魔導師と雪竜3.5(後編)
作:MIHO イラスト:雲水亭より



−星空−


それからしばし歩いて後のこと。
「それはそうと、あてはあるってぇのか?」
ダーさんの背中に乗ったまま、火精が尋ねた。
これは、何も火精が不精をしているわけではない。一応、火精は自分の脚で歩くと主張したのだが、ダーさんにあっさり却下されてしまったからだ。
「せっかくどすけど、あんさんの脚に合わせとったら、日が暮れてしまいますさかい」
と、言うなりダーさんは火精をくわえ、再び自分の背中に放り投げたのだ。
「ああ。心配おまへん。ちゃんとあてはあります。この山のてっぺんに物知りの樹精<エント>が居るゆう話しですねん」
先程の質問に対して、ダーさんが応えた。
勿論、その樹精が、彼等が飛ぶ方法を知っているとは限らない。しかし、どんなに些細なものであろうと、すこしでも可能性があるならば進むだけだ。
あくまで前向きな。というより、三歩歩いてしまえば、その前のことを忘れてしまう彼等にとっては、そのへんのところは苦にならない。
ダーさんの示す先、遥かな頂を眺め、やはり、自分の脚で歩かなくて正解だった。と火精が考えたその瞬間。
風の流れが止まった。
「そない簡単にはいかんみたいどすなぁ」
まるで、ダーさんのボヤキに応じるかのように、鋭い牙持つ獣、牙狼が現れたのだ。
低い唸りを上げながら、牙狼が迫る。その数十数頭。とてもではないが、逃げ切れるものではない。
即座に応戦の構えをとる火精。しかし、緊迫感のないダーさんの声が、それを留めた。
「大丈夫どす。あんさんが出る程のもんやおまへん」
そして、ダーさんは、ゆっくりと牙狼の群を見渡し。
徐に、カッと眸を見開き、威嚇の叫びを上げた。
それは、見るものの心胆を寒からしめる形相だった。
お気楽極楽。のほほんダーさんからは想像もつかないような、悪鬼のごとき面相だったのだ。
鬼気迫る、といっても過言では無い。否、それすらも生温いかもしれない。それ程の気魄を前にして、はたして、それに抗えるものがいるだろうか?
少なくとも、牙狼の群にはそのような強者はいなかったようだ。
「きゃぅん」と情けない悲鳴をあげると、牙狼達は、即座に退散した。
根性無し。と罵ることがだれに出来よう?
知らず、小刻みに震える身体必死に押さえながら、罵倒するでなく、火精は心底牙狼達に同情した。
相手が、悪すぎる。
あれを見て、動じることなく対処できるものなんて居ない。もしかしたら、彼と同じ使役精霊の水精<ウィンディーネ>ならば大丈夫かもしれないが。
それはともかく。このとき、火精は固く心に誓った。
何があろうと、ダーさんんを怒らせるのは止めようと。

