あれから、事態はいっこうに好転することなく、いまもってわたしは落下継続
中だったりする。
いろいろあがいてみたんだけど、いっかな状況が変わることも
事態を解決する手段もなかった。
これはもうさすがにダメかもしれないと、あきらめモードに入ったところで考
えたのが、せめて、痛くないように死にたいなあということだった。
いったいどこに落ちるのかなと、恐る恐る下を向いた私の眼に何やら、キラキ
ラ光るものが映った。
やがて、それが陽光を反射している水面であるということ
が判断出来るところまできて、私は焦った。
だって、このままいくと、確実に、冗談抜きにあそこに落ちることになる。し
かし、それはまずい。ひじょーに、まずい。
実は、わたし、浮輪なしでは泳げなかったりする。アニーあたりは、そういう
のを『カナヅチ』と言うんだって主張するけど、一応は浮けるんだからカナヅチ
じゃないもん。ぷんぷん。
て、いまはそういう細かいことをとやかく言ってる場合じゃない。
問題は、い
ま、わたしは、浮輪はおろか、それに替わるようなものも何も、持ってはいな
い。
つまりは、ほぼ、確実に溺れるだろうという、冗談抜きにしゃれになんない状況
にあるってことだ。
い、いやあっー!!そんなのはいやっっ!!
一応、諦めもしたし、覚悟もしたけど、溺れるのは嫌。痛いのも嫌だけど苦し
いのも嫌。いや、いや、嫌!!
神様、プリスは悪い子かもしれないけど、最後のお願いぐらい聞いてくれたっ
ていいじゃない。せめて、痛くないように、苦しくないように死にたいです。
わたわたしてる内にも、いよいよ水面は近づいてくる。
ばっしゃーんん!!
派手な水飛沫があがる。細かい水滴が舞散り陽光を反射する様は、実に美しく
幻想的なものであったかもしれない。
しかし、実際に水に突っ込んだ者にとっては、そんなもの何の価値もないし、
どうでもいいことだったりする。実際に、その光景を視ることもできないし。
そんなことよりも、いったい、どうすればいいんだろう。
水に突っ込んだその瞬間、フッと意識を失いかけたんだけど、しかしそれはほ
んの一瞬でしかなく、おかげでわたしはかなり苦しい思いをすることになった。
はう。実に、うらめしかったりする。こういうときは。自分の神経の丈夫さか
げんが。
いっそのこときれいさっぱり気を失ってしまえば良かったのに。そう
すれば、少なくとも苦しさを感じることはないだろう。
こんなところで、いまさら自分の性格を呪ってみたってしょうがない。という
より、そんなことを考えている余裕なんかない、ってのが正しい。
とにかく、しゃれになんない。苦しい。
溺れるのがこんなに苦しいだなんて、
初めて知った。いままで、そんな経験なんてなかったんだから、当然といえば当
然なんだけど。
よく、『溺れる者は藁をも掴む』と言うじゃない?わたし、いまは、その気持
ちが良く理解出来るわ。
ほんと藁だろうが、何だろうが掴めるものならば掴みた
い心境なのよ。
しかし、残念ながら、私の手の届く範囲には藁はおろか、それに替わるものは
何もなく必然的に、私は溺れるしかしかたがなかった。
もう、今度こそマジにダメだ。朦朧とした意識のなかそう思う。力なく吐き出
された息が小さな泡となって登って行く。
あれが水面にでるころには、わたしはもう溺れ死んでるんだろうなあ。と、ま
るで他人ごとのように感じたその瞬間、わたしは、水から抜け出ていた。
『スポン』てな感じで、小気味良い効果音さえ聞こえてきそうなほどに。
な、何だって、水の次にもいっぺん空気があるのよっ!
