The Sweet Pain.5












 居酒屋を出ると、凍えるような寒さを感じた。
「寒っ」
 ひとりごちて、智史は少し後ろにいるあきのをちらりと見る。
 あきのは沈黙している。
 携帯を取り出して時刻を確認すると、19時半を過ぎたところだった。
「あきの、タクシーで帰ろう」
「・・・うん」
 普段なら絶対に使わないが、今日はその方が安全だろうと判断してのことだ。
 それ程、あきのの様子はいつもと異なっていた。
 駅前まで出ると、簡単にタクシーを拾えたので、あきのの自宅の住所を告げて、向かってもらう。
 タクシーが走り出して、暫くは無言だったが、最初の信号で止まった時に、智史は口を開いた。
「クラスの、飲み会だったんか」
「・・・うん」
「何飲んだ」
「・・・・カクテル、2杯」
「2杯・・・お前にしちゃ、多いな」
 あきのが普段は殆ど飲まないのを、智史は知っている。それに、カクテルは強いお酒をベースにしていることが多く、度数は結構高いのだ。
「食いもんは? 食べたか、ちゃんと」
「・・・うん、それなりに、食べたと思う」
 それならば、悪酔いしていることはないだろう。単純に、彼女がアルコールに弱いだけだろうと推察出来、智史は少し安心した。
「・・・で? 何で俺が話題に上ったんだ?」
 あきのはびくり、と肩を震わせる。
 智史にどう答えていいのか、判らない。
 それに、ただのサークル仲間、と言われはしたが、智史は先輩の女性を名前で呼んでいた。
 ただの先輩を、そんな風に呼ぶものなのだろうか?
 あきのの思考はぐるぐるとマイナス方向に回っていく。
「・・・あきの? 寝ちまったのか?」
「・・・起きてる、もん」
「なら、答えろよ。あの男どもと俺の話、したんだろ?」
「してないよ、そんなの」
 あきのは断定的に語られる言葉に、いつになく反発の気持ちが湧きでていた。
「話したのは、榎本さんと、松村さんと、だもん。あの人たちは、聞き耳立ててただけ、って言ってたもん。それに・・・智史だって」
「・・・俺が、なんだ」
 冷静に聞こえる智史の声が、あきのの癇に障った。
「あの、綺麗な人・・・先輩って、言ってたけど、本当にただの先輩なの?」
「あぁ? 綺麗なって、毬乃先輩のことか?」
 再び智史の口からその名前を聞かされて、あきのの胸がずきり、と痛む。
「・・・なんで、名前なの?」
「は?」
「ただの先輩の名前を呼ぶの? 智史は」
「あきの・・・」
 声に涙が混ざっているのを聞き、智史は彼女の肩が震えているのに気づいた。
「・・・言っとくが、俺だけじゃないぜ、毬乃先輩を名前で呼ぶのは。基本、うちのサークルは名前で呼ぶ方が多いからな。俺は苗字の方で呼ばれてるけど、同期の晃基以外には」
「・・・でも、毬乃さん、って呼んだじゃない、智史」
 咄嗟の一言をしっかり聞かれていたようで、智史は一瞬言葉に詰まる。
 しかし、それに他意はない。そこだけは説明しておこうと思った。
「今の2年が入ってくるまでは、俺と晃基はそう呼ばされてたんだよ。『先輩とは呼ばれたくない』って理屈つけられて、毬乃先輩って呼んでも返事してもえなくて、仕方なく。けど、後輩が入ってきて、さすがに一人だけ『さん』づけじゃおかしいからって、無理矢理納得してもらった。ただ、たまに、気が緩んで1年の時の習慣が出ちまうだけだ」
「・・・じゃあ、誘惑って、何? あの人に迫られてたってことなんでしょ?」
 あきのの目から涙が一筋、零れ落ちた。
 毬乃は、あきのの目から見ても華やかな雰囲気の美女だった。身長は160cmあるかないか、くらいのようだが、プロポーションは抜群で、容姿に自信があるように見受けられた。
 自分の容姿には自信のないあきのとは、放つ輝きが違うと感じた。