「気付いていらっしゃいます。召喚主<マスター>?」
ゆっくりと周囲を見渡しながら風精が問う。
指摘されるまでもなく、既にそれに察していたディナウは短く「ああ」と応じた。
それ程旺盛ではなかったが、そこかしこに満ちていた獣達の放つ気配が消えていた。
否、完全に消滅したわけではなく、息を潜めているだけだ。まるで何かに怯えるかのごとく。
ただならぬこの状況は、すべてダーさんの鬼神のごとき気魄のなせる業であるのだが、当然ながら、ディナウ達がそれを知るよしもなく。ただ、尋常ならざる事態が発生していると察っせられるのみである。
「少し、辺りを見てまいりますわ」
「ああ、頼む」
ディナウが命じるまでもなく、風精が行動を起こす。さすがは、彼の使役精霊のなかで一番使えるというのはだてではないといったところか。
と、いうより、他のが圧倒的に使えないというだけなのかもしれないが。
しかし、その思考は敢えて排除している。それを認めるのは、あまりにも情けなさすぎるからだ。
無意識下で苦悶するディナウの足下では、雪竜が、犬のように尾をパタパタ振りながら彼を見上げている。
興味深々の瞳で、そこらへんを駆け回っていないのは、何も、火精のように飽きたからではない。ディナウの「待て」の命令があったからだ。
何か、扱いが犬並になっているように思うのだが、気のせいだろうか?
しかし、雪竜が不満を漏らしたりはしていないので、いいのだろう。多分。
しばらくは大人しくしていた雪竜だが、次第にじっとしていることに飽きてきたのだろう。しきりに辺りに眼を走らせる。その眸が、淡い朱色をした花に止まる。
「きれいなのだ。もっとちかくでみたいのだ」と、視線で訴えるが、しかしあっさり却下。
それでも諦めきれず、何度も『お願い光線』を出してみるが、気付かないフリを貫いているディナウにはなんの効果もなかった。
仕方がないので、そろ〜りそろ〜りと匍匐後進。実力行使に出ようとしたにだが、ディナウがそれを見過ごすはずもなく、あっさり敗北。
「大人しくしていろ、といったはずだが?」
微妙に凄みを効かせ、ディナウが雪竜を見下ろす。
「ごめんなさいなのだ」
しゅんと萎れる雪竜。
「まあ。召喚主<マスター>スノーさんを虐めたりしては駄目ですわ」
ちょうどその場面を目撃した風精が、抗議の声をあげるが、それには取り合わず。
「どうだった?」
「同じでしたわ。この周辺一体、もしかしたら、もっと広い範囲かもしれませんけど、皆さん“何か”に怯えるかのように、姿を隠していますわ」
偵察の結果を尋くディナウに、遅滞なく風精が応える。
「“何か”か。それらしいものは確認できたのか?」
「いいえ。この近くには居ないと思いますわ“何か”が一体どのようなものかわからないのですから、断言はできませんけれど」
申し訳なさそうに風精が応える。
「それで、どうなさいます。召喚主?このまま、先に進みますか?それとも、安全が確認できるまでここで待ちます?」
風精の言葉にディナウは思案する。
まったく読めない状況であるのだ。本来なら、慎重をきするべきなのだろうが。
しかし、すぐに、それがまったく意味のないことに気付いた。
用心しようがしまいが、厄介事は、来るときは来るのである。というようり、彼の使役精霊+雪竜が連れて来るのだ。もう、問答無用で。
つまりは、気を張り詰めるだけ無駄。疲れるだけ損というものだ。
「用心したところで、結果は同じだろう」
投げ遺りと言うなかれ、彼のこれまでの経験則がこの言葉を言わしめるのだ。
その苦労は、察して余りある。
それに、仮に、厄介事が発生したところで、冷静に対処すればいいだけのことなのだ。さして、問題は無い。と彼は、無理矢理自分を納得させた。
予想に反する事態が起ろうと、それに動じることのない冷静さ。そして、適確に状況を把握し、善後策を講じる判断力。望むべくもなく、ディナウはそれを身に付けているのだ。まあ、それくらいでなければ、彼等を使役することは出来ないだろうが。
「それも、そうですわね」
深く、重い意味を秘めた言葉は、何も、ディナウに対する同情の念だけではない。むしろ、自分自身に向けたものだろう。
苦労するのは、ディナウも、風精も同じなのだが、彼女の場合は、いざという時ディナウのフォローもせねばならないのだ。
もしかしたら、一番大変なのは、自分かもしれない。その思いを、風精は意識下に切り捨てた。そうでもしなければ、果てしなく憂鬱になるだけだろうから。
「では、先に進むぞ。それ程、時間に余裕があるわけでもないからな」
「わかりましたわ」
意を新たに先を目指す主従。
その前に、雪竜のささやかな好奇心は、当然のごとく無視されたままだったが、しかし、すでに興味が別のもの(目指す先。お山の天辺)に向いていた雪竜にとっては、なんの問題もなかった。

細く棚引く煙りと共に、肉の焼ける香ばしい匂いが辺りを満たす。
鼻歌混じりに、上機嫌でダーさんが焼け具合を確認する。
「よっしゃ。ええ具合どすな」
頷き、串に刺さった鳥肉を器用に喰べ始めた。
「あ、あんさんもどないどす?」
ふと、思い出したように、火精<サラマンデル>にも勧めるが。ぶんぶんぶん。と、折れんばかりに首を振り、丁重に御辞退申し上げた。
「お、オレ様は、せ、精霊だからな。そ、そんなもん喰わねんでぃ」
後ずさりなどしながら、そう言った語尾が震えているように感じたのは気のせいだろうか?
「そうなんでっか。ほら、残念どすな」
しかし、ダーさんはそれには気付かなかったのか、ひたすら食事に専念している。
仮に、火精が鳥肉を食べることができたとしても、あの、“狩り”の現場を目の当たりにしてしまったならば、同じように辞退していただろう。
それ程、凄まじいものだったのだ。ダーさんの“狩り”は。否、もはや、そいった次元のものではないだろう。あれは。

