます」
普段の尊 大な態度からは想像もつかない低姿勢。それはもう一瞬、我が眼我が耳を疑ったぐら いに。
「貴方も、息災であること何よりです。ファイル」
はたして、普段のファイルを知っていらっしゃるのかどうか、アクア女神様のたおや かな微笑みには少しの陰りもみられない。

「失礼ながら御女神にお尋ね申し上げる。此度は如何な故あって、我だけではなく、 この者までもお召しになられたのでしょうか?」
言いながら、チラリとくれた一瞥が如実に語っている。
“どこの馬の骨ともしれない奴が、貴き女神にお会いするなど、分不相応も甚だし い”と。
あぅぅ。どうしてわたしは、こんなにもファイルの心の声が理解できるようになって しまったんだろう?しくしく。

でも、その疑問はわたしも同じ。ただの一般市民(こことは違う世界の、だけど)の わたしに、どうして女神様が会ってくださるのか。いったい、どんな理由があればそ んなことが可能なのか?
いくら考えても、答えは出てこない。
けど、恐れ多くて女神様に直接お尋ねすることなんてできないし。
思い悩むわたしを残して会話は続いていた。

「そうですね。そのことをお話する前に、まずは場を移しましょう」
そう仰りながら女神様は、優雅な動作で座っていた玉座からお立ちになられた。その 姿の優美なことといったら!
薄い布を幾重にも重ねた衣装の裾を捌く何気ない仕種が。「こちらへ」と差し招く手 の動きが。そして何よりも、その立ち姿そのものが息を飲む程にきれいだった。

「ほれほれ。プリス嬢ちゃん、こっちじゃぞい」
またもや見惚れてしまって動きの止まったわたしを、グラスワード導師が「こっち こっち」と手招きしながら呼んでいる。
はっ。と気付いてみれば、すでにファイルの姿謁見の間にはなかった。
ったく。薄情なヤツ!声ぐらい掛けてくれたっていいでしょーに!!
内心文句を言いながらも、わたしはグラスワード導師の後に続いた。


□□□□


案内された場所はがぐわしい香と、穏やかな光に満たされた居心地の良さそうな部屋 だった。
部屋の中央には、硝子で造られたようなテーブルと椅子が置かれていて、わたしは促 されるままそこに腰を下ろした。
しかし、これまたびっくり。わたしが今座った椅子なんだけど、外見からうける印象 はどう見ても硬質そうな感じがするのに、実際に手を触れてみると(う〜んどういえ ばいいかしら?そう、あえて言うならば、ちょっと固めのゼリーみたいな感じ)ぜん ぜんそうじゃなくて、程良い弾力性があって座り心地は実によかった。
後でグラスワードさんに尋いてみると、『流体金属』なるもので造られたものなん だって。さすがに不思議の世界。いろんなものがあるのね。
そんなことを考えている間に、いつのまにかテーブルの上にはいい香のするお茶と干 果物のようなお菓子が用意されていた。




「ラケルの実を乾燥したものです。おいしいですよ」
と、にっこり華のような笑顔で説明で説明してくれたのはきれいな虹色の翅を持った エルフのお姉さん。
触れたら壊れてしまいそうな程繊細で、一種近寄り難い雰囲気なのに、その笑顔はこ との他親しみやすいものだった。
「ありがとうございます」
思わず笑顔を返したわたしに、
「どういたしまして」
見惚れるような笑顔でそう言った後、優雅な動作で一礼し、部屋を出ていった。エル フのお姉さんを見送った視線をテーブルの上に戻して、わたしは始めて気がついた。

あれ?一個足りない。テーブルの上にはお茶のカップは三つ。アクア女神様、グラス ワード導師、そしてわたしの分。ファイルの分が足りないんじゃないの。
そう思って 見てみれば、ファイルは椅子には座ることなく(まあ、そうしようとしたところで、 いくらなんでもお馬さんが座るのは無理だと思うけど)わたしの後に立ったまま。な る程、だからファイルの分はいらない訳ね。
しかし、いつのまにわたしの後ろに回ったんだか。他のことに気を取られていたので それはわからないけど、なぜ彼があえてこのポジションを選んだのかは、さして考え ずともわかる。