 そんな美女に誘惑されたなら、智史とて心が揺らぐのではないだろうか。
「お前、毬乃先輩の言葉、ちゃんと聞いてたか?」
 智史はいささかムッとしてあきのに言い募る。
「俺は毬乃先輩を『先輩』以外の目で見たことはねえよ。確かに、誘われたことはあるけどな、突っぱねた」
「誘われ、たんだ・・・やっぱり」
「・・・あきの」
 智史は今度こそ、あきのを睨む。
 ただの先輩後輩でしかないと言っているのに、あきのは何か勘繰っているとしか思えない発言をしている。
「だから、何の関係もないって言ってるだろ。そんなに俺は信用出来ないか?」
 少し強い調子で言うと、あきのはびくり、と肩を震わせる。
「だって・・・・・とても、とても綺麗で、大人っぽくて・・・私とは全然違う人じゃない・・・私みたいに、面倒くさい女より、ずっと・・・」
「・・・何だよ、それは」
 智史が強くあきのの手首を掴む。
 痛みすら感じるその力に、智史の怒りを感じて、あきのはぎゅっと目を瞑った。
 その時、タクシーが椋平家の門の前に到着する。
 智史は代金を払うと、あきのの手首を掴んだままで降りた。
 外灯は点いているが、しん、とした椋平邸に、智史はぶっきらぼうに問う。
「倫子さんと悠一郎は?」
「社員旅行で、今頃は沖縄。明後日にしか帰ってこないわ」
「留守か・・・親父さんは、仕事、なんだよな? 多分」
「だと思うけど・・・判らないわ、父のことは」
「・・・そうか」
 まだ、あきのに聞きたいことはある。しかし、家人が留守の家に上がり込むのは褒められたことではない。
 智史は逡巡しながら、言葉を探す。
 沈黙の時が流れ、それに耐えられなくなったのはあきのの方だった。
「智史はもう、私のこと、好きじゃない・・・?」
「何を・・・」
 予想もしない言葉に、智史が瞠目すると、あきのはポロポロと涙を零し始めた。
「あきの・・・」
 智史は周囲に目をやる。あまり人通りのない道ではあるが、このままここで泣く彼女とあれこれ話をするのは良くないと判断し、あきのに声をかける。
「話の続きは中だ。少しの間だけ、邪魔するぞ」
 門扉を開けて、敷地内へと入る。アプローチに配置されている花たちは、外灯にぼんやりと照らされているがどこか寂しげだ。
 玄関の鍵をあきのに開けさせ、智史は一緒に中へと入る。
 玄関ホールに明かりをつけ、そこで改めて、しゃくりあげているあきのの顔を見つめた。
「何で俺がお前をもう好きじゃないなんて発想が出て来るんだ」
「だから・・・私のこと・・・面倒くさいって、思ってるでしょ? ただの先輩って言われたって、あんな綺麗な人が智史の傍にいるなんて、すごく嫌! 私なんか・・・綺麗じゃないし、大人っぽくもないし、おまけに、手も出してもらえない・・・」
「あきの・・・」
 明確に嫉妬していると言われ、智史は驚きと共に、何とも言えない愉悦を覚える。だが、「手を出してもらえない」というのは見当違いもいいところだ。
「あのな、俺がお前に手を出さないのは、親父さんとの約束があるからだ。お前が嫌いだからじゃないぞ」
「でも、男の人は、すぐに手を出したくなるものだって聞いたわ! でも、智史はそんなことない。それは、私が好きじゃないからでしょう? それとも、他の女性で発散してるから?」
「お前・・・」
 何だか、色々と腹が立ってきた。
 智史の胸の内に暗い欲望が灯る。
 多くはないとはいえ、智史もまた、アルコールを体内に入れている。冷静に、と努力しても、普段より箍が外れやすくなっていた。
「そんなに、手を出されたいか?」
「え?」
 一瞬瞠目したあきのが智史の顔を見上げると同時に、唇が塞がれた。











 

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