「陽も落ちてきましたし、今日はこの辺で休みましょか」
抜け落ちたように、木々の途切れた場所で立ち止まり、提案する。
むろん、火精に否やはない。
「ほな、食べるもん探してきますさかいに」
火精を地面に下ろし、ダーさんは徐に周囲を見回した。
その視線が、何かを見つけたのか、こんもりとした茂みのところで、ぴたり、と止まる。
きらりんと光る双眸。愉悦の表情を浮かべ、舌舐めずりをする。
それを、見た瞬間、思わず火精は後ずさった。理屈では、ない。本能的なものだ。
ダーさんはゆっくりと歩を進め、がさがさと無造作に茂みを掻き分け、標的を発見した。
そこにいたのは、羽根を傷め、飛ぶこともままならない一羽の山鳥。
ダーさんの視線が、ひたり。と山鳥に据えられる。
それは、明らかに獲物を見据えるハンターの眼。
山鳥は、必死に考えた。羽根を傷めてはいるが、無理をすれば、飛ぶことは出来るかもしれない。
しかし。逃げたところで、どうなるというのだろう?間違いなく、この大きな鳥は、自分の後を追ってくるだろう。大人しく見逃してくれるはずなどない。
その追跡は、いっそ、一思いに狩られた方が、遥かにマシかもしれないと思える程執拗なものになるはずだ。
何故か、そう確信できた。
理解したくはなかった。しかし。ダーさんから発っせられる、尋常ではないその空気が、それを否定することを許さない。
死ぬよりも辛い目に遭うくらいならば、いっそ。
さしたる葛藤もなく、山鳥は、それ程長くはなかった一生に、あっさりと別れを告げた。
ころり。と力無く、山鳥はその身を地面に横たえた。
「いやー。良かったどすわ。こないなとこにええ獲物が落ちとって」
嬉しそうな声を上げるダーさんに、「それは違うぜぃ」と否定することなどむろん、火精に出来るはずもなかった。当然のことながら。
しかし、これで終わりではない。驚愕すべき事態は尚も続く。
山鳥を啣えたまま、ダーさんは「ふんっ」と首の一振りで山鳥の息の根を止め、そのままの流れで、ぶんっと空高くそれを投げ上げた。
一瞬、目を閉じ、呼吸を整えたダーさんは、徐に小さな翼を目にも止まらぬ速さでもって震わせる。
すると、なんと!
彼の黒い羽根がこれまた高速の速さで空を飛び、山鳥を捕らえたかと思うと、その羽根を削ぎ落としたのだ。
薄皮を一切傷つけることなく、きれいに羽根だけを。熟練の料理人でもここまで出来るかどうか。という程の見事な包丁捌き、ならぬ羽根捌き!尋常ならざるその手腕。
放物線を描き、ゆっくりと落下してくる鳥肉(もはや山鳥にあらず)を視線の端で確認すると、ダーさんは、どこから取り出したのか、先の尖った枝を啣え、鋭い気合いと共に鳥肉目掛けて放った。
木の枝は、見事に真芯を捕らえ、そのままくるくると回転しながら落下し、とすっ。と軽い音を立てて、地面に突き刺さった。
流水のごとく、よどみない一連の所作に要した時間。僅か二呼吸。
しかし、筆舌に尽くしがたい、事態を目の当たりにした火精にとっては、永遠にも等しい一瞬だった。
「我ながら、上出来どすな」
自身の仕事振りに満足しながら、串刺し肉の回りに枯れ枝を集めるダーさんは、思い出したように、息を飲んだままそれを見守る火精に、ふと尋ねた。
「そういえば、あんさん火の精霊いうくらいやさかい、これに火着けることできまっか?よかったら、頼みたいんどすけど」
びくぅっ。と一瞬見を縮め、「そ、そのくらい、お、お易い御用だぜぃ」火精は、直ぐに枯れ枝に火を着けた。およそ、普段のずぼら振りからは想像もつかないような早さだ。
これを、ディナウが見ていたならば、「何故、俺のときにそうしない」と、憤慨すること間違いなしと思える程の。
「なんか、オレ様選択を間違っちまったような気がするぜぃ」
頼り無い呟きが口をつく。
およそ、後悔などすることのない(何せ、後悔する程覚えていない)火精らしからぬことだ。 実に旨そうに肉を喰うべるダーさんを眺めながら、ふと、空を見上げる。
澄み渡った夜空には、満天の星。
普段の火精ならば、絶対に、こんなことは口にはしない。何故なら、そんな情緒は持ち合わせてはいないからだ。しかし、今日このときばかりは、違ったらしい。
どうしてなのか、恐らく彼自身も理解してはいないだろう。意識することもなく、言葉は溢れ落ちた。
「星が、きれいだぜぃ」