ファイルとしては、さりげなさを装ったつもりなんだろうけど、その魂胆は見え見 え。
そう、それは。わたしがなにか粗相をしたら、いや、その素振りを僅かでも見せよう もんなら速攻ではたき倒すため。
まったく、底が浅いというか。くだらないことに労力をかけるんだから。
“貴様がおとなしくしていればなんの問題もないことだろうが!”
とかなんとか、ここでファイルのつっこみが入ってもおかしくないんだけど、しかし ながらそれは断念せざるをえない。
いくらなんでも、女神様の前でそんな失礼なことはできないだろうし、何よりも麗い 唇を開いて女神様がお話を始められたからだ。

「まずはこの夢幻界の成立ちについてお話しましょう」
そう言ってから語る女神様の話は、この間ファイルが教えてくれたのとあまり変わら なかったけど、細かなところが補足されていたのと、流麗な女神様の声で語られてい たのとでまったく苦にはならなかった。
もし、これが他の人だったら「もう聞いているからいいです」とかって断ってるとこ ろだけど。

「七つの神が造りし世界は、この夢幻界の他にもいくつか存在し、それぞれの世界と 夢幻界は『扉』でもって繋がれています。そして、その『扉』は何も七つの神が創造 した世界とだけ繋がれている訳ではありません。他の異なる神の創造せし世界とも 繋っがているとされています」
ここで一旦言葉を切り、優雅な仕種でお茶を口に含む。「貴方もどうぞ」と薦める女 神様の言葉のまま、わたしもお茶を口に運んだ。芳醇な香が口の中一杯に広がる。
すっごく、おいしい。それに、おいしいだけじゃなくて、まろやかな味がとても落ち 着いた気分にしてくれる。
ゆっくりと味わいながらお茶を飲み終わるのを待って、女神様の話は続く。

世界と世界を繋ぐ『扉』。その扉はほぼ常時開いているらしいけど、それを利用でき るのは、扉と扉を繋ぐ『道』が安定しているときだけだという。
この夢幻界を創造した神々が造ったとされる別の世界。同一時空軸に存在しているそ れらの世界とを繋ぐ道は、比較的安定していて、ある程度力を持ったものならば自由 に行き来することが確認されている。

でも、それ以外の世界はそうじゃない。道は常に不安定で、それでも繋がってるだけ ましというもので、突然消えたり、全然違う所と繋がったりすることもあるんだっ て。
それに、道を通って別の世界に出られればいいほうで、ヘタをすれば、不安定な道の 変化に巻き込まれて、そのまま、はいサヨウナラ。なんてケースもあるくらい、危険 なしろものなんだと言う。

だから、そういった不運な事故を防ぐ意味もあって、道を使用しても安全であると保 証されていない扉は、夢幻界の守護者でもあるアクア女神様達の命によって、普段は 閉ざされているんだけど。
しかし、極まれに(どういった理由でそうなるかはわからないらしいけど)いつも閉 ざされていたはずの扉が、勝手に開いてしまうときがあるらしい。
そのときに限って、普段は不安定極まりない道が、これ以上はないってくらい安定す るんだって。つまりは夢幻界と別の世界とを繋ぐホットラインができちゃうわけね。
けど、その道もずっと繋がっているわけではなくて、長くても数日でもとに戻ってし まう。通常ならばそれでおしまい。なんだけど、これまた極々まれに、そのホットラ インを通って、こっちの世界に紛れ込む者がいるらしい。

異なる世界から訪れし者、『来訪者』。自分自身の意思で、この世界に来たわけじゃ ない来訪者達は、当然、元の世界に戻りたいと思うだろう。
でも、なんかそれってすっごく手間がかかるというか、難しいんじゃないかって思っ たんだけど、そういった人の大半は、比較的速やかに元の世界に戻っていらしい。と いうのも、ある程度力を持った人ならば(そういう人を『術師』っていうんだけど。
ちなみにそれより位が上の人は『導師』と呼ぶんだって)力に応じて多少不安定で あっても道を繋ぐことができるのだという。
でも、中には導師級の力を以てしても、太刀打ちできないくらい手ごわいのもある。

