March,2009
ブダ地区(王宮周辺)
夜、アムステルダム経由で、ブダペストのフェリヘジ国際空港へ到着。手荷物を受け取ると、ハンガリーもシェンゲン協定に加盟しているためか、チェックもなく入国。
小さい空港のためインフォメーションセンターもすぐに見つかりました。
『ブダペストカード 48h』をキャッシュで購入。クレジットカードは使用できないとのこと。
購入時にいつから使用するか時間まで聞かれ、カード裏面に、日と時間を手書きされました。
日本語の無料のガイドブックをお願いしたら、こころよく出してくれました。
空港を出ると、すぐ正面に『Zona Taxi』の乗り場があり、料金を聞いて、納得。
乗り際に、帰りのタクシーのためにと、電話番号とゾーン分けされた料金(ユーロとフォリント)が書かれたカードを渡されました。
タクシーはエリザベート橋をブダ側に渡り、ドナウ川沿いのプチホテルに到着。
ホテルヴィクトリアは、1Fフロント横の部屋で、ドナウ川を眺めながら食事ができます。
食事を済ませ、ドナウ川沿いをくさり橋に向かって歩いていきました。
セーチェーニくさり橋 (The Szechenyi Chain Bridge )
ドナウ川はかつて渡し舟で人を運んでいました。
15世紀初め、舟をつなげた橋がかけられましたが、流氷の頃になると、ブダ側とペスト側の交通手段は完全に分断されていました。
イギリスで、設計技師ウィリアム・クラーク(William Tierney Clark)の設計したくさり橋を目にしたセーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵は、資財を投じて、彼に設計を依頼。1849年に、イギリス人ウィリアム・クラークとスコットランドの建築家アダム・クラーク(Adam Clark)の手によって橋は完成しました。
第二次世界大戦下、ブダペストを撤退するドイツ軍によってドナウ川に架かる橋はすべて破壊されましたが、その後修復。エリザベート橋だけは破壊がひどく、1965年に新しい橋が架けられたとのこと。
王宮 (Buda Castle)
13世紀半ば、モンゴル軍の侵攻で荒らされたあと、ハンガリー王ベーラ4世(Bela IV)はこの丘に石壁の城を建て、都をこの地に移しました。
16世紀半ば、オスマントルコ軍によって占領され、城の攻防戦や火災、地震などで城は破壊されました。
150年のトルコ支配ののち、18世紀初め、ハプスブルグ家の王政下となり、現在の姿に近いバロック様式の宮殿が造営されました。
その後、第二次世界大戦下で焼失し、現在の姿に再建されたとのこと。
王宮の丘には、ケーブルカーに乗って上がるつもりでしたが、運行していなかったので、小道をのんびり歩いて上がることにしました。
ドナウ川に浮かぶ中州の島と橋はベーラ4世の王女マルギット(Saint Margaret)にちなんで名づけられたとのこと。
王女マルギットはこの地に建った修道院に尼僧として入り、短い生涯を終えたそうです。
マーチャーシュ教会 (Matthias Church)
ペーラ4世によって建てられたロマネスク様式の教会。
15世紀にハンガリーの最盛期を築いたマーチャーシュ1世(Matthias I)によって、ゴシック様式に改築されたことから、名づけられました。
マーチャーシュ1世はここで2度の結婚式を挙げています。
オスマントルコの占領時にはモスクに改装されましたが、17世紀に、再びカトリック教会に戻ったとのこと。
19世紀末の修復で、現在のネオゴシック様式の姿になったそうです。
マーチャーシュ教会前の広場には、1709年にペスト大流行の終息を記念して建てられた三位一体像や、ハンガリー王国を築いたイシュトバーン1世( Istvan I)の騎馬像があります。
広場は、トイレ休憩のための中国からのツアー客であふれていました。
漁夫の砦(Fisherman's Bastion)
1905年、建国1000年を記念して建てられたネオロマネスク様式の砦。
7つの塔は9世紀にカルパチア盆地を占領したマジャルの7部族の名前がつけられています。
この場所は中世、魚市が建っていた広場で、この名前が付けれたそうです。
漁師のギルドが城のこの部分を守る義務があったそうです。
王宮の北の入り口であるペーチ門から、ペスト側に渡るため、地下鉄2号線の駅バッチャーニ・テール(Batthyany tel)に向かうことにしました。
名前はわかりませんが、バッチャーニ広場にある2つの塔のある教会を目指して丘を降りていくと、迷わず到着することが出来ます。