「戻ってきませんわね」
火精が見上げた星空を、同じように見上げながら風精が呟く。
「ああ。そうだな」
面倒そうにディナウが応じる。
「あら、冷たいですわね。心配ではありませんの?」
「別に。一々あいつの気紛れに付き合っていたのでは身が持たん」
「まあ、なんて薄情なのでしょう」
なじる声には、クスクスと笑いが混じっている。
口調とは裏腹に、風精自身もそれ程心配してはいない。ディナウが泰然と構えているのは、火精の身に異常がないことを知っているからだ。
直接召喚した訳ではないが、召喚主と使役精霊には、無意識下の繋がりがあるのだ。
火精の身に何かあったのならば、ディナウが何の行動も起こさないはずはない。それは、断言できる。
なんやかやと言いながらも、そこの所は風精もディナウのことを信用している。
「明日も早い。オレはもう寝るぞ」
言うと、そのまま樹の幹に背を預け、眼を閉じた。彼の脇には、すでに雪竜が丸くなって安らかな寝息を立てている。
「はい。お休みなさいませ」
ディナウ達が、安全に休めるように張った結界を維持したまま、風精は再び星空を見上げた。
「それにしても、どこで何をしているのでしょうか?」
むろん、火精が、想像もつかない経験をしていることなど、風精には知るよしもなかった。



−譲葉−


太陽が中天を過ぎて暫く経った頃。
ダーさん達はようやく、目指す頂きに辿り着いた。
そこに至る道程は、艱難辛苦を極める、ものではなかった。幸か不幸か。
通常ならば、好い獲物がやってきた。と牙を研ぐ獣達も、ダーさんの常軌を逸した鬼気を前にしては、小鼠のごとく身を震わせるだけだったからだ。
だから、目的地に到着しても、それ程の感慨もなかった。
後は、樹精に知恵を授けてもらうだけ。と、勇んでいた火精達だが。
しかし。

確かに、そこには、精霊が宿るに相応しい大木が聳えていた。だが、緑萌える時節でありながら、その大木は一枚の葉も身に纏ってはいなかった。
ただ、枯れ、朽ちて行くだけの老木。その内には、弱々しい、今にも消えそうな生命しか宿ってはいない。
未だ、樹精はそこに宿ってはいるが、これでは、他者に知恵を授けることは難しいであろうことは、容易に察することができる。
「ど、どういう訳なんでぃ。これは」
火精の言葉に対する答をダーさんが持っているはずもなく。ただ、ふたりは沈黙したまま、そこに立ち尽くすしかなかった。