では、そういうのはどうするかと言うと。ここで、夢幻界の守護者でもあるアクア女 神様達のお出ましとなる。
女神様のお力を以ってすれば、いかに不安定な道だとて、それを固定し、別の世界と 繋ぐことも可能なんだと言う。
だが、しかし。それは通常の状態でのこと。残念ながらいまはそうではない。
すでに夢幻界は異質なものに取り巻かれている。それは、沈痛な面持ちの女神様の表 情をみれば一目瞭然だと思うわ。
なんか、すっごくヤバイ状況になっちゃてるみたい。

「本来ならば、直ぐにでも貴方を元の世界に返してあげたいのですが...」
そうおっしゃる女神様の顔は、心無しか曇っているように見える。そんなに女神様が 気にすることじゃないのに。
「何も御女神がお気にされる必要はありますまい。そもそも、この者が勝手にこちら に迷いこんだのが悪いのです」
言ってることは至極当然なんだけど、何となくムッとするのは何でかしら?
けれどわたしが怒りの鋒先を向ける前に、ファイルが続ける。

「しかし、御女神の御力を持ってすれば、この者を元の世界に戻すことなど、容易い ことでありましょう」
「確かに、この夢幻界が本来の状況であったならば、それも難しいことではありませ ん。ですが、いま夢幻界は極めて異質な状態にあります。世界と世界を繋ぐ扉はおろ か、この夢幻界の大陸間を繋ぐ扉さえも閉ざされてしまったのです」

「!!」
驚愕の表情のまま言葉もないファイル。その姿を見れば、この世界のことをそれ程理 解していないわたしにも、これが驚嘆すべき事実だということはよくわかる。
「しか し、何故そのようなことが?」
驚愕から立ち直ったファイルが尋ねる。
「ふむ。確証はないがの。恐らくは『時空の塔』が関係していると思われるのじゃ」
じくうのとう?
耳慣れない単語に、思わず聞きかえしたわたしに、グラスワード導師が続けて説明す る。

グラスワード導師の説明によれば、『時空の塔』とは、第六の大陸“閉ざされた大 地”にある塔で、世界創世の際に生じた『歪』を抑える為、“七つの神”が大地に 穿った“楔”なのだという。
『時空の塔』が、夢幻界の『歪』を正す為にどのような役割を果たしているのか、詳 しいことはわかっていないらしい。
しかし、そこは、アクア女神様の妹、氷を司るレ ア女神様が守護していることから聖域とされ、余人が容易く近寄ってはならない場所 とされている。
まあ、仮にそうじゃなかったとしても、絶間ない吹雪と凍てついた氷土に阻まれて、 そうおいそれと辿り着けるものじゃないけど。
これまでがそうであったように、これからも静謐なときを過ごすはずの『時空の塔』 に異変が起こったのだという。

「さて、あれは幾日前のことじゃったかのう...」
思い出そうとするかのように、一瞬瞑目した後、グラスワード導師は語り始めた。
「『時空の塔』から異質な力が放たれたのじゃ。それは、ほんの一瞬じゃったがの、 この夢幻界を覆いつくすほどに強大なものじゃった。そうして全ての“扉”が閉ざれ てしもうた。世界と世界を繋ぐものだけではなく、この夢幻界の大陸間を繋ぐ“扉” までも、じゃ。夢幻界の“扉”はそれぞれの大陸を守護している精霊神の御力によっ て維持されておる。じゃから、それに干渉して、強制的に閉ざすことなぞ、有り得ぬ ことなのじゃ。本来ならばの。決して有り得ぬはずのことが起きる。...こうなっ ては、もはや退っ引きならぬ事態が起こっておると認ざるをえまいて」

「そこまでわかっているのならば、何故『時空の塔』を調べぬのだ?」
「むろん、すでに異変の調査は行われておる。その為にこのアクアだけではなく、他 の大陸からも大勢の識者達が『時空の塔』に赴いた。じゃがの、調べることはできな んだ。誰も『時空の塔』入ることができなかったからじゃ。塔の周囲には強固な結界 が張り巡らされておっての、導師、術師、賢者の力を合わせてもそれを打ち破ること は適わなかったのじゃ」