本来ならこう叫んでるところなんだけど、このときの私は残念ながらそうする
ことはできなかった。
だって、いきなり予告もなしに苦しいのから解放されたんで、とにかく新鮮な
空気を吸いこむことに必死だったんだもの。
ようやく人心地ついてふと見上げてみると、そこには、でっかい水たまりが、
浮かんでいた。
それは一つだけではなくて、そこかしこにふよふよと浮かんでい
る。
いったいなんなの?これ。
いま、自分が見ている光景が信じられない。いくら何でも非常識過ぎる。水が
空に浮かんでるなんて。
しかし、非常識だろうが何だろうが、眼に映っている光景は現実な訳で。納得
するしかないだろう。
ほんの一瞬、今度こそ夢オチじゃないかな、とも思ったけ
ど、残念ながらそれはありえない。だって、そう考えたすぐあとわたしは、身を
もってそれを確認することになったんだもの。
ザシャッ!ベキベキ。パキ。
勢いよく飛び込んだのが、今度は水ではなく、どうやら樹々生茂る森だという
のは、そのひょうしに折れ飛んだ枝切れや木の葉から、すぐにわかった。
ぺしぱし。枝や葉は容赦なく私の体を打つ。
これはかなり、痛かった。そう、
痛いということは、やはりこれは、夢ではなく現実だということなんだけど、こ
ういう事態でそれが確認できたところで、少しもうれしくなんかない。
そうよ、結局、この事態もどうにもならいということに、変わりはないんだか
ら。
そう思ったちょうどその瞬間、わたしは枝葉の間をようやく抜けたらしい。
木
切れが体を打つ痛みがなくなったから、たぶんそうなんだろう。
はう。しかし、雲の次が水で、その次が樹。
それじゃその次はいったい何が来
るわけ?とは言っても、ここまで来たらもう、大抵のもんじゃ驚かないけどね。
ドスンッッ!!
「ウギェッ!」
中に砂を詰めた麻袋を放り投げたような音は、わたし自身がどこかにぶち当た
った時に立てた音だというのはすぐにわかった。だってすごく痛かったもの。
しかし、その次の、呻き声とも、何かの鳴き声とも付かないものは何?
少なくとも、わたしが上げたものではない。
だってわたし、あんなお下品な声
上げないもの。だとしたら、それ以外のものってことになるんだけど...。
そう考えたときに、ふと気付いたの。わたしは周りの状況が先までとは違って
いることに。
先程まで、ずっと着きまとっていた、落下するときの一種の浮遊感のようなも
のが消えている。つまりは、落下が停まっている?
と、いうことは、行き着くところまで行ったのかとも思ったんだけど、そうで
はないことはすぐにわかった。
確かに、落下は止まってはいる。止まってはいるんだが、しかし、今度は、こ
れまた何が何だか、全然状況が理解できないんだけど、わたしは、とんでもない
スピードで横移動していたりした。
一番最初に眼についたのは、白くてサラサラとした髪の毛のようなもの。いっ
たいこれは何?と、上げた視線の先にあったものは、なんと、お馬さんの後頭部
だった!?
どうやら、白くてサラサラとしたものは、髪の毛ではなく、たてがみだったら
しい。
そしてそこまで納得して、ようよう気がついた。わたしは、白馬に乗ってい
た。
しがみ付いていたというほうが正しいかもしんないけど、とにもかくにもその白
馬が猛スピードで突っ走っていたりするのだ。
天国だろうが地獄だろうが、どっちでもいいけど、ここが属に言う『あの世』
とかいう場所であることは、ありえない。
そう、断じて。
だって、こんな非常識な『あの世』が存在してたまるもんですか。いや、『あ
の世』という時点ですでに十分非常識なんだけど、例によって例のごとくこのと
きの私の思考状態はまともじゃない。
またもやパニックてる頭でも、どうやら、助かったらしいということは理解出
来たんだけど、しかし、いったいどうする?この状況で?