どれだけそうしていただろうか?
「何故、お前がここに居る?」
たかが一日余り。そうであるのに、無性に懐かしい声が火精に尋ねた。
「大将<マスター>!」
ダーさんの背に乗ったままの火精が驚愕の声を上げる。
火精と、・・・駝鳥。
何故、この組み合わせ?
疑問符が延々と頭の中を駆け巡る。
「召喚主。それよりも、急がれたほうがいいですわ。あちらの御老体には、あまり時間が残されてはいませんわ」
風精の言葉に我に帰るディナウ。
聞きたいことはある。なんとなく、あまり知りたくないような気もしたが。
あえて、それを無視し、
「事情は後で聞く」
と火精に告げ、老木の元に進む。
「随分待たせてしまったな。済まん」
ディナウが労るようにささくれた幹に触れると、それに呼応するように、消え入りかけていた樹精がその姿を現した。
−我ラニトッテハ、時間ハ在ッテ無イヨウナモノ。気ニ病ムコトデハナイ−
むしろ、ディナウを労うように応じる。
その穏やかさは、始めて会ったときと変わらない。それもそうであろう。ディナウが樹精と出会ってから今までの時間など、樹精にとってはほんの僅かなものでしかないのだから。
緩やかな時を過ごす樹精に変化を促すものでは、到底あり得なかった。
思い出の中に引き摺られそうになる意志を、ディナウは無理矢理切り捨てた。
語るべき、否、語りたい言葉はたくさんある。しかし、無情にもその為の時間は用意されてはいない。
「永き時を生きし者よ。今こそ『ヴォルトゥースの護り手』の名の下に、約定を果たさん」
消え行く命を長らえながら、ディナウの訪れを待ち続けた樹精。その想いに報いるべき術は、ただ彼の願いを叶えてやるだけだ。
決意を固めた彼に、もはや迷いはなかった。
「風精、サポートを頼む」
「心得ていますわ」
即座に応じ、風精は見上げる程大きな老木を結界で包み込んだ。
それを確認し、ディナウは腰に下げた袋の中から、指の先程の大きさの種子を取り出し、それを掌に乗せたまま、呪文を紡ぐ。
朗々と、途切れることなく紡がれる呪文。
それに導かれるかのごとく、老木に、残されていた精霊力が種子に流れ込む。
ディナウが行使している術。それは彼が得意とする移管魔法の一種だ。
“移魂”と呼ばれるものだが、しかし、それを知るものは、極僅かしかいないだろう。
というのも、この術が、一般的に行使されることはほとんどないからだ。
移すべき対象が、永き時を生きた樹精の命そのものであることから、扱いが非常に困難であることも勿論だが、何よりも“移魂”を必要とする程の高位の樹精(樹精の多くは、宿体である樹木がその天寿を全うすると、そのまま精霊界に戻り、精霊力の根源と合一し、眠りにつくとされている)の中で、他者の力を必要とするものが、ほとんど存在しないというのが、大きな理由である。
通常の場合、樹精は、己の力のみで術を行使する。しかし、稀に、何らかの理由で、それを不可能なものもいる。その時に補佐するのが、樹精と約定を取り交わした精霊魔導師の役目なのだ。

太陽の残滓を夜の闇が覆い尽くす頃、漸く“移魂”の術は終了した。
疲労し、地に腰を下ろしたディナウの視線の先、そこに朽ちかけた老木の姿は既に無く。かつての雄々しい姿を知る彼にとっては、甚だ頼り無く思える幼木が在るのみである。
樹精は、いまこの幼木の中で眠っているのだ。
もはや、再び、ディナウが彼に会うことはない。
幼木が成長し、樹精が目覚めるまでには、それこそ気の遠くなる程の時を必要とし、なおかつ、目覚めたとしても、樹精が、かつての知識を全て取り戻す為には、これまた、永い時を要するだろうからだ。

「つまりは、オレ様の苦労は、水の泡ってぇわけか」
「そういうことみたいどすなあ」
火精と、ダーさんは、示し合わせた訳でもないだろうに、同じように溜息を吐いた。
これまでの事情を聞く限り、火精はまったく苦労したようには思えないのだが、ディナウも、風精もそれを指摘するようなことはしない。
「残念でしたわね。でも、樹精さんがお目覚めになったとき、もう一度聞きにくる・・・のは、無理ですわね」
精霊である火精はともかく、あくまでただの駝鳥(思いっきり語弊があるかもしれないが、それは気のせいだろう。多分)に過ぎないダーさんには、いくらなんでも、それは不可能だろう。
「げんきをだすのだ。ぼくもずっとおかあさんをさがしているけど、いつかきっとあえるのだ。だから、ダーさんもだいじょうぶなのだ」
ぽんぽんと、ダーさんの頑健な脚を叩く。(雪竜的には、よしよしとしているつもりらしい)
「あんさんも、大変どすなあ」
しみじみとそう言うダーさんを、雪竜はニコニコと見上げる。
気を良くした雪竜は、同じように火精も励まそうとしたのだが、「こっちに来るんじゃねぃ!」と、速攻蹴散らされてしまった。
それでも懲りずに再トライするが、火を吹き追い返される始末。
しかし、それくらいでメゲる雪竜ではない。むしろ、逆効果だ。
完璧に、遊んでくれるものと勘違いして、再び近付く雪竜。それを嫌い逃げる火精。更にそれを追う雪竜。
いつのまにか、ぐるぐると追い掛けっこを始めた雪竜達を眺め、
「はぅ。よく飽きませんわね」
溜息を吐いた。
それぞれの想いを秘めて、夜は更けていった。