「な、何だと!?」
「驚くのも無理ないことじゃが、真のことじゃ。しかし、それでも、一つだけわかっ たことがある。ルシア神殿の神官長の言によれば、その結界には絶対的な理が働いて おるのじゃと。いわく、“夢幻界に属するものは、何人であろうと結界の内に踏み入 ることはできぬ”とな」
ここまできたら、もう沈黙するしかないだろう。事態はとんでもない方向に転がって しまっているみたい。
けど、驚愕の事実はこれで終わりじゃなかった。グラスワード 導師の話にはまだ続きがあったのだから。

「憂慮すべき事態はそれだけではないのじゃ。ともすれば、こちらの方がより重要な 懸念かもしれん。異変調査に赴いた者達は、まずレア女神の居られる蒼氷宮へと向 かった。まあ、当然であろうの。『時空の塔』に異変があるのならば、その監視者で あられるレア女神が何よりも御存知であるはずなのじゃから。お話を伺おうと思うた のじゃろう。しかしレア女神はお居でにはならなかった。それだけではのうて、女神 に仕えておる氷精達もみな動きを止めておったのじゃと」

「本来ならば例えどれ程離れていようと、レアの気配を感じることはできるのです。 しかし、いまはこの夢幻界のどこにもレアを感じるかとができません。ただ一点、 『時空の塔』を除いて。確証はありません、しかしレアは『時空の塔』に居るので しょう。けれど、無事で居る保障はどこにもありません」
そう仰る女神様の沈痛な表情を見て、わたしは始めて気付いた。女神様がこれほど顔 を曇らせているのは、夢幻界の現状を憂えているだけではない。妹であるレア女神様 の身を安じているからなんだわ。
神様であっても肉親を心配する気持ちは変わらないんだ。
そんなことを考えているところに、聞こえてきたファイルの声で現実へと引き戻され る。

「何ということだ。そのような事態になっていたとは...
力なくそう呟き、そして意を決したように続ける。
「御女神。畏れながら、御女神の御力にすがることはできぬのでしょうか?御女神の 御力を以てすれば、『時空の塔』の結界を打ち破ることも...」
ファイルに皆まで言わせずに女神様が口を開く。

「それは、できません。ファイル、確かに、私達精霊神の力ならば、結界を破ること も可能でしょう。しかし、その為には、結界を上回るより強力な力で以て打ち破る必 要があります。そして、その過程に行使された力は、結界を破るだけではなく、少な からず世界に影響を与えるでしょう。強大な力を行使すれば、その反動もまたより大 きなものとなります。結界の強度が正確にわからないまま、干渉を行えば、どのよう な事態になるのか、まったく予想がつきません。私達は、夢幻界を守護する者とし て、世界に危険をもたらすかもしれない行いをすることはできないのです」

って、ことは、わたし、元の世界に戻れないってわけ!?そ、そんなぁ...。そん なわたしの嘆きの声が聞こえたのかどうか。
「ですが、だからといって事態を解決できる手段を模索することを投げ出すわけでは ありません。ですから、そのように心配する必要はありませんよ」
言葉だけでなく、穏やかな笑みを浮かべてそう仰るのは、わたしを安心させるためな んだろう。
けど、当分帰れないことには、変わりないのよね...。
でも、まあそれもしかたないか。頼みの綱の女神様達は慎重にならざるをえないし。

夢幻界の住人は誰も塔の中に入れないんじゃ.....って、ちょっと待ってよ。そ ういうことは、逆に言えば、そうじゃない人は入ることができるってことじゃないか しら?
だとしたら、夢幻界の住人じゃないわたしなら大丈夫なんじゃない?
思い付きのままにそう尋いてみたら。
「何とな?ううむ、確かに、夢幻界の理に支配されてはおらぬ嬢ちゃんならば、可能 かもしれぬ」
「だったら、わたし、が 」
行きます。と、最後まで続けることはできなかった。