とりあえずは、落っこちないようにしがみ付いてるしかないだろう。
このスピ
ードで落っこちたら、それこそしゃれになんない。
またもや、なりゆきに任せな
きゃならないのが、ちょっと情けかったりするけど。
とにもかくにも、白馬は走り続ける。
ふと、前を視ると、実にりっぱな大木が聳え立っている。
ただそれだけなら、
ずいぶんとでっかい樹だなあ、と感心するだけですむんだけど、あろうことか白
馬は、その大木に向かって突き進んでいたりするのだ。
「ほぎょきぇぇぇぇぇっ!!」
今の意味不明の叫び声は、間違いなく、わたしがあげたもの。
しかし、この状
況で、悲鳴をあげるだけで、正気を保っていられる神経の丈夫さかげんを心底恨
みたいわ。ほんと。
せっかく助かったと思ったのに、結局は、木にぶつかってこっぱみじんなん
て、
いくらなんでもひどすぎるうぅぅっ!!残酷すぎます。神様。
どんなに嘆いても、叫んでも、その結末に変わりはないだろう。
だって、白馬
は、いっそ、いさぎよいと言ってもいいぐらい、確実に大樹に迫っているのだか
ら。
ああ、いよいよこれで最期なのね。
ぽつり、心のなかでつぶやく。思えば短い人生だった。楽しいこと、嫌なこ
と、
いろんな情景が思いだされる。
走馬燈のように過去を思い出そうとした、んだけ
ど、幸か不幸かその必要はなくなった。
もはや、大樹まで後わずかと言うところで、いきなり、予告もなしに、白馬は
進路を変えたのだ。
猛スピードで直進していたのが、急に曲がったりしたら、上
に乗っているものはどうなるか?
“他の力が作用しないかぎり、進行方向に向かって直進運動を続ける”これを
確か、『慣性の法則』と言ったと思う。
しかし、よもやこんなところで身をもっ
て化学の実験をするとは、思いもよらなかたわ。ほんと。
って、しみじみ感心し
てる場合じゃないっ!!
おち、落ちるううううう!!
心の中で絶叫がこだまする。さすがに、実際声に出す余裕はなかった。
そんな
ことより、とにかく落ちないようにするのに精一杯だったもの。こんなところで
振り落されたら、それこそしゃれになんない。
とっさに手に付いたものに、ぐわしっとしがみつく。
同時に、ぶちぶちっっ、
てなんかやな音がして、握った指のすき間から、白く長いものが流れていった。
状況から察するに、白く長いものは、たぶん白馬のたてがみで、それがかなり
の量抜けたと思えるから、その結果は...。想像するだにこわい。このことは
敢えて考えるまい。無視よ、無視。
どうにかこうにか態勢を整え難を逃れることはできたんだけど、しかし、この
白馬いったいどこまで行くつもり?まさか、世界の果てまで突っ走るつもりじゃ
ないでしょうねえ?
そうも思ったんだけど、さすがにそこまでの根性も体力もなかったらしい。
白馬は、徐々に疾走るスピードを緩め、森の中の少し開けた所でようやく停止
した。
完全に止まったのを確認して、わたしはゆっくりと辺りを見回し、一瞬言葉を
なくしてしまった。
だって、すっごくきれいなんだものっ!!
わたしがいるのは、森の樹々が途切れて広場のようになったところで、目の前
には小さな泉がある。
頭上から指しこむ光が水面で反射して、その様はまるで、光の妖精が楽しげに
ダンスを踊ってるみたい。泉に湛えられた水は、驚く程に透き通っていて、その
中を泳ぐ魚の尾びれが虹色をしているところまで、はっきり見てとれる。
そして、泉の上を渡る風は、周りの梢を通ってきたからだろうか、緑の息吹が
感じられて実にさわやか。
とにかく、眼に映るもの、肌で感じるもの全てが、幻想的なまでにきれい!
今までのことなどすっかり忘れて、わたしはただうっとりと感動に浸ってい
た。
「降りろ」
その言葉が、耳に入ったのは、しばらくしてからだったかしら。
低く通る、まるで、天鵞絨(ビロウド)のように耳障りのいい素晴らしい美声。
その声が、明らかに苛立ちを含んでいることは当然無視して、わたしは、思わ
ず辺りを見渡した。
だって、あれ程の美声と来れば、当然そのお姿も美形のはずっ!ぜひともお近
づきに、それが無理ならせめて、お眼に掛かりたい。
夢見る乙女としては、当然
の反応。
しかし、残念ながら、周りには美形はおろか、誰一人居なかった。
あれ、おかしいな?空耳、だったのかな?周囲の景色のあまりの美しさに、幻
聴が聞こえちゃったとか?
しかし、そうではないことは、すぐに証明された。
「降りろ。と言っているのが聞こえないのか」
今度は、はっきりと、聞えた。その言葉が、誰の口から発っせられたのかも、
分かった。
喋ったのは、目の前にいる、私がその背に乗っている、白馬だった!?
......。
んなばかな。こんどこそ、これはゆめかもしれない。
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