「わては、諦めまへんで。今回があかんかっても、次がおます。まあ、気長に別の方法を探しますわ」
これからどうするのか、との問に決意も新たにダーさんは宣言した。
「そうか。こいつがいろいろと世話になったな。礼を言う」
と頭を下げる。
「嫌でんがな。旅は道連れ。世は情け言いますやろ。あんさんとはここでお別れどすな。寂しおますけど」
「ちょいと待ちねぃ。オレ様は大将のとこに帰るなんざー、一っ言も言ってねぃぜぃ!勝手に決めるんじゃねぃやい!」
別れを告げるダーさんに、火精は捲し立てた。
大見得を切った手前、そう簡単には戻れない。ただ、たんに意地を張っているだけだ。
「ああ言ってますけど、どうなさいます?」
やれやれですわ。と風精。
まったく、いい加減にしろ。と怒鳴るのは簡単だ。しかし、そんなことをすれば、火精はますますヘソを曲げるだけ。
「構わん。行くぞ」
冷淡に応じ、あっさりと踵を返す。
むろん、本気ではないことは、風精が抗議の声を上げないことからも明らか。
「待ってください。召喚主。さあ、スノーさん参りましょう」
雪竜を促し、風精が後を追う。
「いいのかな?」と首を傾げながらも、置いてきぼりは嫌なので、素直に後に続く。
彼等の行動は、火精の寂寥感を殊更煽った。そして、それが限界点を越える瞬間を見計らったように、ディナウが足を止めた。
「いつまでそうしているつもりだ?」
半身だけ振り返る。そして、短く一言。
「戻れ」
その言葉を受けて、
「しようがねぃ。そんなに言うんなら、戻ってやるぜぃ」
口調とは裏腹に、嬉しそうに、短い四肢を動かし、ディナウの下に走る火精の後ろ姿に、ダーさんが言葉を掛けた。
「ほな、お達者で。おさらばどす」
「おう。ダーさんもな」

「なんじゃ。赤<サラマンデル>はそのようなものを探しておったのか?」
事の顛末を語る火精に、黄金の巻き毛、深い菫色の瞳を持つ可憐な少女は、心底呆れたというようにそう言った。
火精と同じくディナウの使役精霊たる光精<ウィスプ>である。
「ムッ。そういうおめぇだって翼はねぇだろうが」
「確かにそうじゃ。じゃが、わらわはそのようなものなどなくとも、空を飛ぶことができるのじゃ」
グチる火精に、光精は得意満面と応えた。
「なんだってぃ?」
疑念の眼差しを向ける火精に、光精は「疑うでない」と一喝し続ける。
「簡単なことなのじゃ。これ、じい。こちらに来てたも?」
「ホッ?なんぞ用かの光嬢<ウィスプ>?」
光精の呼び掛けに応えてこちらへとやってくるのは、成人男性の背の半分はあろうかという大きさの、苔むした甲羅を持つ亀、土精<ノーム>である。
「じい。わらわと赤を乗せて飛んでたも」
言いながら光精は、さも当然のように、巨大な土精の甲羅の上によじ登った。土精が自分の願いを断るなどと、寸毫も考えていないのだ。
「ホッ。簡単なことじゃぞい。ほれ、早う火童<サラマンデル>も乗るがよいぞ」
躊躇う火精を「早くするのじゃ」と光精が急き立てる。
「よいかの?」
火精が甲羅の上に乗ったことを確認すると、土精はふわりと浮き上がった。
何の予備動作もなく。無造作といってもよい程自然に。
常識的に考えれば、翼もなにも持たない土精が、空を飛ぶとは考えられない。しかし、高位、上位格の精霊にとってはこのくらいは造作もないことだ。
光精に乞われるままに飛行する土精の上で、火精は呟いた。
「なんでぃ。空を飛ぶなんざぁ簡単なことじゃねぇか」
自分の翼で空を飛ぶ。
根本的なところで、火精の願いは叶えられてはいないのだが、幸か不幸か、火精がそれに気付くことはなかった。


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