「なりません!」
鋭い静止の声。
穏やかな春の陽のようなアクア女神様でも、こんな声を出すことがあるんだと思える 程に。
「今の夢幻界は、何が起こるかわからない状況にあるのですよ。どのような災いが降 りかかるか予測することも難しいでしょう。それなのに、敢えてあなたが危険を冒す 理由はありません」
言葉は厳しいものだったけれど、暖かな毛布に包まれているような、優しい心使い。 それがわかるだけに、異論を唱えることは、心苦しいんだけど。
「確かにそうかもしれません。でも...」
と、続けて口にする前に、またもや遮られた。
「己の力量を計れぬこと程、愚かなことはないな。お前の力でどれ程のことができる と思っているのだ」

「それは、確かにあんたの言う通りかもしれないわ。けど、わたしこういうの嫌なの よ。自分のことなのに何もせずに、ただ待っているだけなんて。他に方法が無いって いうのなら、話は別だけど。でも、ちょっとでも可能性があるのなら、それを試して みたいの。どんなことでも、始めからダメだって諦めてしまったら、全然前に進まな いじゃない。どうせ後悔するにしても、やらずに悔やむより、やってみてから悔やむ 方がずっとマシってもんでしょ」
冷徹なファイルの厭味にもめげず、一息に言いきる。一瞬の間を置いて、「ふぉふぉ ふぉ」と緊張した空気を和ませる、というより一気に霧散させるような、のどかな笑 い声を上げたのは、言うまでもなくグラスワード導師。

「勇ましいことじゃて。まあ、確かにお嬢ちゃん一人で『時空の塔』に行くのは、危 険なことかもしれんのう。何の助力もない状態であったらば、じゃ。じゃが幸いなる かな、我々にはそれを授けるだけの力がある。そうではありませんかの?御女神よ」
グラスワード導師の言葉を受けて、アクア女神様はしばらくの間瞑目した後、
「貴方 の志は貴いものです。けれど、前に進だけが正しき道ではありません。不可能な場合 は、退く勇気を持つことはできますね?」

女神様の言葉から、少なからず危険が伴うことは想像できる。でも、だからといっ て、そう簡単に前言を翻すことなんてできない。
それに“虎穴に入らずんば、虎児を 得ず”っていうじゃない。なんのリスクも払わずに、欲しいものだけ手にいれようと いうのは、甘い考えだと思うのよ。
危険は覚悟の上。でも、命まで掛けるつも気はさらさらないから、女神様が仰るまで もなく、危なくなったらさっさと退散するつもりだったし。
だから一言だけ、わたしは女神様にこう答えた。

「約束します。女神様」
「わかりました。どうやら、翻意を促すのは難しいようですね。『時空の塔』へ向か うことを許可致しましょう。しかし、いかに私達の助力があるとはいえ、不慣れな夢 幻界では戸惑うこともあるでしょう」
ここで一旦言葉を止めて、視線をファイルへと移して続ける。
「ファイル。貴方にお願いしたいことがあります。彼女に同行し、力になってあげて はくれませんか」
「私が、ですか?」
言葉の流れから、ある程度予想していたのだろうけど、内心の思いを表に出さなかっ たのは、さすがというしかない。
黙考するように、女神様の眼に入らぬよう巧みに避けたその顔は、これ以上はない程 の渋面だった。

...思いっきり、嫌なわけね。あんた。
「御女神の命ならば。いかようにも謹んでお受け致します」
てっきり断るととばかり思ってたんだけど、以外や以外。あっさり承諾するとは。
「感謝します。ファイル、貴方にそう言ってもらえると心強く思います」
「ふぉっふぉ。どうやら話は決まったようですの」
「グラスワード。具体的なことは貴方に任せます。よろしいですね?」
「お任せ下され」
一旦、決まってしまえば話は早い。わたしが口を挟む間もなくとんとん拍子に進んで 行く。

そして、旅支度をするため、わたしたちはグラスワード導師の館へと戻ることになっ た。
それぞれに挨拶をして女神様の部屋を出るときに、ふと眼にした女神様の表情は、な んといえばいいんだろう。妹であるレア女神様の身を案じていたときよりも沈痛で、 何だか堪え難い痛みを、無理に我慢しているように感じられた。
でも、それはほんの一瞬のことだったし、ファイルに急かされたこともあって、わた しはそれを意識の隅に追いやってしまった。

だから、考えもしなかった。アクア女神様が浮かべた沈痛な表情には、深い意味が あったのだなんて。



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